教育実習を受けている「先生」への激励(実習を受け入れる夫の思い)
学校の先生をしている夫です。
いま、学校には教育実習生が来ているそうです。
今回、夫のクラスに大学生が入ることになったのだとか。
いわゆる一般企業のインターンシップの一環とはいえ、実習に来ている学生もかなり緊張をしているそうです。
それも当たり前。
つい先日までは、一人の大学生でしかなかったのに、実習校にきたら、「〇〇先生!」と呼ばれるわけですから。
夫も夫で、本来なら教室の前方でチョーク(いまはパソコンなのかな?)片手に、授業を進めている役目もいまはお預けの状態。
教室の後ろに椅子を持っていき、そこで授業を見ているわけですから、教育実習生以上に、夫も非日常の日々となっているそうです。
そういった点では、夫も学生の初々しさを垣間見ることができて嬉しいのかもしれません。
ただ、曲がりなりにも、その学生が「先生」と呼ばれるわけですから。
「この場面、子どもの表情を見たら、〇〇するに決まっているでしょ。」
「・・・ここでその言葉遣いはマズいでしょ!」
という思いをぐっと堪えながら、実習を見ていた先輩先生の夫。
ホームルームや授業での実習生の仕草、言葉遣い、黒板に書く漢字の書き順でさえ、子どもたちは見ているので、ハラハラの連続でしかないそうです。
ただ、これまでの実習期間の実習生の様子を見て、ふと気付いたそうです。
「実習生が授業や子どもたちとの対応でつまずいたところが、自分(夫自身)も経験したことばかりだ!!」
夫が学校の先生になって十数年が経ちました。
当たり前のように、夫が子どもたちと接しているときに意識していることも、夫が数々の場面で経験し、培ってきたこと。
いくら大学生が大学で研究をしてきた、教授から指導を受けてきた、とはいえ、場面の数が絶対的に学校の先生である夫の方が多いわけです。
ただ、その一つひとつの経験がその時はどうにもならなかったものでも、その経験を生かして、今の子どもたちと向き合う土台になっていることに違いありません。
夫が授業を参観していて、「俺に授業させろ!」という思いがないと言ったら嘘になるでしょう。
授業時間も、「今の説明は、こういう意味だよ。」と言いたくて、椅子から立ち上がることもしばしばあるのだとか。
(立ち上がったものの、自然な形で子どもたちの周りを歩くそうです。全くもって不自然でしかない、と妻の私は思います。)
さらには、放課後、実習生と1日の授業の振り返りをしている中での質問に対する実習生の返答にため息ばかりなんだとか。
「研究が足りなーーーーい!」と叫びたいことも度々とのこと。
そんな先輩(夫)に一言。
その気持ちを抑えて、見守ってあげてよ・・・
学校の同僚の先生や実習生に代わって、私が夫に言いますからね。
ただね、夫、私はさらに言うよ。
「あなたも教育実習の時、指導してくれた先生は同じ思いをしていたはずだぞ!」
ちなみに、夫の教育実習の時の話。
夫が教育実習の最終日、職員室で先生方に最後の挨拶をしたときのお礼の言葉。
「今の私の力では、学校の先生になれるわけはありません。無理です。
だからこそ、さらなる研鑽を積み、学校の先生として先生方の前に戻ってきます。」
普通の大学生より年齢は上(端的に言えば、おじさん)なのに、夫も青春していたみたいです。
ただ、それだけ教育実習の期間はかけがえのないものとなり、夫の学校の先生の礎になったことに変わらないでしょう。
ちなみに、後日談がありまして。
その話を聞いた実習校の先生から、夫が言われた言葉。
「自分は先生に向かない、って教育実習の最終日に言った人は珍しいよ。
しっかり勉強して、戻ってこい!」
なんだかんだで、夫を励ましてくれる先輩方に感謝しかありません。
夫が教育実習生として、学校に行ったときに指導してくれた先生とは年賀状のやり取りが今でも続いています。
「いま、このようなことをしています、と伝えることが(指導してくれた)先生に対する恩返しだから。」
その思いを胸に、今日も実習生の授業を参観し、助言をするのだろうな。
夫が学校の先生をしている上で、最も大切にしていること
「学校の先生は子どもの未来を共に創る、かけがえのない仕事である」
この言葉を思うからこそ、実習生の姿にもどかしい気持ちがあるのかもしれません。
今、また、これから、はたまた、既に教育実習をしている先生、夫と一緒に「未来」を創ってね。
夫ともども、先生を目指す教育実習生を応援しています。