借金5000万円男の憂鬱 ~小学生時代~
はじめまして、コマツです。
本日より、Noteに日常を綴っていこうと思います。
そう思ったきっかけは、ここ2年ほどの間に大きな選択ミスを繰り返してしまい、人生ハードモードとなり、生きていることがしんどくなってきていて、どこかで自分の感情を吐き出したいなと考えたからです。
そうです、自己満のためです。なんの役立つ情報もないです。
もしかしたら「こいつみたいにならないように気をつけよ」と思わせるための、反面教師にはなるかもしれないけど。
特定されない程度に、所々フェイクをいれながらこれまでどんな人生を、どんな転落人生を歩んできたかを綴っていきます。
ちなみに現在のコマツ
年齢:30代
性別:男
職業:地方ハム
19××/某月/某日、とある田舎にコマツ産まれる。
父方の祖父母、両親、4つ上の姉、コマツの6人家族の中ですくすく育つ。
両親共働きで平日の帰りは遅く、土日もたまに仕事で家にいなかったので、幼少期の大部分は祖父母と過ごしていた。保育園の送り迎えも祖父母だった。
両親との思い出はないかというとそんなことはない。
土日家族が揃うときは必ずどこかに連れて行ってくれた。動物園、デパート、釣りなど。日曜日のランチは外食に行くことも多かった。
夏、冬の大型連休では毎年旅行にも連れて行ってくれた。
まぁ要するにごく一般的な家庭で育ったということです。
●小学生時代
入学式の日に、理由は覚えていないが、初対面のクラスメイトの男の子と喧嘩になり、ぶん殴って泣かした。両親は先生からそれを聞かされたとき衝撃を受けたらしく、いまだに酒に酔って思い出話をするときに、そのエピソードが出てくる。
小学校低学年のころの僕は、恥ずかしながら、所謂”問題児”であった。
初めての授業参観で、僕は先生の話を一切聞かず、ずっとネリケシを作ったり鉛筆で机を叩いていたりしていたそうで、お母さんは驚愕したらしい。
これも親から聞いた話で、僕自身はあまり覚えていないが、運動会で上級生が組体操?か何かのパフォーマンスをしている最中に、おとなしく座っていることが出来ず、離席しては先生に連れ戻されるということを何回か繰り返していたらしい。
ちなみにいうと、入学式で喧嘩になった男の子(以下Kくん)もあまりまともな生徒じゃなく、僕とKくんは常に先頭の席にいた。席替えをしてもなんで僕とKくんは一番前なのだろう、と当時は不思議に思っていた。
入学式でいきなり喧嘩をかましたものの、Kくんとはその後とても仲良くなり、学校でも家でもよく遊んでいた。
二人ともよく先生に怒られていた。掃除中に遊ぶ、宿題はやってこない、忘れ物が多いなどなど…
中でも鮮明に覚えているのが、教室のコンセントをKくんが触っていて「コマツ、ここ触ってみ。なんかビリビリする気がするー」と言った途端、先生が鬼の形相で近寄ってきて思いっきりビンタをかましたことだ。「冗談じゃすまない!死ぬかもしれないのよ!」と。
ポカンとする僕ら二人、少し経って泣き出すKくん。
こんなエピソードが山ほどある。
ただ、僕もKくんも勉強はできた。
小学校のテストなので手こずる人のほうが珍しいかもしれないが、85点以下をとった記憶がない。大体90点以上。算数はほぼ100点しかとったことない。
ちなみにKくんはその後中学受験をし、中高一貫の名門に入っている。大学はどこに行ったのか知らない。
問題児だった小学校低学年のころの僕は、姉の影響で近所の小さな塾に行き始めたり、スイミングスクールやピアノ教室に通い始めたりと、色んな習い事を始めた。
しかし、飽きっぽい&病的なほどの面倒くさがりな性格のため、長くは続かなかった。
姉は非常に活発な性格で、学級委員長をやるような真面目タイプの生徒だった。
姉が大好きだった僕は、姉の通っている習い事に「僕もやりたい!」と親に言い、始めてみるはいいが、数か月で行かなくなるということを、何度も繰り返していた。
それでも親は、「どうせすぐ辞めちゃうでしょ」と諦めることなく、僕がやりたいと言ったことは何でもやらせてくれた。共働きとはいえそんなに裕福な家庭ではなかったが。
小学3年生の冬ごろ、友達に誘われてサッカー少年団に入った。
事前に親に言わずに入団し、月謝の袋を僕から渡されたときにサッカーを始めたことを知ったらしい。
サッカーはコマツ少年に刺さったらしく、先に言っておくと、中高もサッカー部に入るくらいハマることになる。
週3日 少年団の練習、大会があればたまに土日に試合をしていた。練習がない日も、一人で家の駐車場でボールで遊んだり、学校の休み時間や放課後に友達とサッカーをしたり、サッカーに明け暮れた。
コマツ少年、なかなかサッカーのセンスがあり、小学5年生時には小6の先輩たち何人かをおさえてレギュラーで試合にも出ていた。地元地域の選抜にも入っていた。
当然、そのころの将来の夢は”プロサッカー選手になること”だった。
しかし、小学6年生の時のとある大会で、その夢を諦めることになった。
その大会は全国各地からサッカーチームが集まる大会だった。
僕の所属していた少年団は、市内にある10数チームの中では1位か2位という強豪だったため、勝ち進めるだろうという自信があった。
まず4チームのブロックの中で上位2チームになる必要があったのだが、結果は3戦全敗。トーナメントに進むことが出来なかった。
特に、原口元気選手もかつて所属していた「江南南小学校」には、10-0という大敗だった。小学生なので、たしか20か25分ハーフ。4-5分に1点とられるというレベル差。イージーシュートミスとかなければ、もう6,7点は入っていたと思う。
「あ、こういう人たちがJリーガーになるのか。住む世界が違うわ。」と、小学6年生ながらに感じた。
プロは無理だと何となく感じながらも、好きだったのでサッカーは辞めずにそれ以降も続けた。
サッカーの話はこれくらいにして、学校生活にもどる。
コマツ少年、ハッキリ言ってモテました。サッカー始める前からだけど、足がそこそこ速く、運動会の選抜リレーでは1-6年生全てクラスの代表になっていた。
小学生のころは、ちょっと運動が出来るだけでモテる。サッカーをやっている男子はさらに。
毎年バレンタインデーにはチョコをもらっていた。
小6のころ、チョコと一緒に添えられていた手紙に、「付き合ってください」と書いてあったが、女の子と付き合う、という概念がよくわからなく、返事をしなかった。
ほんまに当時は女心が全くわからんかったな・・・今もだけど。
このように、問題児だった小学校低学年から、サッカーを始めて社会動物に進化し、勉強もできてモテモテの小学校生活を送っていた。
人生で1番か2番目くらいに楽しい時代だった。
次回、中学校時代。