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夢と死生観

「死」についてよく考えることがある。

人は何故死ぬのか、何故病気に罹るのか。
歳を重ねて細胞も老化していく理屈は分かっていても、何故死ななければならないのか。
どんなに大病でも治療して生きながらえる術は無いのか。

生死について考えると何故という疑問が尽きない。

これまで身近で色々な人がこの世を去った。
高校の友人が自殺し、中学の英語教師が癌で亡くなり、父方母方共におじいちゃんが病気で他界。

人の死に何度か立ち会ってきたが、、子供の頃や20代のうちは辛い、寂しいという一時的な感情だけで、死について深く考える事は無かった。
遅かれ早かれ、どんな人でもいずれ死を迎えるのだと。

その考えが変わったのが、4年前に父親の兄が亡くなった時。

正月に親の実家へ帰り、酒を飲んでおせちを食べて、「いつ嫁を連れてくるとや~」「結婚興味無いしだいぶ先やろね~」とか他愛もない話をするのが恒例。
元々心臓病を患いペースメーカーを入れていたが、通院しながらも普通に生活していた。

3月。親から息を引き取ったとの訃報。
仕事を休み、翌日葬儀場へ向かったが再会した時には既に棺の中。

葬式前だったが、枯れる程泣いたのを鮮明に覚えている。
幼少期からの思い出も一杯あったし、つい最近まで元気にしていたからだろう。これまでの身近な死とは違う感覚があった。虚無感というか後悔というか…

翌日の告別式。そこで思ってもみなかった光景が。

葬儀場となったのが親戚の家から近い、長崎県のとある小さな島。
言ってしまえば超ド田舎だが、どこからこんな人が、、というくらいの参列者の数。7~80名はいたのではないだろうか。

こんな田舎でこれだけ多くの人と親交があったと思わなかったし、県外からの参列も多く、仕事やプライベート問わず色々な人から慕われていたのだろう。

この時思った。
自分もこんな風に見送られたい。

どんな人生であれ、大好きな人達に囲まれて安らかに見送ってもらえる最期でありたい。

しかし。自分が死んだ時、どれだけの人が悲しんでくれるだろうか。
後悔無いと言えるような人生を歩んでいるだろうか。
毎日を大事に生きているだろうか。
究極の理想だが、この世に自分が生きた証を残せているだろうか。

総理大臣になるとか、凄いことして教科書に載るとか、そんな大それた話ではない。
あいつのお陰で、あいつがいてくれたから、、と、自分の行動や考え方が誰かの中で、何かしらの形で生き続けてくれたら、こんなに嬉しいことはないだろう。

人はいつ死ぬか分からない。
車の運転中に対向車が突っ込んできたり、原因不明の病に罹ったり。登山中に熊に襲われるかも。
だからこそ、五体満足なうちに何でも挑戦して、好きなように暮らしたい。

今で言えばそれがピアノ。
コンクールも含め、色々挑戦したい。

雇われ人生に飽きたら、カフェや飲み屋を開いてピアノを置いて、ご自由に演奏を、みたい感じで音楽好きが自然と集まるような場を作ってみたい。
休日は山が見えるマイホームで優雅にピアノを弾いて。
なーんて夢を考えてみたり。

とにかく、後悔の無い人生を送りたい。
まずは長生き出来るよう、怪我なく健康で生きることが大前提。 
それでいて、身近な人々を幸せにしたり良い影響を与えることが出来れば最高。

まとまりの無い文章になってしまった。。

目標や夢を見失ったり、何かに迷ったりした時、この文章を読み返して自分に喝を入れたい。
人生は一度きり。不可能はない。やりたいことをやれと。

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