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唾を吐いて、1セントを幸運の使者に

「1セントを拾ったら、3回ププッとつばを吐きかけるのよ」

アジアのスーパーマーケットに入った所で、1セントを拾い上げてアンナは言った。
え、そうなの?と私が口を挟もうとした瞬間、彼女はなんと、もう一枚1セントを見つけた。

驚いた。この人やっぱりなんか持ってるな。

「私はもう持ってるから、これはあなたのよ」

そう言って彼女は私に、拾った1セントを手渡した。

「ささ!3回ププッと唾を吹きかけて!そうすれば、これが幸運の使者になるのよ。」

私は言われるがままにプップップッと3回唾を軽く吹きかけた。これはもう私のモノってことかしら。

「他の硬貨でもいいの?10セントとか」
「1セントが一番いいのよ」

へー。ドイツの迷信らしい。
後で調べたところ、道で見つけた1セントを拾わずに放っておくと縁起が悪く、また2セント拾うのも良くないんだとか。

私にあげたアンナは正しかった。

アンナは頭の回転が早く、好奇心旺盛で、おかしいぐらいパワフルである。

私達は保育士免許を取るため、同じ専門学校に通っていた。無事に卒業したのは今年の頭で、これを書きながら、まだ今年の話だったかと驚く。

私はベルリンの東に住んでいて、彼女は西に住んでいる。だから、お互いの家に行くのは一苦労。会うのは久しぶりだった。
あなたがどうしてるか確認しておかなきゃ、みたいな感じで連絡が来た。

間をとって、街の中心アレクサンダープラッツ、通称アレックスで待ち合わせをした。私は今週休暇を取っている。平日の昼間に街に出るのは久しぶりだ。アレックスはいつ来ても、たくさんの人で賑わっている。

アジアのスーパで私が買い物を済ませた後、カフェに入った。お互い、近況報告せねばだ。
アンナは変わらず障害のある子供達の世話をしていた。自営業ではなくて雇われている身だが、個人で3家庭受け持ち、それぞれの家庭に赴いて世話をしている。

「週三回働いてる。でも来年は私もう定年だけどね。うふふ」

そう、アンナは来年から年金をもらう年齢なのだ。そもそもなんでその年で今までの職を辞めて、わざわざ保育士免許を取りにきたの!?と同級生の誰もが思った。

アンナはちょっとクレイジーだ。愛すべきクレイジー。

彼女はパートナーのトムと、コーラスで歌い始めたという。今日は私と会う前に、ピアノのレッスンの申し込みに行ったと言っていたし、音楽に目覚めたのか。

「トムが才能があるから本格的に学べって言われたのよ」

うふふ、と嬉しそう。それからコーラスのレッスンをしている先生(50代のオペラ歌手兼俳優)がどんなに素敵かを延々と語ってくれた。

彼女が住む南西エリアは、ちょっと閑静なちょっと裕福なエリアである。やはりあちらは文化的な趣味のコースが色々あってレベルが高そうだ。
しかしアンナたちのアパートの家賃は私の家より安い。昔から何十年と住んでいると、ほぼ昔の家賃のままで、激安なのだ。きっと死ぬまで、あそこに住んでいるんだろう。

それから同郷生たちの話になった。私たちと1番仲良くしていたハンナは最近フランス人の彼氏ができたとか、アンドレアは一生付き合わないといけない病気に苦しんでいるとか、ヤノッシュはエマの所で働いているとか。

わちゃわちゃと、そんな取り止めのない話をしていたら、コーヒーカップが下げられた。ふと顔を上げると、注文を待つお客さんの長い列がこちらを向いている。
ここを出て、テレビ塔の方までぶらぶらしようか。

「私たちの庭、手放すことにしたの。ソーラーパネルのこととか、なんだかんだ文句言われたから面倒臭くなっちゃって。もうやめて、そのお金でいっぱい旅行することにしたわ」

ドイツでは庭のないアパートに住んでいる人が、よく庭だけを別に借りる。郊外に庭だけが集まっている不思議な場所があるのだ。
そのぞれの協会で庭の状態を決める細かいルールがあるので、維持が大変そうだなと、私は思っていた。ちなみに私は生まれてから一度もまともに庭仕事をしたことがない。だから嬉々として週末庭仕事に精を出すドイツ人が信じられない。

アンナとトムは来年の春、イタリアに長期滞在する計画を立てている。
彼女の人生は楽しそうだ。

「十分足りているし、そんなに必要ないし、お金のために生きないわ」

と彼女は言う。保育士の学校に入る前、彼女はめちゃめちゃ稼いでいた。人生の酸いも甘いも味わってきた結論だ。

「私は金持ちになりたいな。そんで好きな時に日本とドイツを往復するの」

私がそう言うとアンナは、あはは、と笑った。

遠くでその笑い声を聞きながら、私はいつ幸せになるのだろう、と思った。
きっと今、十分幸せなはずだ。
でも、「もっと」を欲しがっていたら、永遠に幸せにはなれないのかもしれない。

「クリスマス前に二人でハンナのとこに乗り込んで、ケーキでも作ってもらっちゃいましょ」
アンナと私はまた会う約束をして、ハグをして別れた。


コートのポケットの中には、私の唾に洗礼された1セントが入っている。

幸運の使者はここに居る。

大丈夫。

ちゃんと幸せだ。


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