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恐怖の家族

夫の好きなところはたくさんあるが、そのうちのひとつが、思い出話をしないことである。思い出話ほど聞いていてつまらないものはない。共通の思い出でなければなおさらだ。学生のとき、友だちがこう言ってああやって盛り上がってたんだよなぁ、あいつどうしてるのかなぁ、とか。俺たちが新人の頃はこの時間はまだ働いていたし、飲み会なんてうんちゃらかんちゃらだったんだから、とか。

ふぅん、ほぉん、と聞いているような聞いていないような相槌をうちながら次の話題にうつるきっかけを探すしかやることがなくなってしまう。ねぇねぇ、そんな過去の話なんて今更どうにも変えられないんだからさあ、もっと今の共通の話題について話そうよう、愚痴でもなんでもいいからさあ、という気持ちになる。

しかし、かくいう私はどうかというと、自分が思い出話をするのは大好きなのである。スーパーでりんごを見かけ、ああそういえば子供の頃、りんご飴を買ってもらえなかったなぁと思えばもう我慢できずに、夫にいかにりんご飴が食べたかったかを延々と語っていたりする。 

また、夫がダイエットを始めようかと言い始めたときには、学生のとき友だちと取り組んだダイエット法の失敗の数々を紹介し始めるにとどまらず、その時の友達が逆に5キロも太ってしまったというエピソードまで披露してしまう。なんとも身勝手な話である。ちなみに夫は笑顔で聞いてくれている。(そこも好きなところである。)

しかし、なぜ人は思い出話を始めてしまうのだろうか。私が思うに、現状に満足がいってないことが要因のひとつではないかと思う。今自分はこんなだけど過去はキラキラ輝いていたんだと主張したい衝動に駆られるのではないだろうか。あとは、単純に目の前の出来事を勝手に過去とリンクしてしまう癖があるか。

しかし、私の場合は少し違う、と思っている。私がすぐに思い出話をしてしまうのは、子どものころに過去の話をするのを禁止されていたからというのが、一番大きな理由だと思う。子どもに過去なんてないだろう、そう思われるかもしれない。

しかし、子どもにも過去はある。例えば、運動会。ダンスの練習をする際、去年はどうしてたっけ?と話をすることがある。それから音楽発表会、宿泊研修、そんな特別な行事の話ではなくても、去年のなにげない話で授業中に盛り上がったりすることもある。

こうやって事例を出してもまだ、そんな話したかな?と思われるかもしれない。が、しているのである。しかも意外にたくさん。私ははっきり覚えている。なぜなら私はその話のほとんどに加わることが出来なかったからだ。それはなぜかというと、私が転校生であり続けたからである。同じ学校で進級したことももちろんある。しかし、去年とは違う学校にいることの方が多かった。だから、みんなが話す去年の話がわからない。分からないので、私は私の去年の話をしたくなる。でもそれは親に禁止されていた。前の学校の話をしてはいけない、と。

今なら分かる。例えば転職してきた人が、前の職場の話を始めたら白けるだろう。比較などし始めたら、嫌悪感すら抱くこともある。なので禁止してくれてよかった、と今では思う。しかし子ども時分にはそれが分からない。なぜ禁止されているのかも分からないままそれに従い黙ってみんなの話を聞いていた。すごく悲しかった。そして禁止されていたということだけが今も強く心に残っている。

しかしそういう人は意外に多いのではないだろうか。もちろんそれは思い出話ではない。例えば、ゲーム。家でやるのを禁止されていた人は結構いるかもしれない。それからスナック菓子、テレビ、少年ジャンプ。対象となるものは時代によっても家庭によっても異なるだろう。

しかし、禁止されていたものは大人になって解放されたとき必要以上に執着することがある。大学生になって一人暮らしを始めてから朝までゲームにのめり込むようになり単位を落としたとか、初めてポテトチップスを食べてそのおいしさに感動して食べまくっていたら10キロも太ったとか、そういう話は決して珍しくはない。私はそういった話を聞くたび怖くてたまらなかった。禁止からの解放は、最初から許されていた場合よりはるかに歯止めが効かない気がした。そして、自分の思い出話への思いの強さを実感するにつれ、子どもには何も禁止しないでおこう、と大学生時代から誓っていた。

そう、10年以上も前から誓っていたのである。それがどうだろう、この子育ての難しさは。禁止してばかりである。YouTube?そんなのダメ。そもそもスマホがダメ。夜更かし?それもダメ。のんびり準備するのもダメだし、片付けないのもダメだし、ご飯残すのもダメだし、家の中でジャンプするのもダメだし、道端で大声で歌うのもダメだし、全部ダメ。ダメダメダメ。ちゃんとした大人になるには全部ダメ。

一体全体どうしたものか。禁止したものは大人になったとき、解放され爆発するのではなかったか。このままでは一体息子はどんな大人になるのだろう。夜な夜な道端で大声で歌いながら手に持っているスマホでyoutubeを見て、帰ってきたら散らかった部屋でご飯を大量に残し、そこから大きくジャンプ!するような大人か。こわい、こわすぎる。

そしてその横で私は過去の自分がどのような子育てを実践してきたかを延々夫に聞かせるのだろう。いや、それならまだよい。怖いのは変わらずりんご飴の話をし続けていることだ。はたして夫はいつまで笑顔で聞いてくれるのだろうか。

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