解説 偽預言者に注意せよ(中編)(第二説教集2章3部) #89
原題: An homily against Peril of Idolatry, and superfluous Decking of Churches. (教会をいたずらに飾り立てて偶像崇拝を行うことの危うさについての説教)
※第3部の解説も3回にわけてお届けしています。その2回目です。
※第2章の全体像についてはこちら:
第2章第3部の解説の2回目です。テーマを聖句で表したものと、この部のポイントを確認します。
しかし、私を信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、ろばの挽く石臼を首に懸けられて、深い海に沈められるほうがましである。人をつまずかせるこの世に災いあれ。つまずきは必ず来るが、つまずきをもたらす者には災いがある。(マタイによる福音書 18章6~7節)
①第2部までの振り返りと第3部の目的
②偶像を正当化する者たちのへの反論
③偶像および偶像崇拝の持つ問題点の整理
④偶像によってどれほど信仰が乱れているか
⑤キリスト教会が全体として抱えている問題
⑥偶像崇拝に対する世の法の無力
⑦偶像に惑わされることへの戒め
⑧真の信仰に立ち帰ることの勧め
⑨まとめと結びの短い祈り
今回はこのうちの④と⑤についてになります。
偶像について、キリスト教徒のものと異教徒のものが違うということはないと説かれます。信ずるものが何であれ、偶像は悪であり躓きです。
このようなものに向けて持つ行いについても、キリスト教徒は異教徒と同じところに堕しているとされています。
このあと、異教の神々のみならずキリスト教の聖人の名が数多く挙げられ、人々がそこに崇拝を向けているということが述べられます。かなり具体的な行動についてまで述べられていますし、アウグスティヌスやクレメンスなどの説も引き合いに出されます。説教者に権威付けをするためか、説教者に学ばせるためか、ときにはラテン語のくだりまで出てきます。ここで言わんとすることの要点となる箇所を挙げるとすれば次のところになるでしょう。
信仰が乱されている根本には偶像があり、その偶像を信奉する者に対する戒めが聖書を引き合いに出して述べられます。
教会堂には躓きとなる偶像は置かれるべきではない。しかし一方で、説教者が充実していれば人々が偶像に惑わされることもないということも言えます。ただし、これについては切実なことが述べられています。
これは体制による説教者擁護であるのか、あるいは体制が説教者に自戒を迫っているのか。これを説教壇から説かれる人々はどのように感じたのかが気になるところです。理想とする教会の姿に思いを致しつつ、説教はなおも続きます。
今回は第二説教集第2章「教会をいたずらに飾り立てて偶像崇拝を行うことの危うさについての説教」の第3部「偽預言者に注意せよ」の解説(中編)でした。次回はこの解説の後編をお届けします。
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