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ある夏休み。

「暑っ。」

猛暑日の続く8月中旬。カーテンの外。
日差しはベランダだけに飽き足らず、
窓際のソファーまで届いている。


「窓閉めてや、クーラーの風が逃げるやん。」



朝のニュースが終わって、
甲子園中継の始まったテレビを見ながら彼は答えた。


「テレビの子らだって暑いで。」

「この子らはええねん。青春やから。」

「ふーん。」


私は朝のテンション激低の彼に近づいて、引っ張った。


「何、今ええとこやねんけど。」


よくわからん銀行のcmをボケっと見ながらよく言うわ。


「試合始まってないやん!ちょベランダ来て?」

「試合見てんちゃうねん!」

「何見てんねん!」

「ブルーベリーとじゃんけんせなあかんねん!」

「そんなん楽しみにしてるんあんただけや!」



私はそこまで力が強くない。
けど彼をすぐベランダに引っ張り込めたあたり、
彼だってちょっとはその気があったんだと思う。



「んで、なんで外に引っ張った?」

「特に理由はない。」

「なんやそれ。」



そう言ってすぐ部屋に戻ると思いきや、
彼は私の隣でなんでもないこの町を眺めている。



「部屋に戻らんの?」

「来て欲しいんか、戻って欲しいんかどっちなん。」



そうは言うけど、まだ彼は私の隣にいる。
私は彼の肩に自分の肩をくっつけた。



「なぁ、なんで野球やめたん?」



私はずっと気になっていたことを聞いた。



「やっぱりそれか。」

「気づいてたんか。」

「そりゃあんだけ高校野球見させられたらな。」




彼はベランダの手すりに背中を預けて、
私の方を向いた。




「1番は怪我よね。」

「でも、治ったやん?」

「けどさ、リハビリの時に所謂普通の大学生活を
 送ってみたらなーんかアホらしくなって。」

ふーん。と私は涼しい部屋に戻った。
興味なしか。と彼も涼しい部屋に来た。


「なんか、思ったより軽かった。」

「そんなもんやって。」

しばらく無言の時間がずっと続いて、
甲子園で頑張る選手のヒットでお互い
「おっ」って声が出た。


「それでも、野球は好きなんやな。」



カキーンという音だけが返ってきた。
またこの家には静かさがやってきて、
守る強豪校は失点を許した。

攻める地元高校は、私たちの母校である。


「俺、別に野球好きじゃないで。」

キッチンに移動して、蛇口を捻る彼はそう言った。


「え?」


嘘だ。よっぽど好きでもなきゃ、
あれだけ嫌がってた丸坊主にするわけない。


「俺、別に野球好きじゃない。」

「じゃあ、なんでずっと続けてたん?」

「んー、特にやめる理由がなかった、から?」



いやあっただろ。
私は坊主頭にするや否や涙目だった彼を覚えている。
しかし満足そうに語る彼を見ると、
どこかそれは本当なんだと信じ込まされた。



「だけど、怪我が理由になったと。」

「あと、普通の大学生活がしたくなった。」



またカキーンと音がする。今度は強豪校の攻撃だ。



「やっぱ、軽いって。」



私はテレビを見ながら彼に言った。



「その心は?」

「やめるきっかけじゃないやろ。」
「やめる理由付けに使っただけやろ。」



蛇口の水が止まって、
彼は私の隣のクッションを抱いた。
なんか可愛く見えるのが悔しい。



「まぁ別に野球をしてないあんたが嫌いってわけじゃないし、むしろ一緒に居れる時間が多いからええねんけど。」

「ありがと。」



クッションを強奪して言った。


「挫折、したんちゃうん?」


私がそう言うと、
彼はまたクッションを取り戻して抱きついた。


「…バレた?」


やけにあっけらかんとした返事だった。


「上には上がいてさ。」

彼は続けた。


「俺よりでかいやつが強くて速くてIQ高くて。」
「そんでもって野球に真摯で。」
「先輩ならまだしも、それが後輩で。」


今テレビに映る、
母校のエースで4番ってやつのことだと思う。


「必死こいてやっても、そいつに敵わない。」
「態度悪かったらいいのに、めっちゃいい奴で。」
「そんでもって1番尊敬してるの、俺だってさ。」



クッションを私によこした。



「なんか野球が面白くなくなった。」


そう言って、
テレビをじっと眺める彼の横顔はなんだか寂しそうで。

それに呼応するかのように、
母校のエースは強豪校に逆転を許した。


「それでも、大学で野球部に入ったんはなんでなん?」

「お、それ聞いちゃう?」


彼はなんだか恥ずかしそうにこっちを見やがる。


「別に言わんでいいけど。」

「ごめんって。」


私はまた、クッションを奪った。
そうすると彼は手持ち無沙汰そうに腕を組んで言った。


「…菜緒が、バレーできひんくなったから。」
「菜緒が出来なくなった分、やろうって思ってん。」

「へ?」

「飛び方、忘れたんやろ。」


誰にも言わずにいたことを指摘されたら
人は固まるらしい。私は固まった。

私は誰にも言ってこなかったのに。


「そんで気合い入れてやってたらさ。」
「肘壊してん。」



テレビ中継の音だけが聞こえる。
シーンと静まり返ったこの空間はとても居心地が悪い。


「…全然軽くないやん。」

「そうか?」

「全然挫折じゃないやん。」

「いや、それはちゃうで。」



「なんでよ、私めっちゃ酷いこと言ってるやん。」
「重いやん。私無関係な顔してたやん。」
「そんなん…。なんで言ってくれへんのよ。」



「なんでやろな。」

「ごめん。ほんまに、ごめんなさい。」

「いいよ別に謝らんで。」

「でも…!」



「高校時代の挫折がなかったら、
 俺は怪我しても続けてた。」
「折れ切ったんよ。メンタルが。」



私は今どんな顔をしているだろう。
きっと涙目で汚い顔してるんだろうな。



「そんな顔すんなよ。」
「実際、大学の野球楽しくなかったし。」
「菜緒と過ごしてる方がよっぽどいい。」

「でも、ずっと嘘ついてたやん。」



なんの「でも」なんだろう。
自分でも言ってることがめちゃくちゃだ。



「やめる理由がない、なんて嘘やん。」

「まぁそりゃ言いずらいし。」


「あと菜緒のため、
 って菜緒と付き合ったん大学なってからやん。」

「それは…昔から好きやったし。」


「…このドアホが。」

「言い方キツ。」



またしばらく無言の時間がきた。


「なぁ。」

ニュースを一回挟んで、中継再開。
母校最後の攻撃。



「菜緒さ。」
「また野球やって欲しくて、高校野球見ててん。」

「おん。」

「野球のルールなんか知らん。」
「あんたが好きやったやつやから。ただ見てただけ。」




三振1アウト。



「まぁなんとなくわかってた。」

彼は椅子に座り直して言った。

「うっ。」

「母校とはいえ、
 そんな母校好きじゃ無いくせにさ。」




ヒットで出塁。




「でも言ってくれなわからん。」
「あんたが考えてることなんかわからん。」
「それは、私にも言えることやけど。」




三振2アウト。




「正直な話。」
「嫌いだし、見たく無いし、やりたくもないけど。」
「母校が勝ち上がっていくのは、嬉しかった。」
「久々に、見たくなった。」




フォアボールで出塁。




「なぁ。」

私は言った。

「ん?」

「菜緒に野球教えてよ。」

「えー。」

「好きになりたいんだ。
 一回でもあなたが好きだったものを。」





2連続フォアボール。

2アウト、満塁。
打席に立つのは母校のエース。



強豪校のエースは、渾身の一球を投げた。







今日も今日とて、猛暑日だ。
けれども私たちは、阪神電車に乗っていた。



「電車から出たくない。」

「涼しすぎるな。」



けれども駅は無常に近づいて、ドアは開く。

駅を降りて、人の流れに乗ってみれば、
高速道路の隠れた甲子園が見える。


こんな暑い日に私たちが外に出るのは、
母校が決勝に行ってしまったから。
強豪校が最後の最後にミスしてしまったから。

メッセージに書かれた集合場所を首振り探す。

美玖は大きく手を振って、私たちを待っていた。
彼は手を振りかえしこう呟いた。




「もう野球するのは嫌いやけど。」
「別に好きになってもならんでもいいけどさ。」
「キャッチボールぐらいなら、してもええで。」




甲子園決勝のサイレンが、今鳴った。

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