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神は人を憐れまれた(第一説教集2章1部試訳) #9

原題:A Sermon of the Misery of all Mankind, and of his Condemnation to Death everlasting, by his own Sin.  (罪ゆえに永遠の死に定められている人類の悲惨についての説教)

※タイトルと小見出しは訳者によります。
※原文の音声はこちら(Alastair Roberts氏の朗読です): 


人間は罪深い土や塵である

    聖霊は聖書のはじめで人間の始祖でありあらゆる罪の源でもあるアダムに遡って、人間の虚栄や高慢をありありと見せています。かつてアダムが犯した罪に触れて、最も賞賛すべき徳である謙遜を説いています。わたしたちは聖書の多くの箇所で人間の本性がどのようなものであるのかを思い起こす多くの教訓を読み取ることができます。『創世記』で全能なる神はアダムに対して、わたしたちすべてに共通する呼び名を定められました。わたしたちが何者であり、いつどこから来てどこへ行く定めであるのかを次のように言われました。「土から取られたあなたは土に帰るまで額に汗して糧を得る。あなたは塵だから、塵に帰る(創3・19)。」わたしたちはまるで鏡を見ているかのように、自分たちがもとはと言えば土や塵であるにすぎず、したがって土や塵に帰るものであると知ることができます。

人間を土や塵としていた旧約世界

アブラハムは神が人間に付された土や塵や灰という呼び名をよく心に留め、自身をそのように呼んでソドムとゴモラのために祈りました(同18・27)。わたしたちは旧約聖書のなかで、ユディトもエステルもヨブもエレミヤも自身の罪深い生を嘆いて、他の聖なる男や女とともに麻袋を使って塵や灰を頭から被ったことを知っています(ユディ4・10、同9・1)。彼らが粗布をまとい塵と灰を被って神に救いと慈悲を求めながら伝えているのは、どれだけ自分が慎ましく謙虚であるかということでした。また、塵や土や灰といった呼び名からわかるように、そもそも本性が堕落して腐敗した脆いものであるということを、どれだけ自分が心得ているかということでもありました(ヨブ13・12、同16・15、エレ6・26、同25・34)。

悲惨な存在としての人間

 『知恵の書』もまた、わたしたちの高慢な本性をありありと見せようと、わたしたちが「地上で最初に形づくられた(知7・1)」アダムにつらなる死すべき存在であることに思いを致させています。王も臣民も、すべての人間はこの世にやって来てやがて去っていきます。わたしたちはとても悲惨な存在です。全能なる神は預言者イザヤを通して呼びかけさせられました。イザヤが「何と呼びかけたらよいでしょうか」と言うと、神は次のように答えられました。「すべての肉なる者は草、その栄えはみな野の花のようだ。草は枯れ、花はしぼむ。主の風がその上に吹いたからだ。まさしくこの民は草だ(イザ40・6~7)。」また預言者ヨブは、人間の悲惨な罪深さを大いに経験し、これと同様のことについて次のように言っています。「女から生まれた人間は、その人生も短く、苦悩に満ちている。咲いては枯れる花のように、逃げ去る影のように、とどまることがない。あなたはこのような者にさえ目を見開き、あなたに対して裁きの場に私を引き出します。汚れたものから清いものを出せるでしょうか。誰一人できはしません(ヨブ14・1~4)。」

神は人を造ったことを悔やまれた

人間はすべて生まれながらに汚れて曲がっていて当然のことながら罪に傾いているので、聖書にあるとおり、神は「地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められ(創6・6)」ました。神は人間のありようをご覧になって、それに対する怒りを強く持たれ、ノアとそのわずかな一族を除いて全世界を洪水で押し流されました(同7・19)。聖書でこの世の人間すべてが何度となく「地」と呼ばれていることに理由がなかったわけではありません。「地よ、地よ、地よ、主の言葉を聞け(エレ22・29)」とエレミヤは言っています。預言者エレミヤは、このわたしたちの呼び名としてある「地よ、地よ、地よ」という言葉を口にすることによって、わたしたちが実のところどのような存在であるのかを示しています。あわせて、これの他にどのような呼び名で称されようがあるのかを考えさせてもいます。神はわたしたちがどのような存在であってどのように呼ばれるべきかを最もよくご存じであり、そこでこのようなわかりやすい呼び名を与えられたのです。

神のほかに正しい者はいない

神はまた、忠実な使徒パウロには次のように言わしめられています。「ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです(ロマ3・9)。」「正しい者はいない。一人もいない。悟る者はいない。神を探し求める者はいない。皆迷い出て、誰も彼も無益な者になった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。彼らの喉は開いた墓であり、彼らは舌で人を欺き、その唇の裏には蛇の毒がある。口は呪いと苦みに満ち、足は血を流そうと急ぎ、その道には破壊と悲惨がある。彼らは平和の道を知らない。彼らの目には神への畏れがない(同3・10~18)。」

神はすべての人を憐れんでおられる

別の箇所で聖パウロはこうも述べています。「神はすべての人を憐れむために、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたのです(同11・32)。」「聖書はすべてのものを罪の下に閉じ込めました。約束がイエス・キリストの真実によって、信じる人々に与えられるためです(ガラ3・22)。」聖パウロは実に多くの箇所でわたしたち人間の本性を明らかにしています。生まれながらに「神の怒りを受けるべき子(エフェ2・3)」であるなどとし、「何事かを自分のしたことと考える資格は、私たちにはありません(二コリ3・5)」とも言っています。わたしたちは自分の力だけでは十分に言うこともできず、十分に行うこともできません。

神のほかに正しい者はないとする人々

かの賢者ソロモンは「正しき者は七度倒れ(箴24・16)」ると『箴言』で述べています。大きな試みにあわされたヨブも神の御業を畏れていました。バプテスマのヨハネは確かに「母の胎にいるときから聖霊に満たされ(ルカ1・15)」ていて、生まれてくる前から誉められて天使と呼ばれていました。主の前にあって大いなる者であり、誕生のときから救い主キリストのために道を準備していた聖霊に満たされていました。彼は「預言者以上の者(ルカ7・26)」であり、「およそ女から生まれた者のうち、ヨハネよりも偉大な者はいない(同7・28)」ともされました。しかし、それでも彼は当然のように、むしろ自身はキリストから洗礼を受けるべきであると考えていました。聖ヨハネは神と主イエスの栄光を心から讃え、自身をその靴を脱がせるほどの価値もない者とし(マタ3・11)、キリストにすべての誉れと栄えを向けました。また聖パウロも、自身がどれほど小さな者にすぎないのかをはっきりと告白し、極めて忠実な僕として救い主にすべての讃美を献げました。

人間は罪を悔い改めるべきである

 聖ヨハネは祝福された福音記者であり、彼自身と他の聖者たちの名において、ここに限ったことではないのですが、次のような告白をしました。「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理は私たちの内にありません。私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、あらゆる不正から清めてくださいます。罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉は私たちの内にありません(一ヨハ1・8~10)。」これと同じように、ダビデの子であるコヘレトも真で普遍的な告白をしています。「地上には、罪を犯さずに善のみを行う正しき者はいない(コヘ7・20)。」

ダビデも罪を告白するに至った

ダビデは自身が犯した罪を恥じているものの、その罪について告白してはいませんでした(詩51・3)。しかし、自身の罪にかかわって「あなたの僕を裁きにかけないでください(同143・2)」と神の御慈悲を乞うとき、彼はどれだけ深く熱心で悲しげであったことでしょうか。また、自身の罪があまりに多すぎて隠せないほどですべてを把握するのが難しいほどに、つまり言葉にしたり数えたりすることができないほどに罪があると告白するとき、ダビデはどれほど自分の罪を重く考えていたことでしょうか(同19・13)。自身の罪について真で率直で深い観想や考察を持つ人は罪の底に落ちません。そのような人は自身では気付かない無自覚な罪についてまで赦しを請うべく神に哀願します。自身の考えが及ばないところについてまで哀願します。そういう人は自身の罪がそもそもの根や源から出ていることを正しくとらえており、罪への傾きも、憤怒や壮快や苦悩も、つぼみも枝も、おりやよごれも、風味や舌触りや香りもわかっています。ダビデは「私は自分の背きを知っています。罪は絶えず私の前にあります(詩編51・5)」と言っています。彼はここで罪という言葉を複数形で述べており、多くのものがひとつの泉から出でていることを言っています。

キリストなしには神の身許に行けない

 救い主キリストはこう言われています。「神おひとりのほかに善い者は誰もいない(マコ10・18、ルカ18・19)。」わたしたちはキリストがおられなければ何も善いことをすることはできません。「私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない(ヨハ14・6)」とあるとおりです。キリストはわたしたちに「私どもは役に立たない僕です。すべきことをしたにすぎません(ルカ17・10)」と言うようにされてもいます。キリストは傲慢で身分が高くおごりのあるファリサイ派よりも、悔悛した人々を好まれます。キリストはご自身を医者であるとされています。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である(マタ9・12)」と言われ、救いが必要なのはその人に病があるゆえであるとされました。キリストはわたしたちに、祈りのなかで自分が罪人であると認め、正しさを求めてあらゆる悪より離れ、自身を天なる父の御手に委ねるようにとされています。心の罪によってわたしたち自身は汚れると言われています。

自身で義認できるなどという傲慢

邪悪な言葉や考え方が非難に値するとして、「言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる(マタ12・36)」と断言なされてもいます。また、「私は、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない(同15・24)」とも言われています。傲慢でただ学があって賢いだけで身分の高いファリサイ派のほとんどは救われません。それは彼らが謙遜とは全く逆の傲慢さで自身を義としているからです。自身で義認できるなどという偽善や虚栄をみなさんは遠ざけるべきです。


今回は第一説教集第3章「罪ゆえに永遠の死に定められている人類の悲惨について」の第1部「神は人を憐れまれた」の試訳をお届けしました。次回は第2部の解説を投稿します。最後までお読みいただきありがとうございました。

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