旅はどこへ行くかではなく、だれと行くか
先日、誕生日をむかえた彼の希望で、2泊3日の大阪・京都旅行をしてきた。
旅をするときいつも思うこと。
それは、「どこへいくかよりも、だれといくか、のほうが重要である」ということだ。
旅とは、清水寺や大阪城のような有名な観光名所を回って、たこ焼きや抹茶を食べることだけが楽しみだろうか。きっとちがう、というか、個人的には大幅にちがう。
彼とどこへ行き、何を食べるのかは、私にとってはそう重要なことではない。
彼はおいしいものが大好きな人間で、歩くのも好き。きれいな景色にも関心があるから、京都や大阪に興味を持ったようだ。
彼がなぜ、その土地へ行きたいと思ったのか。そこで食べたもの、行った場所をとおして、私たちにどのようなコミュニケーションがうまれるのか。
その体験やストーリーのほうが、私にとっては、はるかに重要である。
旅はなにをするか、よりもだれと行くか、である。
行きたいところがあるならば、一人で行くのがいちばんだ。そのほうが効率よく回れるし、何より自分の好き、を誰にも邪魔されないから。
だからこそ、あえて誰かと旅に行く意味とは、もっぱら「その人との時間をすごしたいから」。
これに尽きるのではないか。
わたしは彼と旅がしたかった。
彼の気遣いや思いやり、逆に身勝手さが鮮明になった旅だった。
私にとっては、彼と今まで以上に誠実に向き合おうと感じた旅になった。
結局私がこの旅行でいちばん楽しかったのは、道頓堀でもたこ焼きでもお寺でもなくて、京都の鴨川の河川敷にふたりならんで、今までのことや将来のことを話した時間だった。
私と彼にしか過ごせない時間が、確かにあった。
彼の深い部分を知れた気がしたし、抱えている弱い部分や根底にある強さに触れることがでた気がした。
同じ時間をすごし、同じ空間にいるというそれが生み出した、特別な時間だった。
2人だから起こったハプニング、二人だからうまれた体験、感動。
同じ場所に行っても、行く人によってまったくちがうストーリーがうまれる、というのが人と旅をする醍醐味だろう。
きっと京都に来たら、いつまでも私はこの何気ない瞬間を思い出すだろう。
旅行とはそういうものだ。
私の心の中に場所やモノの記憶を焼き付けるのではなく、世界のいたるところやいたるものたちに、私と誰かの思い出を植え付けていくもの。
その場所に来たとき、鮮明によみがえってくるなにかが少しずつ増えて世界が鮮やかになっていくことが旅のいちばんの楽しみだなぁ、と考える。