メタバースと物語的存在試論〜VRユートピアという幻想〜


はじめに

 みんなもすなるnote記事といふものを、わたしもしてしてみむとてするなり。記事のようなものを書くのは初めてのことで拙い文章になってしまうことをご容赦いただきたい。
 本記事を含めたこのアカウントの記事の目的は、記事を通じたコミュニケーション機会の創出である。なにぶん知識も情報収集能力も乏しい身であるため、記事の感想や「こんな論文が参考になるかも」みたいな意見をどんどん送って欲しい。(送付先は私の「「Twitter」」アカウント@fukagawaVRまで)
 本記事の概要としては、近実存主義的アプローチを用いて、2024年現在においてかなり大きな潮流を見せ始めている、メタバース社会にリベラル派的なアイデンティティ論のユートピア幻想を向けることに対して異論を唱えるまではいかなくとも警鐘を鳴らしておくことである。特に、ソーシャルVRの住民の中でアイデンティティに悩む人、自己を探求してやまない人に読んで欲しいと願っている。

メタバースという「ユートピア」への幻想

ソーシャルVRに至るまでの人間と社会の変容

 ポストモダン期(20世紀後半ごろ)から着々と行われてきた「大きな物語」の解体とそれに呼応する個人の精神面での解放運動は、よほどの保守的社会の中でない限り一般的なものになってきた。
 社会を構成する柱として「帰属意識」があった時代はもはや跡形もなく、それどころか顛倒して社会自らが「自分とは何か?」を常に考えるよう要請してくるという滑稽な事態さえある。(個人に要請してくるのは個人の集合体である社会なのに…)
 私自身もそういう時代風潮の中で育ち、「何らかのスペシャリストになれ」だとか「あなたの本当の姿」を見つけようと声高に叫ぶ人間たちに囲まれるのが自然なことだった。
 現代社会において、多くの若者は「何者かにならなければ」という悩みを抱えていることは今更否定しがたい事実であろう。これはどうやらソーシャルVRでも同じこと、もしくはさらに顕著のようで、VRChatでシンガーソングライターとして活動している「てんてい」氏による「何者かであること」を主題とした歌は一定の反応を見せている。
 ソーシャルVRが現実世界と比べて個人の自己創造性を発揮しやすい環境であることは想像に難くない。そこでは自分を好きな見た目にすることができるし、変声ツールを使ったりギミックを仕込んだり自己表現の幅は広い。現実世界ではできない自己表現をソーシャルVRで存分に楽しむことは多くのプレイヤーがしていることだろう。

ソーシャルVRとアイデンティティ

 「ソーシャルVR」という語を自然に使っていたが、VRゲームの中でもVRChatやResoniteのような交流を主体としたSNSの系譜をつぐものを一旦ソーシャルVRとしたい。ソーシャルVRでは、SNSと同じように社会に存在する多くの人間を可視化してくる。その中でもいわゆる「スゲー奴」は多数の人間の中でも目立ち、かつ多く観測されてしまうことから、「何者でもない自分」をより不安に陥らせるきっかけとなる。私個人的な体験としても、VRChatに来て現実世界と同じように、いやさらに一層増して、「何者ではない自分」に対して大きな不安を抱えることになった。
 このようにソーシャルVRは、実存的不安に陥った個人を喚起し自己表現の可能性が開かれたソーシャルVR自身の中でアイデンティティ表現を喚起する側面をもっている。
 実際「メタバース」という言葉がバズワードと化して以来、「なりたい自分になる」だとかアイデンティティ解放の場としての理解が進んでいる節がある。それに関して言えば、メタバースにおいて分人主義を掲げる「バーチャル美少女ねむ」氏による著作「メタバース進化論」が流行したことが記憶に新しい。
 メタバース、特にソーシャルVRにアイデンティティ解放の幻想を重ねる「VRユートピア(個人的に少しリチャード・ローティを意識した造語)」的言説はいかにもメディア好みであることも相まって、かなり浸透してきている。ただし、先に挙げたように、このような理念が良くも悪くも実存的不安を増大させている点は忘れないようにしておきたい。

物語的存在としての人間

メタバース分人主義潮流

 先に挙げた「バーチャル美少女ねむ」氏は、「メタバース進化論」の中でメタバースがもたらすアイデンティティの革新として「分人主義」を掲げている。

「分人主義」では、人間を分割可能な「分人(Dividual)」として捉えます。つまり、ひとりの人間の中にはいくつもの人格(分人)があり、その集合体が人間であるという考え方です。(中略)たった一つの「本当の自分」を追いかけるのを止めて、対人関係ごとに見せるこれら複数の顔全てを「本当の自分として認めよう、ひとりの人間の多様な側面を認めよう、という考え方です。

バーチャル美少女ねむ「メタバース進化論—仮想現実の荒野に芽吹く「解放」と「創造」の新世界,技術評論社,2022年,p194

 私も概ね氏の分人主義については賛同しているが、殊更ソーシャルVRの扱いについては少々誤解を生む可能性があるのではないかと思っている。特に重要なのは「全てを本当の自分として認めよう」の部分で、分人それぞれが独立して形成され、メタバース内での人格こそが本来の自分であるかのような印象を抱く人もいるかもしれない。
 このことについては、時岡(2023)を引用してみたい。

メタバースは確かに現実世界よりも自由度が高く,ブロック等の機能によって嫌なものを避けて過ごすことも容易なため,「ねむ」が「魂そのもの」と表現したように,それこそが何にも縛られない本当の自分であって,現実の方がむしろ仮の自分だ,というような思考につながっていきやすいのではないだろうか。しかし,本来の分人主義の考え方,つまり「本当の自分」などないという考え方からすれば,複数ある分人たちの中に序列は存在せず,快適なものも苦しいものも,ただそのようにあるというだけである。

時岡良太「メタバースにおける自己についての臨床心理学的考
察,『奈良女子大学心理臨床研究 第10号』,2023年,p57

 私は別に分人主義の厳密な定義を議論したいわけではない。ソーシャルVRに限らない人格の使い分けに関して、過度にそれぞれの「自分の姿」を他の「自分の姿」と分断することには賛同できないという話題である。
 全体的な潮流として個人がこのような振る舞いを見せる一例は、やはりSNSをはじめとしたインターネットを通じた社会関係において見られる。例えば、通常インターネットでは自分の個人情報を晒すことは危険であるという通念があり、その場合インターネット上で活動する場合には偽名を使うことがすでに一般化している。(インターネットで実名を使うべきかという問題には激しい論争が続いているが、本記事では一旦偽名を使うことのほうが多いという前提に立っておく)
 偽名を使うことができるSNSの中には、同時に個人が複数のアカウントを用いることもある。その場合、このアカウントの場合はこういう振る舞いをし、違うアカウントを用いた場合には全く違う運用・振る舞いをするといったことも珍しくない。

インターネット的人間関係と個人

 この現象をよく表しているものとして、「人間関係リセット症候群」と俗に言われているものに言及したい。「人間関係リセット症候群」とは、他者との関係において自分に何らかの精神的負荷がかかった時に、それまで構築していたほぼ全ての社会関係を断ち、新たにまた別の人と関係を構築しようとする態度のことである。
 これはあたかもこれまで運用していたSNSのアカウントを削除し、また新たにアカウントを作り始めることによく似ている。実際のところ、この現象は偽名を使ったインターネットが普及していったことと無関係ではないように思われる。「人間関係リセット症候群」は、インターネット社会の成熟とともにその存在感をどんどん増してきている。
 実際のところ、これまで構築してきた人間関係をリセットしてリスタートすることは簡単なことではないし、ほぼ不可能だ。これはインターネットを通じた関係かどうかはあまり関係がない。確かにインターネットは物理的に距離の離れた個人同士をつなぐため、人間関係を本当にリセットできているように見せかけてしまう。
 だが、それは自分への納得としてリセットしているように錯覚しているだけで、他者からすれば全く事態は変わっていないどころか、いきなり一方的に遮断されたことに不快感を伴うだろう。
 この場合、リセットしようとした人は自らが「物語的存在」であることを見落としている。つまり、個人の中に独立した複数のアカウント(=分人)が存在していて、それを使い分けたり自由に破棄できるわけではなく、あくまでそれまで地続きで構築されてきた個人が存在していて、具体的な場においてその見られ方が違うということである。
 誤解されないように付しておくが、私も「確固たる個人」や「完全に自由な主体」があると信じているのではなく、周りの環境から大きな影響を受けながら物理的個体には現在から不断に過去を解釈しつづける有機体(複雑な組織)があると考えるのである。

閑話休題:何も気にしなかった場合の現場俺

地続きのメタバース〜再度企投された感覚〜

 自然な感覚でいえば、全くVRを経験したことがない人がVRゴーグルをかぶってVR空間を体験した時「全く新しい世界に来た」と感じることだろう。個人的な体験を述べると、初めてVRを体験した時には初めて遠く離れた国に行った時のことを思い出した。周りの環境がガラリと変わり、自分もその影響を受けて大きな変化を経験するあの感じがした。
 ここで重要なのは、これまでと地続きの自分という存在者が新たな世界でその存在者自身が変化していくということであって、新しい世界に新しい自分が生成されたわけではないということである。
 新しい世界、海外やVR空間に行って普段と違う行動や価値観を抱くようになったからといってこれまで無かった人格がポっと出現したわけではなく、周りの環境に適応したにすぎない。
 よく海外に行った人間とソーシャルVRを体験した人の共通した感想として「本当の自分を見つけられた」というのがしばしば見受けられる。しかし個人的にはこれは錯覚で、「これまで隠されていた自分が発見された」のではなく、「一個人に大きな変化を与えられた」のだと考える。
 日本におけるソーシャルVRでは、リアル男性であっても多くの人が美少女アバターを使うことが通例となっている。そのように現実世界と全く違う環境下で自らも美少女として振る舞いはじめた(自覚無自覚問わず)時、「本当の自分や新たな自分」が発見されたというよりは、ただ単に環境に適応したという例の方が多いのではないかと推測する。
 もちろん、本当にそういうリビドーを抱えていてソーシャルVRで爆発した人もいるだろうが、私が強調したいのは、これを「発見」とみなし現実世界にその意識をむやみにフィードバックしてしまうことに注意を払いたいということである。
 現実世界でうまく承認が得られず、ソーシャルVRで承認が得られたからといって「本当の自分は認められるべき存在だ」と決め込むのも問題だし、逆に言えばソーシャルVRの中でうまく社会関係を構築できなかったり承認が得られないからといってあなた自身が無価値であると決まったわけではないということだ。
 違った場所でそれぞれ違う表象があろうとも、それは完全に独立した分人ではなく一本の綱もしくは重なり合った分人が存在していると考えられるのではないだろうか。

擬似企投的メタバース存在

 ではなぜ、メタバースという新たな世界を体感した個人が「新たな自分」や「これまでの自分ではない別の自分」を発見したように錯覚するのだろうか。私は、メタバースが企投的な性質をもっているからだと考えている。
 企投、とはすなわち投げかけられることであって、私の言及では主に哲学者ハイデガーの「存在の問い」に関わる言葉として扱う。さすがにハイデガーの「存在の問い」に関して丁寧に書いているといくらスペースがあっても足りないしもっと適切な解説があるはずなのでそれを参照してほしい。
 存在者は、「存在の問い」に関してまず「存在が存在していることに驚く」。これと似た感覚が、VR空間に「ダイブ」した時に起こるのではないかと推測する。現存在は、世界に投げかけられた存在として存在するが、すでに企投的存在であるのにも関わらずメタバースにまた投げかけられるので世界そのものが「入り子」になっているような感覚を覚える。
 すなわち、存在者が存在者である所以の企投が、メタバースに対して起こっている錯覚が、「メタバース—内—存在(世界—内—内—存在)」としての存在の核心なのである。
 このような存在の容態があくまで地続きであることに関して、大黒(2022)も指摘している。

メタヴァースは(中略)唯一の〈世界社会〉もしくは〈根源的時間性〉の軛を断ち切って、何処かの異次元に突如として”ワープ”した先にあるものではない。偶さか、そのようにメタヴァースが表象され構築されたとしても、そのメタヴァースもまた結局の所、被投的な〈根源的時間性〉の地平、コミュニケーション連鎖の地平から脱することは出来ない。そこから抜け出せたという思い做しは、御釈迦様の掌の中に遊ぶ孫悟空と選ぶところはない。なぜなら、〈貫世界同定〉の支点である”魂”はどこまでも〈根源的時間性〉に繋がられているからである。

大黒岳彦「メタヴァースとヴァーチャル社会」,『月刊現代思想 Vol.50-11』,2022年,p109

ここでは、時間に着目してメタバースと存在を分析している。ハイデガーなどの存在哲学に則り人間を時間的存在とするならば、いかにメタバースに投げかけられたからといって、その時間性は変更不可能なのである。その意味においてメタバース内で起こりうる分人に対しても地続きであると言える。

XR論争の一因はVR企投性?

 メタバースに関する議論を見ていると、よくARやMRなどXRと関連した話題を多く目にする。そこで有名なのが、ARアプリゲーム「ポケモンGO」の開発企業ナイアンティックの創業者ジョン・ハンケ氏による言である。氏は、VRを主流としたメタバース像は、人間たちの生活を完全に閉じ込めるという意味で「ディストピア的」と批判している。
 これに関しては様々な意見が飛び交っているが、これまで本記事で述べてきたことを踏まえると、氏のこの言もメタバースを現実世界や現存在と地続きで考えていないからこそ生じているものと考えられないだろうか。
 メタバースを「閉じた空間」であると考えるのは、前提としてVRを用いたメタバース体験が「現実世界とは隔絶されたもの」であるという考えからきている。しかし、根源的時間性に繋がれた存在者はいくらその場所や感覚を変えようとも地続きの存在者であって、現実世界と全く断絶されているのではないのである。

XR時代の予感と私たち=社会構築

 最後に、ここまでをふまえてXR時代をこれから迎える私たちと社会構築について考えてみよう。
 XR技術はまだまだ発展途上であり、すでにVRを中心に大きな注目を集めているとは言っても普段の生活からそれらに触れている人の方が少数派だろう。この先、XRに関するあらゆるコストが減り人々がこれらの技術に触れるようになるとすでに報告されているアイデンティティの問題に衝突する人々も増えていくだろう。
 そんな中で、私たちが本格的にメタバースを社会構築に取り込むことになった時注意しておきたいのが本記事で論じたことである。
 メタバースの普及と大きな物語のさらなる解体によってそれぞれの現存在が実存的不安と人格の分裂に苛まれる時、根源的に時間性を保持し、あらゆる分人的表象を包括する物語(不断の過去解釈)としての存在者を意識すること、メタバースや現実関わらず自己を涵養することが重要になってくるであろう。

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