愛をもって耐えた方(2)(第二説教集13章2部試訳2) #154
原題:The Second Homily concerning the Death and Passion of our Saviour Christ. (救い主キリストの死と受難についての第二の説教)
※タイトルと小見出しは訳者によります。
※原文の音声はこちら(Alastair Roberts氏の朗読です)
(28分39秒付近から):
キリストが神の怒りの宥めとなった
神はご自身がどれほど大きく罪を忌み嫌われているのかについての明確な徴をお見せにはならなかったでしょうか。全世界を洪水で覆ってたった八人だけをお救いになりました(創7・23)。ソドムとゴモラを火と硫黄で滅ぼされましたし(同19・23~24)、ダビデの罪に対して三日の間に七万人を疫病によって死に至らしめられました(サム下24・15)。ファラオとその兵たちを紅海に沈められましたし(出14・28)、ネブカドネツァル王を四本足で歩く卑しい獣に変えられました(ダニ4・30)。アヒトフェルとユダは良心の呵責に耐えかねて自ら首をくくり(サム下17・23、マタ27・5、使1・18)、その最期はとても悲惨なものでした。探そうと思えば他にもあまたの例が聖書の中に見られます。とはいえそんなに多く必要でしょうか。わたしたちがいま得ているただ一つのことが、他のすべてにまさって最も力があってわたしたちの心を動かすこととしてあります。神のみ子であり全き神ご自身であられるキリストは、何も罪を犯されなかったのに天から地に降りて来られ、肉体を辱められ、わたしたちの罪のために十字架の上で死を迎えられたということです。これこそが、愛するみ子の美しく貴い血の他には何ものをもってしてでも鎮められることのない、罪への神の大いなる怒りや憤りの大いなる徴ではなかったでしょうか。
罪を憎み神を畏れるべきである
ああ、罪よ罪よ、汝こそがキリストをあのような苦難に追いやったのです。汝がこの世にやって来た時代に呪いあれ。とはいえいま何が罪を懲らしめ嘆かせているというのでしょう。罪はすでにやって来ていて、それを避けることはできなくなっています。「正しき者は七度倒れても起き上がる(箴24・16)」とソロモンが語っています。救い主キリストがわたしたちを罪から救い出されたものの、わたしたちはいまだ罪を犯すことから抜け出せてはいません。しかしそうであるのに、まだわたしたちは罰を受けていません。「私たちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません(ロマ6・8~9、24、ヘブ2・14~15)。」これは、罪を犯したことで神によっていわば力づくで天から引き離され、死の恐怖や痛みを感じるに至っているわたしたちに、罪を大いに忌まわしく思わせるものではないでしょうか。ああ、わたしたちは時にこれについて自身の栄華や享楽のただ中で考えるべきです。そうすることによって肉の法外さがわかり、肉への執着がなだらかに和らげられ、肉の欲が野放図に走ることを抑えられます。神への畏れなく意図して悪意を持って罪を犯すことは、キリストをまたもや十字架につける以外の何ものでもありません。これはわたしたちが『ヘブライ人への手紙』の中で知っているとおりです(同6・4~6)。このことをすべての人々が心に深く刻み込んでいれば、罪がいたるところに蔓延ることもなく、いま天に座しておられるキリストが深く悲しみ嘆かれることにも至りはしないのです。
キリストは神の確かな愛の徴である
十字架につけられたキリストによって、わたしたちは大いに罪を忌み嫌って神を敬愛しようとする熱誠あふれる心をもって、内なる自分を動かされることを覚えて心に留めるべきです。そうすることによって、キリストの死に関する記憶から、神への熱をもった揺るがない敬愛につながる果実がわたしたちにもたらされます。聖ヨハネは「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである(ヨハ3・16)」と述べています。神はわたしたち愚かな被造物に対してそれほどに大きな愛をお示しになっていますが、わたしたちはどのようにしてその愛に応えることができるのでしょうか。み子を天から遣わされるというのは神の愛の確かな徴でした。神はそうなさろうとお思いになれば、天使かあるいは他の被造物をお与えになることもできたはずなのですし、そうであっても神の愛はわたしたちに注がれるに十分であったでしょう。しかし、神は天使ではなくみ子をお与えになりました。なぜみ子なのでしょうか。神のひとり子であり、実の子であり、愛すべき子であり、神がすべてのものの主であり統治者と定められた子です。これが大いなる愛を示すひとつの徴ではなかったでしょうか。神はみ子を誰に与えたのでしょう。神はみ子をこの世のすべてに、つまり、アダムとその後に続くすべての者たちにお与えになりました。ああ神よ、アダムも他の人間たちも、神のみ手からみ子を与えられるのに何の相応しさがあるというのでしょう。わたしたちはみな悲惨な人間であり、罪深い人間であり、楽園を追われ、楽園から遠ざけられ、地獄の業火に行かされる死に定められた人間です。それなのに愛の大いなる徴として、神はわたしたちにみ子をお遣わしになりました。わたしたちはいわばみ子に反抗する死すべき敵であるのに、十字架の上で流されたみ子の血という美徳によって、罪は洗い流され、神の前に義であるとされました。そのような言葉にし尽せないほどの愛を、神が死すべき敵であるわたしたちに向けられたことを知って、驚くほかのことをできる人がいるのでしょうか。
人間の内には功績も善性もない
しかし、ああ、死すべき人間たちよ、みなさんがこのことに驚くのには無理もありません。神の大いなる善性と人間への慈悲はあまりに素晴らしいものであるので、この世のいかなる肉的なものの知恵をもってしてもとらえきることも言い表しきることもできないということを知るべきです。聖パウロは「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました(ロマ5・8)」と言っています。いくらかでも知恵があったのなら、わたしたちが神のみ手から愛を受けるに相応しかったというのはまったく驚くにはあたりません。ただ、わたしたちの側には何の功績もありえないので、キリストがそれを為されたのです。罪深い被造物であるみなさんは、神がみ子をこの世の罪のために死に定められたことを覚えるのなら、自分たちの中に功績や善性があるなどと考えてはなりません。あなたがたは悪魔の奴隷であったのであり、ひざまずいて預言者ダビデとともに「人とは何者なのか、あなたが心に留めるとは。人の子とは何者なのか。あなたが顧みるとは(詩8・5)」と叫ぶべきであるのです。
神の愛を覚えてそれを求めるべし
神がみなさんをいたく愛してくださっていることを覚え、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして神を愛することを追い求め、神の愛を受けるに相応しくないなどとはならないようにしなければなりません。みなさんが自身の愛を神に間違って献げ、神がみ心のなかでみなさんを愛されていることを見出せていないと思っていないかどうかを、わたしはみなさん自身の良心に対して問います。神がみなさんを大いに愛され、たったひとりのみ子を、みなさんのために惨く恥に満ちた死へと向かわせるのを惜しまれなかったというのはまさしく真です。これが真であるのですから、みなさんが神を愛するということがどれほど大切なことであるかを考えてほしいのです。キリストの死や受難の原因について言えば、わたしたちの側にある極めて恐ろしく大きな罪がそれでした。それと同じほどに、一方でこれは、わたしたちの側に何の功績も功徳もないにもかかわらず、神からの無辺の賜物であり、人間に対する神の慈悲深い愛を見せるものでもありました。神は慈悲深さのゆえに、わたしたちがけっしてキリスト・イエスの救済というこの大いなる恩恵を忘れないようになされました。神はわたしたちには常にその恩恵に対して感謝を見せるようにとされ、あらゆる邪さや罪を忌み嫌われ、わたしたちの心をすべてご自身に仕えることとその戒めを勤勉に守ることに向けさせられました。
キリストの死を覚えるためには
さて、わたしがみなさんにお示ししたいことのなかで、キリストの死や受難をどのようにしてわたしたちの心の平安に結びつけるのかということがまだ残っています。これはわたしたちの傷を癒す薬として、どこで与えられようと同じ効力を持ち、わたしたちの魂の健やかさや救いにつながるものです。傷薬を持っていても、病気になった箇所によく塗らない限りは人間に何の効果もありません。同じようにキリストの死も、わたしたちがそれを神が定められたものに当てはめない限りは何の意味も持たなくなります。全能の神は常にあらゆる事柄をもって業をなされていて、このことにおいても、ある事柄を定めておられ、それによってわたしたちは果実を受け取り、魂の健やかさに至ることができます。
堅固で脆さのない信仰を持つべし
その事柄とは何でしょうか。それは信仰です。ただし、不確かでかりそめの信仰ではなく、確かで固く土台のしっかりした、脆さのない信仰です。「神は、その独り子をお与えになった」と聖ヨハネは言っています。それは何のためだったでしょうか。「御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るため(ヨハ3・16)」です。この「御子を信じる者」という言葉が大切です。ここに、それによってわたしたちがキリストの死による果実を自分の死すべき傷にあてるべきものがあります。ここに、わたしたちが永遠の命を得るに至るものがあります。それこそが信仰です。聖パウロは『ローマの信徒への手紙』の中で、「人は心で信じて義とされ、口で告白して救われる(ロマ10・10)」と述べています。彼は牢の看守に「救われるためにはどうすべきでしょうか(使16・30)」と尋ねられ、こう答えました。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます(同16・31)。」かの福音記者は主イエスの生と死について詳しく述べたのですが、その締めくくりはこうでした。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じて、イエスの名によって命を得るためである(ヨハ20・31)。」聖パウロの締めくくりの言葉は「キリストは律法の終わりであり、信じる者すべてに義をもたらしてくださるのです(ロマ10・4)」となっています。
救いのために持てるのは信仰のみ
これによってみなさんはお分かりになるでしょう。救いに至るためにみなさんの側にある唯一のものが信仰です。これは言いかえれば、神の慈悲への揺るがない信頼と確信であり、それをもってわたしたちは自身に教えを説くことができます。神はわたしたちの罪を知ってそれをお赦しになり、わたしたちをその恩寵のなかに受け入れてくださり、わたしたちを破滅の縄から解いて、選ばれた民のうちに数えてくださります。これはわたしたちの功績や功徳によるものではなく、わたしたちのために人となられ、へりくだって十字架の責めを受けられたキリストの死と受難による功績のみによるものです。そうしてわたしたちは救われ、天の王国を受け継ぐ者となります。この信仰がわたしたちに求められます。これをわたしたちが堅く心の中に持てば、間違いなくわたしたちは神のみ手から救いを賜ることになります。これはアブラハムやイサクやヤコブも為したことであり、聖書に「主を信じた。主はそれを彼の義と認められた(創15・6、ロマ4・3)」と書かれていることです。
キリストの死を信仰をもって覚える
これは彼らだけに当てはまることだったのでしょうか。わたしたちには当てはまらないことなのでしょうか。わたしたちにも当てはまります。彼らと同じような信仰を持てば、わたしたちも彼らと同じく義と認められます。わたしたちと彼らの両方を救うのは一つの信仰であり、これはキリスト・イエスへの確かで揺るがない信仰です。みなさんはもう知ってのとおり、キリストがこの世に来られたのは「御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るため(ヨハ3・16)」という目的のためでした。ここでわたしたちは、不確かでかりそめの信仰をもって神のみ前にあることのないように気をつけなければなりません。わたしたちの命の目的に向かって、信仰は強く硬いものでなければなりません。聖ヤコブは「疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。そのような人は、主から何かをいただけるなどと思ってはなりません(ヤコ1・6~7)」と言っています。キリストが水の上を歩かれたとき、聖ペトロは信仰が不確かであったので、溺れ死にそうになりました(マタ14・29~30)。わたしたちも迷ったり疑ったりとし始めれば、聖ペトロと同じように沈んでしまいかねません。ただしそれは水の中へではなく、底知れぬ地獄の業火へです。それゆえわたしはみなさんに言いたいのです。わたしたちは信仰をもって、強く堅い信仰をもって、疑うことなくキリストの死と受難の功績をとらえるべきです。キリストは十字架の上でご自身の身を献げるという奉献によって、わたしたちの罪を取り除かれ、わたしたちを神の恩寵へと回復させられ、十分にまた完全に、その後この世において人間の罪のために他の何のいけにえも求められず必要ともされないようにとなされました。
まとめと結びの祈り~信仰のみ
ここまでみなさんは聖書のいろいろな言葉をもとに、キリストの死の功績という果実に与ることと、魂の救いに働く事柄について話を聞きました。それは確かで堅く純真で揺るがない信仰です。青銅の蛇をしっかりと上げた人々すべてが、一目その蛇を仰ぎ見れば肉体の病や傷が癒されて救われたように(民21・9)、十字架につけられたキリストを真にして生ける信仰をもって上げる人々はすべて、魂の深い傷から間違いなく救われ、数において多い死した者に入ることはありません(ヨハ3・15)。それゆえ、愛すべき人々よ、そうなってはいけないものの、わたしたちにはそうなる恐れが常にあるので言います。いつであれ肉の不確かさによって罪へと落ちそうなことがあれば、あるいは、それによる重荷を感じて死や地獄や破滅という恐怖に苛まれて自身で魂を圧し潰してしまうと感じることがあれば、神がみ言葉において定められた事柄を思い出しましょう。それはつまり信仰であり、これこそが救いに至るためにいまわたしたちの手にある唯一の方法です。十字架につけられたキリストを心の目でしっかりととらえましょう。わたしたちはキリストの死と受難によって救われ、その極めて貴い血によって罪を洗い清められることを信じましょう。世の終わりにあってキリストは生ける者と死せる者とを裁かれ、わたしたちはその天の王国に受け入れられ、選ばれた人々のうちに数えられ、ついにはキリストが血潮したたる傷によって得られた美徳によって贖われた不死にして永遠の命を授かる者となるのです。キリストに、父と聖霊とに、すべての誉れと栄えがとこしえにありますように。アーメン。
今回は第二説教集第13章第1部「罵られても罵り返さず」の試訳2でした。これで13章を終わります。次回から14章に入ります。最後までお読みいただきありがとうございました。
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