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みだりに御名を唱えてはならない(第一説教集7章1部試訳) #35

原題: A Sermon against Swearing and Perjury. (誓いと偽証について)

※タイトルと小見出しは訳者によります。
※原文の音声はこちら(Alastair Roberts氏の朗読です): 


みだりに御名を唱えることの危うさ

 全能なる神は、人々がご自身に誉れを向けて讃美するにあたって、御名を口にしてはならないと命じられています(出20・7~8)。御名をみだりに口にしたり敬虔さを持たずに偽の誓いや冒涜をして御名を貶めたりする者に対しては罰を下されます。この戒めがより正しく知られて守られるためにみなさんにお話したいのは、キリスト教徒がどのように神の御名を唱えるのが律法に適うことになるのかということと、御名をみだりに口にして冒涜することがどれほど危ういものであるのかということです。

御名を唱えるのが相応しい場合とは

法廷で判事が人々に対して、真実を明らかにすることについての宣誓を求めるときに神の御名を唱えるのは律法に適っています。キリスト教国の君主が平和を願って、国民を守るためにそうする時もそうです。人々が神の御名に誓って、契約という誠実なとりきめや法律や法令やよき慣習を守ろうと、忠実な約束をする時も律法に適っています。一人一人が祖国に対する忠誠を約束したり、あるいは誠実さと真の友情において自身を相手に約束したりする時も律法に適います。すべての人々がこの世にあって保たれ続ける必要のある秩序のために、国家の法や地域の法や善き慣習を守ろうとして神の御名を唱えることも律法に適います。臣下が王や主君に対して真に忠実であろうとして神の御名を唱える時もそうです。為政者や判事や官吏が務を正しく行おうととして神の御名を唱える時も律法に適います。神の栄光を表そうと真実について宣誓を行う時も、また人々の救いを求める時や福音を述べ伝える時や魂の安らぎのために一人で祈りを捧げる時にそうするのも律法に適います。これらのために神の御名を唱えるのは誠実で必要なことであるので律法に適います。

正しく御名を唱えるのは禁じられない

しかし、毎日のさまざまなやりとりのなかで、他者を説き伏せて売り買いをするときに、多くの人々が神の御名を唱えているのを耳にします。そのようなときに神の御名を唱えるのは相応しくありません。律法に適わず、神の戒律によって禁じられています。そのようなときにそうしているというのは、神の御名をただみだりに唱えているにすぎません。ここで注意しておきたいのは、律法に適って神の御名を唱えることは禁じられておらず、むしろ全能なる神に命じられているのであるということです。聖書の中ではキリストと熱心な信者たちが誓いを立てていて、他者に神の御名を求めていることを見ることができます。神の戒めは「あなたの神、主を畏れ、主に仕え、その名によって誓いなさい(申6・13)」というものです。また、全能なる神は預言者ダビデに「神に誓いを立てた者が皆、誇りを持ちますように(詩63・12)」と言わしめられています。

聖書に見る御名を唱えるに相応しい例

 救い主キリストは何度か「よくよく言っておく(ヨハ3・3)」と言った上で神の御名を唱えられており、聖パウロは「私は、神を証人として、命にかけて誓います(二コリ1・23)」と言って誓っています。アブラハムは老いて、息子イサクの妻を一族からめとらなければならないということについて、召使いに誓いの言葉を求め(創24・3~4)、その召使いは主人であるアブラハムの望みのとおりにすると言いました。また、アブラハムは求めを受けて、ゲラルの王アビメレクに彼もその子孫も傷つけることはないと誓い、アビメレクもアブラハムに誓いを立てました(同21・23)。また、ダビデはヨナタンにとっての忠実な友であり続けることを誓い、ヨナタンもダビデに忠実な友となることを誓いました(サム上20・42)。

裁判の場で神の御名を唱えること

 ある物品が誰かへの抵当に入れられることになっているとき、もともとの持ち主がそれを手元に置き続けて、その物品が盗まれたりなくなったりした場合のことについて神が定められた事柄があります。そのもともとの持ち主は自分でそれをどこかに移したのでもなければどこかに移されたと嘘を言ってもいないのであると、判事の前で確信をもって誓わなければなりません(出22・10)。また聖パウロは、二者の間にあるいざかいに関わるあらゆる問題について一方が是と言いもう一方が否と言うならば、真実の証明など為しうるべくもなく、そのいざかいの帰結は判事に対して述べられる誓いによるのであるとしています(へブ6・16)。さらに神は預言者エレミヤに「真実と公正と正義をもって『主は生きておられる』と誓うなら、諸国民は主によって祝福を受け、主を誇りとするようになる(エレ4・2)」と言わしめられています。裁判では誰でも神の御名を唱えるのですが、その場合、自身の誓いの言葉が三つの条件を満たしているという確信を持っているならば、その誓いが偽のものとなるかもしれないという恐れを持つ必要はないと心を強く持ってほしいのです。

正しく御名を唱えるための三条件

 一つ目として、神の御名を唱えるならば真にそうするべきです。当事者へのあらゆる贔屓や愛着を捨てて目の前にある真実について、愛をもって逸脱せずに、真実に照らして知っていることを語るべきです。二つ目としては、誓いの言葉を述べるならば、無分別に性急にではなく、誓いがどのようなものであるのかをよく踏まえ、よく考えてそうしなければなりません。三つ目に、神の御名を唱えるならば、正しさをもってしなければなりません。自身の汚れのなさと真実を守り、その正しさを守ろうとして、持てる情熱と愛の限りに誓うべきです。その当事者との友情や血縁関係によるあらゆる利益や不利益や、あらゆる愛着や贔屓をわきにおいて誓うべきです。

神は御名によって誓うことを望まれる

 これら三つの条件を満たしていれば、誓いの言葉は神の栄光の一部となり、わたしたちは神の戒めにより、神の栄光を讃えることができことになります。神はわたしたちが神の御名のみによって誓うことを望まれています。わたしたちが誓いの言葉に喜びを持つためのものではありません。これは神がユダヤ人に対してご自身にいけにえを献げよと命じられたのと同じことです。神はユダヤ人に対して愉悦を持っておられたのではなく、ユダヤ人が偶像崇拝を犯さないようにそうなされました。神がわたしたちに、御名によって誓いを立てるよう命じられたのは、ご自身がその誓いに対して愉悦を持っているということではなく、御名によって誓いを立てさせることによって、すべての人々が神に向けるべき栄光を空や陸や水にあるあらゆる生き物に向けることのないようにとされているからです(イザ42・8)。

正しく御名によって誓うことの恵み

これによってみなさんが知るのは、律法に適った誓いの言葉は神に命じられたものであり、族長たちや預言者たちや聖パウロはもとより、キリストご自身も口にされているということです。キリスト教徒は律法に適った誓いの言葉が神の御心に適っていて大切なものであると心得なければなりません。律法に適った約束や契約が誓いの言葉で確かめられることによって、君主や国家は静穏や平安にあって確かな存在となります。神が約束されたとおり、わたしたちがキリストの生ける肢体であることをご覧になっている神の御名を唱えることによって、わたしたちは洗礼の聖奠に与り、信仰を告白します。またやはり神が約束されたとおり、結婚の聖奠によって男女が終生の愛に結ばれてどんな困難や苦しみが起こっても離れないことを誓います。君主や為政者や判事が律法に適った誓いの言葉をはっきりと口にすることによって、この世の法を侵すことなく正義が誤りなく行われ、弱い立場の人も父のいない子も、未亡人も貧しい人も、殺人や迫害や窃盗といった苦しみを受けず害を及ぼされないように守られます。律法に適った誓いの言葉によって、相互に関わり合う社会の親睦や秩序が、自治都市を含めた都市や町や村といったあらゆる共同体でいつも保たれます。律法に適った誓いの言葉によって、罪人が探し出されて悪を行う者は罰せられます。律法に適う誓いが悪であるはずはなく、むしろわたしたちに神の御心に適ったたくさんの大切な善き恵みをもたらします。

みだりに御名を唱えてはならない

 キリストは神の御名を唱えることを極めて厳しく禁じられましたが、これがあらゆる類の誓いの言葉を禁じていると理解されてはいけません。キリストは神の御名をみだりに唱えて誓うことを、例えをもって禁じられました。物品を売り買いするときなど、わたしたちの日常的なやりとりのなかで神の御名を当たり前のように唱えてはいけません。誓いの言葉を唱えることによって、あたかも神がすべてのキリスト教徒のやりとりを確かなものにしているかのようにみせてはいけません。神はご自身と人間への背信を行うことを禁じられたのです。聖ヒエロニムスが言うように、キリスト教徒の言葉はすべて真実のものであり、それ自体が誓いの言葉とみなされます。聖クリュソストモスも、みだりに神の御名を唱えることは適切ではないとしています。そもそもわたしたちが他人に対して嘘を言うのは律法に適っていないのですから、そこでどうして神の御名を唱えることが相応しいというのでしょうか。

みだりに御名を唱えれば信用されない

たとえば、物品を売り買いしている相手が自分を信用してくれないでいて、相手から神の御名にかけて誓うように求められ困ってしまったとしましょう。このことに対して聖クリュソストモスは、そのような誓いは正しくなく、他者を欺くことになると言っています。もし自分が正しく、行いと言葉が一致しているのなら、神の御名を唱える必要はまったくありません。商いなど日常のやりとりのなかで誠意と明瞭さを持っているなら、みだりに神の御名を唱えて隣人の信用を得ようとする必要もありませんし、隣人もその人が言うことを間違って受け取ることなどはありません。実際に信用が失われているから、神の御名にかけて誓わない限り誰からも信用されないと思ってしまうのです。まさに聖セオフィラクトスが言うように、みだりに神の御名を唱える者ほど信用されません。全能なる神はベン・シラに「度々誓いを立てる人は、不法に満ち、その家から鞭は絶えない(シラ23・11)」と言わしめています。

御名を貶める敬虔さのない者たち

 次に、日常的なやりとりのなかでたくさんの誓いの言葉を用いていることにかかわって、自分は心から神の御名を唱えているというのにどうしてそれが相応しいとされないのかと言う者もいるでしょう。そのような者に対してはこう言えます。心から神の御名にかけて誓っているとは言っても、それがよく考えもせず頻繁で、大切でもなくつまらないことに対してであるなら、そこで神の御名を唱えるべきではありません。明らかに過ちを犯しているのであり、最も聖なる神の御名をみだりに口にしているだけです。不信心で賢さがない者というのはまさにこのような者たちです。物品の売り買いにおいてのみならず日常のあらゆるところで、飲み食いをしたり遊興にふけったり、無駄話をしたり言い訳をしたりするときに、最も聖なる神の御名を貶める者たちです。こういったことによって、最も聖なる神の御名が広く使われて貶められ、むやみに敬虔さもなく口にされ唱えられ、それによって偽証が生まれて、神の戒めを破ることにつながり、神の怒りを招くことになるのです。


今回は第一説教集第7章「誓いと偽証について」の第1部「みだりに御名を唱えてはならない」の試訳でした。次回は第2部の解説をお届けします。最後までお読みいただきありがとうございました。

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