ベルリンの魔女は美容師だった
重たい腰を上げて、髪を切りに行くことにした。
馬のしっぽみたいにボーボーに伸びてしまった髪を、どうにかしなければならない。もう本当に行かなくてはならない!というところまで来ないと、髪を切りに行かない超ズボラな私だ。
剛毛で髪の量が多いので、ショートカットにするのには無理がある。結べる範囲で短く切ってもらおう。
遠い遠い知り合いの占い師のメルマガに書いてあった。髪を切るときは、朝一に行くほうがいい。 道具が他人の邪気をまだ孕んでいないから。
という訳で、開店時間に合わせて近所の美容院に行ってみた。9時きっかりに入ったのに、すでにシャンプー台で、おばさま二人が髪を洗われており、さらに男性が一人座って待っていた。あれ?フライングスタート?
座って待っていると、アクセサリーをたくさんつけた女の人が、鏡台の前に道具を並べ始めた。道具の手入れでもするのかしら。他の人が切り終えるまで待たないといけないかなと、思っていたら、その女の人が私のところにやってきて微笑んだ。意外と早く順番が回ってきた。
髪を洗ってもらっている間、その美容師の女の人は一言もしゃべらなかった。多分この人はドイツ語が母国語がじゃないんだろう。こんなに喋らないなんておかしい。
席についてもまだ何も聞いてこない。いつ「どんな髪型にしますか」と聞くんだろう。彼女は私の濡れた髪をとかし始めた。
目の前の鏡台には、櫛や剃刀などが布の上に並べられている。さっき彼女が用意していたモノ達だろう。全てに蛍光ピンクのシールが貼ってある。「私のモノ」というアピールが強い。彼女の性格が、うかがい知れる。
左のカゴの中には、ごちゃごちゃとブラシなどが入っている。右のカゴからは黄色いシールが貼られたヘアクリップなんかが顔を出している。さらに彼女の後ろには他の美容師さんが使っているのと同じ、道具が載っているワゴンがある。
何やら大手術が始まりそうな予感。
私は髪を切りに来ただけなのに、一体何が始まるんだろう。
若干不安になったところで、彼女が「どうしますか?」と聞いてきた。
「あ、前髪を作ってもらえますか?あと、髪が多いんで、ギリギリ結べるぐらいのところで切ってください」
「ほんと、髪多いわね。じゃあ顎ぐらいまでかしら」
なんだ、普通に話すじゃん、と私は心の中で思いつつ、それでお願いしますと返事をした。
私が「髪をすく」というドイツ語の単語を知らなかったので、彼女はすきバサミを見せて「これ」と言った。お願いしますというと、まだ乾き切っていない髪をブスッとすいた。大変大雑把だ。
ドイツの美容師のレベルなどこんなものだ。私の本にも書いたが、日本の美容師さんはレベチなのだ。
また無言になったので、彼女がはめているブレスレットの数を数えてみた。右手には12個。左手には8個。指輪は親指以外全部している。そしてネックレスも4種類ほどぶら下げているのだが、その中に蛍光ピンクの笛がぶら下がっていた。犬でも飼っているのか。
思い切って「笛ぶら下げてるんですね。犬でも飼っているんですか」と話しかけてみた。
「これはタンザニアに旅行に行った時つけてたの。1人だったから」
そう言いながら何だか焦った様子で、そのピンクの笛を胸元にしまい込んだ。
想像の遥か上を行く回答だった。
「タンザニアってサバンナがあるところですよね」
という私のどうでもいいコメントなど、彼女は聞いていないようで、突然、堰を切ったように話し始めた。
「すっごーくよかったわ。本当に素晴らしかったわ。本当に行くべきよ。休暇で行ったの。モロッコにもナイジェリアにも行ったことがあるわ。黒人の人はほんと親切よ。去年はインドに行ったわ。すっごーーく良かった。もうほんとに。」
この訛りはどこかで聞いたことがある。そうだ、スペイン語話者の話し方だ。
彼女はそこからノンストップで話し続け、若干ハサミの動きはスローになった。本当はとてもおしゃべりらしい。
髪を切る手も休み休みに、彼女は「人種」について語り始めた。毎日オンラインで大学の講義を受けて、夜な夜な勉強しているんだそうだ。
「へー、すごいですね。なんていう学科なんですか?」
と聞くと、若干彼女は困惑顔で「何ていうかとかなくて、自分が勉強したい講義の動画を見ている」と返事をした。私たちはお互いが言っていることを、100%理解している訳ではない。外国人がドイツ語で話していると、よくあることだ。
彼女は大きな表情を作り、ささやき声で言った。
「ヨーロッパの人間は、白人はね、自分が一番だと思っているのよ。でも本当は黒人が一番なのよ」
私は自分の耳を疑った。
あれ、この人なんか言っちゃいけないこと言ってないか?
「白人の祖先はね、実は黒人なの。ちゃんと証拠もあるんだから」
私の髪はチョキ、チョキっとゆっくりと切られている。
「あの国の人はね、全然凶暴じゃなんかじゃないのよ。実際に会えばわかるわ。謙虚で静かで、ハチミツみたいに甘いの」
アフリカのどこかの国だって?
私は頭が混沌としてきた。
ふと鏡越しに同じ列で髪を切っている若い女の美容師さんが、眉を寄せているように見えた。周りの人に聞こえていないだろうか。私がドギマギしている。
あんまり黒人を讃えるんで、もしかしたら黒人とのハーフなのかと思って
「アフリカ出身なんですか」
と聞いてみた。すると彼女は顔を固くし思案顔で
「おばあちゃんがアフリカ系よ、確かそう」
と答えた。
話題を変えよう。
「ドイツはもう長いんですか?」
「20年とか30年とか、長いこと住んでるわ」
「へー。私も20年近く住んでるんです。どうしてドイツに来たんですか?」
彼女はまた顔を少し固くし「昔の彼がマンハイムにいたから(ゴニョゴニョ)」と言った。
スペイン語を話すというので、
「母国語がスペイン語なんですか?」
と聞いたら、これにも顔を固くした。
実は本当はストレートに聞きたくてたまらない。私はその質問を迂回しながら、ジャブを打っていた。
「いつか日本にも行ってみたいわ。でもとっても高いんでしょう。ちょっと不安だわ」
「いえいえ、そんなに高くないですよ。日本には今、外国人観光客がたくさん来ていますよ」
良い話の流れだ。私の髪もだいぶ軽くなった。
「ねぇ、知ってるあなた。 日本人の祖先は黒人なのよ」
私の表情が硬くなる。
「最初の侍は、黒人だったのよ。 証拠もあるんだから」
一体最初の侍とは誰のこと言ってるんだろう?
証拠って写真ですか?
もはや深く追求したくもない。私の髪はボブになっていた。後は、前髪を切るだけだ。お願いだ。もう髪だけ切ってくれ。
私は口を挟むのをやめた。
無事に髪は短くなって、私は新しい髪型を手に入れた。
彼女は乾かしましょうか、と親切に言ってくれた。確かここは乾かしてもらうとその分、料金が加算された気がするが。
ドライヤーに当てられた髪はチリチリと浮き上がって行った。
癖っ毛だ。
この美容院のレジには、美容師それぞれの名前が書かれた筒が立っている。チップを入れるためだ。レジに入った彼女は、自分の筒を立てようとして、止めて、手元に置いた。
「38ユーロになります」
私はカードで支払った。そして「それ、あなたのですか?」と指を差した。
彼女がその筒を立てたので、私はチップを入れながら名前を読んだ。
「へー、ヤミさんておっしゃるんですね。聞いてもいいでしょうか、どこからいらしたんですか?」
彼女はレジから出てきながら、私に目を合わせず大きく見開き、口を一文字に結んだ。一言も何も言わなかった。
私の最後の質問は、私がずっと聞きたかったことだった。
きっと答えないだろうと分かっていたが、聞いてしまった。
「さようなら」
そう彼女の背中に言い残して、私は美容院を出た。
肌寒い。
私はバス停まで歩き始めた。しかし、先ほどの美容師さんの余韻を引きずっていた足が止まった。
ヤミ
ヤミ
闇!?
ああ、なんてピッタリの名前だろう。
あの人は闇さんだったのだ。
きっと魔女だ。
ベルリンに迷い込んだ、自分がどこから来たか分からない魔女。
<追記>
うちに帰ってググったらこんな本が出てきた。
ちょっと読んでみたくなった。