学校の先生をしている夫の生徒への「指導」の考え方の変容 その1
学校の先生をしている夫です。
教育実習のシーズンになり、夫の学校にも実習生が来ているそうです。
妻の私が持つ、学校の先生のイメージ。
〇朝から叱っている怖い先生がいる(体育科か、運動部の顧問)
〇叱られた生徒の話を聞く先生がいる(案外、担任の先生)
〇とにかく熱い先生がいる(新規採用の先生に多いかも)
〇いつも微笑んでいる年配の先生がいる(言葉遣いが丁寧)
〇授業はとても分かりやすい(けど、怖い先生)
〇一方的に喋ってばかりの先生(授業の内容もよく分からない)
etc.
夫もそのいずれかにあたるのだろうな、と思っていました。
家庭での夫の姿と学校の先生の姿は違う、というのは本人談。
採用当初はとにかくガムシャラに授業に臨んでいたそうです。
そういう点では、いわゆる「熱血漢」タイプだったのだろうと思います。
採用されたとき、生徒部に配属されていたため、子どもたちの中に問題行動があったときは飛んでいく役割を担っていたのだとか。
その後、子どもの状況の聞き取りのとき、生徒に同じ轍を踏ませないため、間違っている行動を取ったときは叱っていたそうです。
(たぶん、かなり大声だったのでしょう。)
ただ、ある時に出会った本を読んで、夫自身のそれまでの行動に疑問を抱くようになったそうです。
その本がこちら。
2021年の『犯罪白書』(法務省)によると、再犯率は34.7%、つまり、3人1人は再犯(再非行)をしているそうです。
ここまで再犯率が高いのはなぜか?
この本ですが、少年院に入っている「非行少年」の「更生プログラム」をみている宮口先生の知見をふんだんに語っている書籍です。
少年院の中で、単に「反省しているのか?」と質問する教官に対し、「すみませんでした」と言い続ける「非行少年たち」。
ただ、「すみません」としか言えない環境の中で、何が悪かったのか、反省しているのか、ということにフォーカスできているのだろうか?といったことを論じてくれています。
夫はこの書籍を読み、これまでの「指導」を振り返り、かなり思い悩んだそうです。
そもそも、夫が叱っていたことを子どもたちは理解していたのか?
もしかすると、子どもたちはその行動そのものを「悪い」と認識していないにもかかわらず、子どもを叱り続け、単に「反省」を強要させていただけではないのだろうか?
これは教師の「自己満足」に他ならないのではないか?
そうなると、ことばだけの「反省」が持つ意味が先生が期待しているものと全く違うものになってしまうかもしれない。(形だけの「反省」になっているのかもしれない。)
つまり、子どもが同じことを繰り返す土壌を全く変えていない要因を作っていたのは夫や学校の先生ではないだろうか?
夫の結論として、これまでしてきた「指導」という名の行動は誤っていた、となったそうです。
そこで、夫が始めたこと、それが子どもの成長の「支援」です。
例えば、問題行動をしていた子どもに対し、「指導」として、「それはやったらダメだろ!」「なぜ、前後を考えずにそんな行動をしているんだ!」という叱責することから始めることは止めたそうです。
まずは、その子どもが起こした、いわゆる「問題行動」に対し、次のことを尋ねるそうです。
〇その(問題)行動をした理由
〇その(問題)行動をしたら、どうなるか、考えているのか?
〇逆に、その(問題)行動を他人からされたら、どのような気持ちになるか?
この時点で、その子どもが問題であることを認識しているのか、を確認するそうです。
それが問題である、と認識していなければ、その行動が誰かを傷つけたり、嫌な気持ちになったりすることをわかるように伝えることから始めるのだとか。
逆に、それが問題だと認識しているのであれば、その行動を起こした背景・要因は何なのか、例えば、友だちや家族との間で何らかの課題が発生した、とか、部活動や課外活動が上手くいかなかった、とか、こういったことを確実に聞き取ることをするそうです。
(問題)行動をしたことが悪い、と一方的に叱ることは簡単ですが、それを繰り返さないようにするにはどうすればよいのか、子どもとともに考え、それを行動に移すことができるようにすることが本来の「教育」であり、学校の役目である、と考えているそうです。
子どもは経験から「学ぶ」ことができる存在、と考えています。
だからこそ、「失敗」した(問題行動をした)ことは単なる通過点に過ぎない、と言います。
ただし、例外はあるそうです。
それは、
〇他人や自分の命に関わる行動・言動をしたとき
〇明らかに人権侵害となる言動・行動をしたとき
これに関しては、その後のその子どもや周りの子どもの人生に大きな爪痕を残すため、「絶対ダメ!」と叱るそうです。
「君のその『行動』は許せない。君ではなく、その『行動』だ。絶対にしてはいけない!」と伝え、その後の行動を繰り返すことのないよう、じっくり話すそうです。
勿論、夫が一方的に伝えるだけでなく、どのようなことがまずかったのか、今後、どのような行動が求められるか、これを子どもが自分のことばで表現できるまで、話は続けるそうです。
これが夫のいう「『指導』はできないが『支援』は最大限する」東井言葉の定義なのだそうです。
自宅で父親をしているときも、自分の子どもに接するときも同じようにしているように感じます。
自分の子どもでも、叱るときはしっかり叱ります。
きょうだいで、上の子が下の子に対し、「パパ、怒っちゃうよ」と言った姿を見て、やはり父親は畏怖の存在なのかもしれない、と感じました。
ただ、無暗に叱り飛ばす、ということはありません。
「これをすると、相手はどう思う?」
「自分がされて、嬉しい?」
と学校での言葉とは違うかと思いますが、うちの子どもであれ、まずは子どもの考えを聞くことからはじめています。
その考えを聞いても、子どもが納得いくまで、最後まで話します。
正直、時間はかかるので、そばにいる私も煩わしいと感じることもあります。
それでも、子どもが納得するまで話をするので、子どもなりに考えて、「ごめんね」と自分から言うことが多々あります。
自宅でもこの調子ですから、学校でも同様なのでしょう。
このようなことが増えれば、心身とも疲れは溜まることは目に見えています。
それでも「子どもたちの成長は、子どもたちだけでなく、その周りの皆の未来をつくってくれることだから譲れない。」
このように話している以上、夫なりの教育観は最大限尊重したいと思っています。
でも、子どもたちや家族だけでなく、自分の身体も心も大切にしてね。