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良い忠実な僕(第二説教集17章2部試訳) #170

原題:An Homily for the Days of Rogation Week.  That all good things cometh from God. (祈願節週間のための説教~あらゆる善きものは神より出る)

※タイトルと小見出しは訳者によります。
※原文の音声はこちら(Alastair Roberts氏の朗読です)
(17分1秒付近から30分10秒付近まで):



第1部の振り返り~恵みは神から

 善良なるキリスト教徒たちよ、わたしはこの説教のさきのところで、人間が統べて慰めとするためにある生き物すべてを含めてこの世界をお創りになった全能の神の大いなる善性についてみなさんにお話しました。この善性によってわたしたちは神に対する自身の務めを改めて知るに至ります。また神の善性によってみなさんの内に信仰が生まれるだけではなく、全能の神の愛に満ちたみ業に心から感謝を献げることができるとわたしは信じています。自分もこれと意見を同じくしていると、つまり魂にかかわる善なるものも肉体の中に創られたものもどちらも、あらゆる善性の筆者である神から出ているもので、その他の何ものからも出てはいないと断言することができるでしょう。しかしこの二つがなくても、運命によって富や権威や栄達や名誉などといった恩典を得ることができると言う人もいることでしょう。そういったものは霊的に得られるものではなく、わたしたちの勤勉さや真面目さによって、つまり労働や骨折りによって得られるものであると考える人もいるでしょう。しかし善良なるみなさん、人間の労働や勤勉さをもってするというそのような事柄について、神のほかに筆者がいるとしたら、誰がそれであるとされるに相応しいというのでしょうか。回教徒と同じように、哲学者や詩人も運命を女神とみて崇められるものとしましたが、善良なるキリスト教徒たちよ、そのような蒙昧がこの世においてそのみ業とみ手がありありと現れている真の神を崇敬するべきわたしたちの中にあることを神は禁じられています。

恵みを神のみからとしない誤謬

そのようなものは真のキリスト教徒ではない異端者が持つ発想であり発言です。ヨブが言うように、彼らが信じて言っているのは「雲が覆いとなって、神は見ることができず、天の周りを歩き回るだけではないか(ヨブ22・14)」ということです。エピクロス学派の者たちもこれと同じく、神は天のほとりを歩かれるのみで地にある者に対しては何の関心も持たれず、人の世の成功などはすべて偶然かあるいは運命のはたらきによるもので、神がみ手を下されてのものではないとしています。これに対しては「愚か者は心の中で言う、『神などいない』と(詩14・1)」という言葉の他に何があるというのでしょう。ダビデの口によっての神のみ言葉をもってする以上にそのような者を責めることはできないでしょう。彼は「聞け、私の民よ。私は語ろう(同50・7)」と語り始めます。「私こそ神、あなたの神。いけにえのことでは、あなたを責めない。焼き尽くすいけにえは絶えず私の前にある。私はあなたの家から雄牛を、囲いの中から雄山羊を取り上げはしない。森の息斧はすべて私のもの、千もの山々にいる獣も、私のものだから。私は山々のすべての鳥を知っている。野にうごめく虫も私のもとにいる(同50・7~11)。」預言者エレミヤもこう述べています。「私は近くにいる神なのか。主の仰せ。遠くにいる神ではないのか。人がひそかな所に身を隠したなら、私には見えないとでも言うのか。主の仰せ。天をも地をも、私は満たしているではないか。主の仰せ(エレ23・23~24)。」

神のみ前には何物も隠されない

 二者のどちらを信じることができるでしょうか。両目が見えないものとして描かれ、車輪に乗っていて不安定で不確かでありながら手にこれがあると自称する運命と、み手とみ力の中にそれが実際にあり、真と堅固さを決して否定されることがない神との二者です。神はご自身の目で天と地を見渡され万物の姿を掴んでおられます。人間のさもしい思考とは違って、神の知識の前には何ものも暗くもなく隠されてもいません。間違いなく神はあらゆる富と力と権威であり、あらゆる健康や隆盛や繁栄です。そこから出る神の寛容なご下賜なしには、つまり天の神から与えられることなしには、わたしたちは何ものも持つことはできません。人間の富や所有物については、ダビデが「あなたが与えると、彼らは拾い集め、御手を開くと、彼らは良いもので満ち足りる。御顔を隠すと、彼らは恐れ(詩104・28~29)」ると証ししています。ソロモンは「主の祝福こそが人を豊かにし(箴10・22)」と述べています。同じように、かの聖なる女性であるハンナも「主は貧しくし、また富ませ、低くし、また高めます。弱い者を塵の中から立ち上がらせ、貧しい者を芥の中から引き上げ、高貴な者と共に座らせ、栄光の座を継がせてくださいます(サム上2・7~8)」と語っています。

すべてのものは神からの賜物である

森羅万象という善き賜物も、魂へのみ恵みという十全な賜物も、異端者たちの言う運命からではなく、実は神から与えられているものであり、神のみからのものでしかないと知ることから何がわたしたちを遠ざけているかを考えてみましょう。これについて考えるのは実に多くの理由から重要です。というのは、率直に言えばそういった賜物にかかわって誰に感謝が向けられるべきかにわたしたちが思いを致すことができるからです。何らかの善性がわたしたちの内にあるとしても、それはあらゆる讃美を全能の神に献げてゆえあるものとするならば、そもそも罪や悪徳のほかにわたしたち自身から本来的に出るものはないということになり、そう自覚することでわたしたちの高慢さは薄れていきます。神がみ心のままに賜物を与えてくださっているのを見ていながら、自分よりも賜物が少ないからといって隣人を軽蔑して、自分が隣人よりも優れていると思ってはいけません。わたしたちの賜物についてよく考えれば、自分が隣人よりも高いところにあるとは思えないはずです。「知恵ある者は自分の知恵を誇るな。力ある者はその力を誇るな。富める者はその富を誇るな。誇る者はただこのことを誇れ。悟りを得て、私を知ることを。私こそ主、この地に慈しみと公正と正義を行う者(エレ9・22~23)」とあります。そうしないのなら、わたしたちは聖パウロの「あなたを優れた者としているのは、誰なのですか。あなたの持っているもので、受けなかったものがあるでしょうか(一コリ4・7)」という言葉で責められることになります。

知恵は神に求めて与えられるもの

 みなさん、あらゆる善きものが全能の神から出ていると告白することは知恵の要諦であり、そのように告白することでその善きものを授かろうとしてわたしたちがどなたに訴えるべきであるかを覚えることができます。聖ヤコブは「あなたがたの中で知恵に欠けている人があれば、神に求めなさい。そうすれば、与えられます(ヤコ一・五)」と言っています。また、かの賢者がこの賜物を求めて神に訴えたことはこのように残されています。「しかし、神が与えてくださるのでなければ、知恵を得ることはできないのであり、誰からの恵みであるかを知るのは、賢明なことであると私は知っていた。そこで私は主に向かって祈り、心の底からこのように言った(知八・二一)」とあります。みなさん、わたしは聖ヤコブが言うように、またかの賢者がそうするようにと説いているように、わたしたちにとってなくてはならないものを神に求めたいと思います。わたしは神のみがそのようなものを与えてくださるとすべての人が確固として信じることを望みます。わたしたちがそう信じれば、自分たちにとってなくてはならないものをいまそうしてしまっているように、つまり日常的によくみられているように、悪魔やその手下に頻繁に求めることはなくなります。肉体の健康だけを求めるとしても、護符や魔術などといった悪魔の所業にではなく、どなたにそれを願うべきでしょうか。

神を棄て悪魔に傾いてはならない

神がこの健康という賜物の作者であられることをわたしたちが覚えていれば、わたしたちは神に定められたとおりにのみ行いを為すことができます。その賜物を与えられるに相応しいと神がお思いになる限り、わたしたちは神の喜ばれるところに留まることができるでしょう。神は富をもたらされる方であると商人や借家人が知っていれば、神が定められたとおりにのみ取り引きを行って満足がゆくようになります。生活の糧を得るにしても、真がその者にもたらす以上に豊かなものはなく、また自身が得たものを悪魔の手に渡すことも、自身の利益を悪魔の手に求めることもないでしょう。悪魔から富を得ることを神が禁じられますようにとみなさんは言うことでしょう。そのようなことをする者は、まさに狡猾さや策略や作意をもって高利貸しや恐喝や偽証で身を立て、悪魔からの賜物を受け取っています。そのようなことを行い、神が定められた真を無にする者はすべて、神を棄て悪魔の崇拝者となって金品や利益を受け取ることになります。そのような者は命じられるままに悪魔の前で跪いて悪魔を崇拝しています。悪魔はそのような者に、そうしさえすれば世界とそのなかのあらゆるものを与えると約束しています。彼らは悪魔の喜びとするところや求めるところを満たすことで悪魔に仕えます。悪魔の所業や意図はわたしたちに真を棄てさせ、過ちや虚偽や偽証へとわたしたちをいざないます。

良い忠実な僕は多くを任される

 したがって、自身の心を正しく神に誉れを向けることに置き、あらゆる賜物を神に求める人は、自身の必要を満たすためにではなく真のために行いを為しているのであり、神に仕えてあらゆる力を得ます。男性は求めるものがあるとき狡猾さをもってそれを得ようとはしないでしょう。女性は金品を得て貧困から抜け出そうとして他者と不貞を行うなどということはないでしょう。神は実に命と健康と富の作者であられます。聖ヤコブが言うようにわたしたちは神を作者であると覚え神に立ち帰るべきです。そうです、かの賢者が言うように、それがどなたからの賜物であるかを知ることが高い知識であり、他の多くの根拠から、あらゆる善性と恵みは作者である神から出ていると信じて知ることも高い知識です。これをよく踏まえて、神がわたしたちに持つようにとなされたことを大切にして、勤勉にそれを神の栄光のために、また隣人の利益のために用いるべきと考えなければなりません。そうしてわたしたちは結果として善い賜物を得て善い僕として褒められ、このような言葉を聞くに至ります。「よくやった。良い忠実な僕だ。お前は僅かなものに忠実だったから、多くのものを任せよう。主人の祝宴に入りなさい(マタ25・21)。」加えて、神をわたしたちが授かっているあらゆる賜物の作者であると確かに信じることによって、それらが再びわたしたちの手元から取り上げられても、わたしたちは静寂と忍耐のなかにあることができます。

神は賜物を与えて奪うことがある

神はご慈悲をもってわたしたちにその賜物を使うようにとなされますが、一方でそれをわたしたちから取り上げられ、わたしたちの忍耐力と信仰を試されます。一部を取り上げて、残りの多くのものをより大切にするようにとされ、そののち改めてすべてを再びわたしたちに授けられた上で、それらをご自身の栄光のために用いるようにと説かれます。いま授かっているあらゆる善き賜物の作者は神であられることを信じていると口では言っていながら、誘惑を受けてそこから遠ざかる者がたくさんいます。そのような者は口で言っていながら行いにおいて否定しています。世の習わしをよく見ればこれが本当であることがわかります。物にたくさん囲まれた裕福な者がいるとしましょう。何らかの問題から自身の所有物がなくなれば大いに怒ったりうろたえたりして、ひどく不平を口にして投げやりになるとします。良い評判という賜物を得ている者がいるとしましょう。中傷する者によって名声が汚されれば心中が穏やかではなく、受けた侮辱に報復をしようとして足掻くとします。知恵という賜物を得ている者がいて、悪意を持った者からその博学ぶりを貶められて愚か者との誹りを受け、大いに落胆してしまうとします。さて、この者たちは神がさまざまな賜物の作者であるということを堅く信じている者であると言えるでしょうか。堅くそう信じているのなら、どうして神が寛容にも与えられている賜物を一時的にのみ取り上げられているということに対して忍耐をもって臨めないのでしょうか。

神は鞭を火の中に投げ込まれる

 みなさんは「そういった賜物を神が自分から取り上げられるとしても、自分は平穏な心持ちでそれを神にお預けすることができる。しかし、それらが邪な意図や偽りのあるずる賢さによって、悪辣な者どもによって取り去られてしまったら、果して忍耐強く受け入れることができるだろうか」と言うかもしれません。これに対して返すとするならばこうなります。全能の神はそもそも不可視であり、誰のところにも人間のように目に見える形でお出でにはならずに一時的に賜物を取り去られます。ただ何を為されるにしても、神はご自身で定められた道具をもってそれを為されます。神のもとには善き天使もいれば悪しき天使もいます。善人もいれば悪人もいますし、雹もあれば雨もあり、風も嵐もあり、熱さも冷たさもあります。あまたの道具や使者を神はお持ちであり、それによって神は人に与えられた賜物を、わたしたちの信仰を試すべく取り上げられます。「被造物は創造主であるあなたに仕え、不義の者たちを罰するためにはその厳しさを増し(知16・20)」とかの賢者が語るとおりです。彼はまた、神が動物を遣わされてご自身に歯向かう者に復讐をなされるとともに(同16・1)、わたしたちの信仰を試すべく嵐を起こされるとも述べています(同16・16)。さまざまな手段や道具をもって、神はわたしたちから賜物を取り上げられます。神の敵がその羊たちを迫害し悪魔が神の子らを殺めたり重い病気で苦しめたりしても、忍耐をもって神の裁きを受け入れ、ヨブが「主は与え、主は奪う(ヨブ1・21)」と言うように、神は賜物を取り上げる方であり授ける方であると覚えなければなりません。このような従順さはかの聖なる王にして預言者であるダビデに見られました。彼は家臣全員の前でシムイに罵られましたが、忍耐をもってそれを受け入れ、罵り返さうむしろ神が自身の無実と名声の作者であると告白し、神のみ心のままであるようにとしました。自身に同行していて屈辱への復讐を望む家臣に対して、ダビデは「呪わせておきなさい。主が彼に命じているのだから。主が私の苦しみを御覧になり、今日の彼の呪いに代えて幸いを返してくださるかもしれない(サム下16・11~12)」と言いました。神に遣わされた者が、ともすれば悪意をもって悪しきことを行っているとしても、そもそも神がその者の悪しき行いをわたしたちに向けているのは、わたしたちの忍耐力を明らかにするためです。神の鞭による怒りを受けるというよりは、むしろ自ら進んで耐えるべきです。わたしたちを育てようとして正してくださったのち、神はそうするべきものとして、ご自身の鞭を火の中に投げ込まれます。

まとめと結びの短い祈り

 わたしたちの能力や権利のすべては神の賜物であり、わたしたちはこの賜物を神が喜ばれるままに手放すときがあるということを心に銘じているべきです。この世の生において、わたしたちはあらゆる善きものがどのような名前や本性を持つものであろうと、神から出ているものであると告白するべきです。それはわたしが先ほど述べましたような腐敗しやすいものよりも、わたしたちの魂にはたらくあらゆる霊的なみ恵みのほうが多くあります。このあとこの説教の次のところでみなさんにお話しますが、神の善性なしには、誰も信仰に招かれることもなく、信仰に留まれることもありません。この世にあってみなさんはこの教えの真を心に留めることを忘れてはなりませんし、この世の生におけるあらゆるところで正しく信仰を持つことも忘れてはなりません。そうすることによってみなさんは救い主キリストによって約束された祝福に至ることができます。神のみ言葉に耳を傾け、この世の生においてそのとおりに行う人は祝福されます。その祝福をわたしたちにあまねく授けられる神とはあらゆるものを統べられる三にして一なる神、父と子と聖霊なのです。この神にすべての誉れと栄えがとこしえにありますように。アーメン。



今回は第二説教集第17章第2部「良い忠実な僕」の試訳でした。次回は第3部の解説をお届けします。最後までお読みいただきありがとうございました。

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