ある男の憂鬱
ふと目覚めると、そこは見慣れない場所だった。
どうやら、どこかの病室で寝ているらしい。
急に起き上がったせいか、不意に鋭い頭痛が走った。頭の奥のずっと奥の方にまで響く。
頭痛が過ぎ去るのを何秒か待って、またゆっくりと瞼を開ける。
やはり、ここはどこかの病院のようだ。
大部屋だが、私以外患者はいないようだ。
まだ頭痛が続いている。
ここに至るまでのことを思い出そうとするが、頭痛の先にある白いモヤモヤの先には何も見えず、なぜ自分がここで寝ているかが思い出せない。
自分が誰なのかさえも。
まだ身体も上手く動かせないが、ゆっくりと身体を起こしてみた。
激しい運動をした次の日のような気だるさを全身から感じる。
しかし、どこにも怪我はないようだ。
ただ、まだフラフラするし、歩けそうにない。
困ったな、誰か来るまで待っていようか、そう思っていたところあることを思い出した。
そうだ、病室ならナースコールがあるはずだ。
枕元にそれっぽい押しボタンがあったので押してみる。使用され摩耗されたそのナースコールから返ってくる感触は頼りなかったが、ジジッと小さいが音が鳴った。
これで誰かは来てくれるだろう。
5分ほど待っていると、白衣を着た初老の男性がこれまた白衣を着た女性とともにやってきた。
お医者さんと看護師さんだろう。
「おはようございます。
よく眠られていましたね。
私はあなたの主治医の柳本です。
こちらは看護師の北野さんです。
私の言っていることがわかりますか?」
医師の柳本さんはゆっくりと私に話しかけてくれた。
横の北野さんも愛想のいい方・・ではなさそうだが、悪い人でもなさそうだ。
「はい、わかります。」
私の聴力や思考能力が正常かどうかを確かめたかったのか、柳本医師は私の顔を一旦覗き込んでから、静かにこう語りかけてきた。
「いいですか、落ち着いて聞いてください。
今日は「2025年10月14日の火曜日」です。
あなたがここに運び込まれてから、1年と5ヶ月
の時間が経過しています。」
1年と5ヶ月だって?!
そんなにも私はここで寝ていたのか。
でもどうして?
私に何があったのか。
いや、待て、柳本医師は気になることを言った。
今日は「2025年の10月14日」だって?!
その日は妙に引っ掛かりがある。
頭の奥の白いモヤの先から、何かが伸びてきていた。
そうだ!「アレ」が終わる日だ!
じゃ、じゃあ、あ、「アレ」はもう終わったのだろうか。
「一つ、お聞きしたいのですが先生。
ば、万博は、大阪万博はもう、
終わったんですか?
ちゅ、中止とかになってないんですか?」
自分でもなぜアレのこと、大阪万博のことがこんなに気になるのかはわからない。
普通ならなぜここに運び込まれたのかであったり、自分の身体の心配をすべきなのだが、いまどうしても先に聞きたいのだ。
アレは昨日、つまりは2025年10月13日で閉幕する予定だったのだ。
柳本医師は一瞬困惑した表情を見せてから、またゆっくりと私に答えた。
「目覚めて最初の一言がそれ・・ですか。
あなたらしいと言えば、あなたらしいですね。
万博は・・2025大阪万博は昨日終了
しましたよ。
大人も子どもも、皆が楽しんで大成功に
終わりましたよ。」
なんということだ!
万博は中止されなかった!
開幕前の工事の段階であんなことがあったのに!
「え、え、でも、建設途中に、
ガス爆発の事故があったんですよ!
夢洲からはずっとガスが出続けていた!
あんな危ない場所でなぜ!
開催期間中にも、ガス爆発とか、
ありましたよね?!」
興奮した私はベッドから飛び降りようとしたが、北野看護師に押し留められた。
小柄な体格からは想像がつかないが、意外と屈強であった。
「落ち着いてください。
あなたは一年と半年ほど眠ったままだった
のです。
急に動かないほうがいい。
それにどうですか、頭痛などしませんか?」
柳本医師にそう聞かれたのを合図に、また鈍い頭痛が始まって、私は顔を歪めた。
「ガス爆発なんて、物騒ですよ。
そんなことを望むなんて何とバカなことを。
・・失礼、言葉が過ぎました。
あなたが危惧していた「工事現場でのガス
爆発」に関しては、それから安全対策が強化
され開催されていたようですよ。
ええ、火気厳禁、とかでもなかったですね。
私も「イタリア館」で本場の美味しいジェノ
ベーゼパスタを頂きました。
やはり、頭痛がするようですね。
それにまだ記憶もはっきりとは戻って
いないようだ。」
ガス爆発もなかっただと?!
きょ、共産党の人たちも「夢洲からは毎日2トンもメタンガスが噴き出ている!」と街頭で叫んでいたじゃないか!
そんなはずは、そんなはずは、ない!
「先生、それ本当ですか?
私にショックを与えないように、
嘘をついているんじゃないですか?!」
私はまた強い口調で柳本医師に問いかけ身体を起こそうとしたが、北野看護師が無言ながら私の動向に目を光らせているのを感じ、そっと身体を元に戻した。
そしてまた柳本医師が語りかけるように私に話しかけた。
「まぁ、それはおいおいご自身で確認
されればよいと思います。
幸い、視力や聴覚、思考能力には影響は
出ていなさそうですからね。
まずはその頭痛の原因を調べないと
行けませんね。
これから脳波をチェックします。
そのあとは頭部MRI検査も。
記憶の混濁についても、
それでわかるかもしれない。
その前にあらかじめ、どの程度記憶が
戻られているか、確かめてみましょうか。」
そう言って柳本医師は私の正面に立って、覗き込むようにしてこう質問した。
「まず最初の質問です。
あなたのお名前を聞かせてください。」
名前?
私の名前?
そうだ、私は誰なんだ?
ここに来る前のことを思い出す。
鈍い頭痛がする中、白いモヤの中をシナプスをいくつも経由して脳の奥底を突き進んでいく。
そうだ、私の名前は、、
「め、目単・・が、賀須男、です。」
そう、私は目単賀須男、という名前だった。
それ以外はまだ・・白いモヤの奥から引っ張り出すことは難しいようだ。
続く
この物語はだいぶフィクションです。
実在の人物や団体などとは関係ありません。