自傷他害息子とのゴール

高校になって、三男が荒れた。
 家が壊れ、私は傷だらけで、三男はもっとボロボロになった。
 始まりは、小学生の時だった。
 重度の自閉症で知的遅れも大きい三男は、地域の学校の支援学級に在籍していて、マンツーマンの担任の先生がつきっきりだったが、小三の時、その先生も私も傷だらけになるほど、いきなり他害(暴力)が始まった。
 だけど、その時は、落ち着くのも突然だった。自閉症の問題行動に強い精神科に通い始め、薬を飲むことになった。
 微量だったが効果があった。二度と繰り返さないように、自閉症にあった環境を整えた。これまでの支援がたりなかったんだろうかと反省した。
 すっかり落ち着いた三男は、交流学級の子どもたちとの活動も山のようにした。
 中学も地域の学校の支援級を選んだ。重度でも、当時はそれが問題なく認められたし、むしろ、支援学校より手厚く、マンツーマンだった。自閉症の知識はない担任だったが、三男は崩れることなく、中学時代を終えた。
 支援学校の高等部に入学してからだ。少しずつ三男が崩れて行ったのは。
 指を強く噛む、額を打ち付ける、自傷行為が増え、他害、つまり他人への暴力が増えて行った。
 思春期が引き金をひいたのかもしれない。環境の変化がつらかったのかもしれない。三男にとってのつらい刺激が、限界になって、あふれ出たのかもしれない。
 学校は自閉症への知識もあったが、自閉症の特性を利用して管理しているように感じる時もあった。
 大変な子どもたちがたくさん集まっているのだから、マンツーマンの時のようにいかないのはわかっている。将来ちゃんとお仕事ができる大人になるのを目指してくれるのも、教師の愛情だと思う。
 だけど、なにか、違う。
 ここに来て、三男が崩れて行っている。
 そう思うなら、もっと早く、学校に行かない選択をすればよかった。行事に参加しなければよかった。
 最初の年、三男のクラスは、自閉度の高い子六人を集められた。大変な子を集中的にみていく。その力のある担任集められた。
 それは実験的なことだったけど、それはその一年でやめることになったと担任自身が言われていた。
 聴覚過敏と奇声の両方がある子が集まれば、お互いの奇声がお互いの刺激になってしまう。
そんなちぐはぐなものを学校に感じていた。
 三男の担任は熱心な先生だったけど、その担任に頭突きをするようになっていった。
 やがてスクールバスのなかでも落ち着かなくなった。隣の席の子を強くつかむ。他の子と距離をおけば、添乗員さんにつかみかかる。
 それに至るまで、バス内で、何度も席替えがあった。
 この子には度重なる席替えは辛いと言ってもあった。
 添乗員さんは、シートベルトをかけるのも怖いので、お母さんが三男くんにかけてやってくださいと言われた。
運転手さんは、私がまだバスのなかにいるのに、発車しかけた。下りようとしていたときドアに挟まれたこともある。あげくに、三男はスクールバスを利用しないでほしいと言われた。
学校も、迷惑をかける子に関して、乗車拒否をさせてもらうと文章を配布した。
 なさけないことに私は運転ができない。学校は、当時、公共の交通機関で簡単に行ける場所にはなかった。
 バスに乗るなとは、学校をやめろと言うことと同じ。それをこちらの口から言ってほしいのだと感じた。
 障害のある子の集まる場で、さらに切り捨てにかかってこられるとは思ってもいなかった。
 我が子に障害があるとわかった時、激しいショックを感じた。泣いた。
 我が子が、よその子と違うと感じるたび、孤独感でいっぱいになった。
 世間からの冷たい目を感じるたび、悲しかった。
 だけど、それらとくらべものにならない辛さ。本来、そこは安心してすごせる場であるはずなのに、そこから排除されようとしている。
 でも、その辛さすらも、足元にも及ばない苦しみ、それは我が子が、別人になってしまうことだった。
 学校やスクールバスでの他害があっても、家ではどうにかこうにか日々過ごしていたのに、高等部二年が終わりに近づく頃、ひどい自傷他害が始まった。
 小学生のときでも、全力で体当たりされると、小柄ではない私の身体でもふっとんでいたが、高等部の三男は、百八十センチを超えていた。そしてそのターゲットは次男だ。
 三つ上の次男は、知的遅れがさほどでもない自閉症で、普通高校を卒業後、一般企業の障害枠で、働いていた。
 その次男への暴力。次男の部屋に鍵をかければ、ドアに体当たりで壊す。帰りが遅ければ、捜して外へ飛び出して行く。
 精神科医は、二人の分離を薦めた。普通の子だったら、しばらく友だちの家に泊まりなさいと言えるのに。ホテルにでも泊まってと言えるのに。これを機会に、一人暮らしをさせてもいいのに。
 実家の高齢の両親に次男を預けることにした。勤め先まで一時間以上かかるがそんなこと言っていられない。
 その次男との別れの日、春休みで家にいた三男はこれまでにない暴れ方で、私は裸足で外へ逃げて、精神病院に電話した。
 緊急入院をすることになった。
 春の嵐で、電車が止まり、次男は帰ってきた。三男がいないなら、家をでる必要はない。しばらく安心して過ごせることにホッとしていて、やっぱり、この家にずっといたいと言う。
 私は荒れ果てた家の掃除をした。
 三男は苦しそうな顔をしながら、一日中、どこかへ行こうとしていた。でも外に出ても、すぐに帰宅する。そしてまた出て行こうとする。一日中、脱いだり履いたりで、家のあちこちに三男の靴下が落ちている。それを拾いながら、泣いた。
 スーパーに買い物に行けば、三男の好きだった音楽が流れていて泣いた。
 やがて三男は退院した。
 刺激のない生活で、三男は落ち着いたが、退院すると、またゆっくりと崩れていった。
 額を自ら叩く大きな音が響くと、その時間と回数をメモする。そんなことしなくていい、と主治医にも療育の先生にも言われていたが、そうでもしてないと、その音を受け止められない。
 それを繰り返し、支援学校を卒業する時には、なんとか他害が落ち着いた。
 と、思ったら、ほどなく始まって、今度は、ターゲットは私。
 生活介護事業所へ日々通うのも苦労で、送迎車内で落ち着かなくなったし、担当職員は傷だらけになった。
 三男用の個室まで用意してもらったが、その壁には穴があいた。
 三男、最後の入院日は、正月だった。
 私がちょっと買い物に行った間に、夫の制止を振り切って、外へ飛び出したと、携帯電話に夫から連絡があった。
 急いで戻ると、自家用車の窓が、三男の頭突きで割れていた。
 部屋に取れ戻された三男は、夫につかみかかっているところだった。
「もう限界だよ」
夫もとうとうその言葉を口にした。
 月末には入院の予約がとれていたけど、そこまでもたない。正月だというのに、病院に電話するしかなかった。
 もし入院できなかったら。その時は、警察に相談しよう。
 我が子のことで警察に電話するなんて、とも思ったけれど・・・。
 幸い病院が受けてくださるということで、ガラスの割れた車で、病院へむかった。
 病棟へと暴れることなく、静かに入っていく三男。やっと帰った我が家へ向かう姿にも見えた。
 その後、入院しながら入所の順番を待ち、同じ病棟内の、強度行動障害の人のための入所施設へ三男は入所した。
 三男のように、大暴れの強度行動障害という状態の息子さんを育てあげた人のドキュメンタリーをテレビでみたことがある。
 息子さんは穏やかで、暴れた時期があるとは思えないほど。ご両親は、高齢で、息子さん以上に穏やかな顔をされていた。
 大きな困難を乗り越えた末に見る事のできる景色がある。この人たちはそれを見ているんだと思うと、うらやましかった。
 私たちはそれを見ることができない。
 だけど、あのまま自宅でと言うのも無理だった。
 まわりには三男ほど暴れる子はいないのに、ネットを通じて、たくさんの仲間を見つけた。そして、ほとんどみんな、行き場がない。強度行動障害に特化した入所施設は少ないし、大変な子を受け止めてくれるグループホームも少ない。
 うちは安心。運がよかった。と言う気持ちがないわけではない。
 だけど、乗り越えて、青空をみたかった。そのうえで、子離れ親離れをしたかった。
 ドラマならゴールはたいていハッピーエンド。もしくはバッドエンド。そのどれでもないもやもやとした子育ての終わり。
 子育ては終わった。
 だけど、三男の人生も、私たちの人生も終わったわけではない。これからのベストをさがしていきたい。
 

#創作大賞2023


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