学校の先生をしている夫の生徒への「指導」の考え方の変容 その2
学校の先生をしている夫です。
夫は、学校の「指導」という言葉は嫌いだと言います。
先日の記事で、問題行動を起こした子どもに「反省」させることの前に、
その子どもが行動を「問題」と捉えているのか、という点が欠如したまま、「反省」させても効果は少ないと考えるようになった、と書きました。
今回はその後の夫の話になります。
何の気なしに新聞を読んでいた夫が、急にスマホを取り出し、何かを注文していたことには妻の私は気付いていました。
その時、夫が注文したのはこの本でした。
東京都千代田区立麹町中学校 前校長 工藤勇一先生が書いた本です。
この本が出版された2018年頃から、工藤校長もメディアに出る機会もかなり多かったため、ご存じの方も多いかもしれません。
本の名前の通り、工藤校長が在任中、通常の学校で「当たり前」に行われていることを抜本的に止めたことについて書いています。
例えば、校則やめてみた。
髪の毛の染色は問わない、私服の登校もどうぞ、定期考査も廃止、
修学旅行も行き先は同じであれど、そこで何をするかは自分たちで考え、旅行会社にプレゼンテーションを行い、助言をもらう・・・
とても学校、それも公立中学校でなくなることは考えられない、という声も多くあるかと思います。
ところが、こういった生徒を「拘束」するものが無くなるからこそ、つまり、自由であるからこそ、自分(たち)が何をするのか、どういった行動が必要なのか、考えることにつながるのだそうです。
子どもたちがその成長過程で、どのような力を身に着ける必要があるのか?
そのためには何をしなければならないのか?
できない生徒をそのままにしていいのか?
本来ならば、学校の先生が考え、それを「指導」することかもしれませんが、こちらの中学校に通う生徒はそれを主体的に考え、先生も巻き込みながら中学校生活を創っている、そのような中学校なんだそうです。
この本を読んだ夫は、本来、学校の先生が向かうべき方向性はこれではないのだろうか?
世間が作り上げた「先生」の姿になるため、やたら「指導」することばかり考えた「先生」になっていたのではないだろうか?
このような学校の先生の「あるべき姿」について、気付かされた本の1冊なんだそうです。
この本を読んで、その前に読んだ『ケーキの切れない非行少年たち』 (新潮新書)の内容も相まって、学校の先生の方向性を大きく舵をきったそうです。
それが、「指導」ではなく「支援」である、ということ。
子どもは大人が手を掛けなくても、成長していきます。
ただ、手の掛け方によってその成長の度合いは進むこともあれば、後退することもある、というのが夫の考えです。
この頃、夫は工藤勇一先生の著書や関連書籍、「教師」論(といえばよいのでしょうか?)その類の著書を読み漁っていました。
また、工藤校長が在任中の麹町中学校は、先生方や教育関係者、政治家に学校公開していました。
夫もその機会を狙って、麹町中学校に訪問し、実際に工藤校長の話を伺ってきました。
あの日、帰宅した夫は、すぐには麹町中学校のようにはできない、とため息はついていたものの、このような教育、学校づくりにやる気が満ちていたように私は感じました。
蛇足ですが、この頃、夫は「うつ」を発症し、投薬の生活をしていましたので、学校の先生をすること自体にも生徒と本気でぶつかることができないことを嘆いていた頃でした。
工藤先生の話を伺い、夫自身が目指す新たな道標ができたようです。
夫が学校の先生であるとき、大切にしていること、
「子ども・教師の行動に目的を持つこと」
・・・子どもに対し、「〇〇しなさい」ではなく、「△△するとどうなる?」といった質問を繰り返すことで、子どもと目的を共有すること
「目的を手段としないこと」
・・・「ルールだから守りなさい」といった学校の先生が説明できないルールを無くす。子どもに「ルールを守らせる」こと自体が目的にさせないこと
このようなことを考えながら、子どもの成長を「支援」する先生でありたい、と話しています。
「開かれた学校」と言われ、久しい今日ですが、夫の考えが子どもたち、先生方、お家の方々と共有できるようになることを私は願っています。