note、はじめます。

エッセイを読むことにハマっている。

文章を書いたり読んだりすることは昔から好きだった。小学生のとき、友だちと遊ばずに本ばかり読んでいたために、共働きの両親に変わって面倒を見てくれていた祖母に「いじめられてんのけ?」と心配された。中学最初の定期試験で数学32点を取り、小学校で算数を教えている母親にぶち切れられたときも国語の点数は90点だった。コロナ禍の1人暮らし、退屈と孤独で打ちひしがれていたときも、救いを求めたのは誰かの書いた文章だった。

けれども、1年前までエッセイなんてほとんど読んだことがなかった。ハマってしまったのは、仮にも文章を書くことに少しだけ自信を持っている自分が嫉妬を抱くような作家に続けざまに出会ったからだ。

最初に出会ったのは、今や時代の寵児となっている星野源だ。
星野源を作家として見る人は少ないかも知れない。自分が最初に興味を持ったのも、俳優としての星野源だ。中学生のときに見ていた、NHKのコント番組で、ドラえもんをオマージュしたコントが死ぬほど面白かった。そこで演じていたのが星野源だった。
そのあと、歌手としての星野源に惹かれた。大学に入って「星野源のオールナイトニッポン」を聞くようになってからは、深夜にくだらないことを2時間も話しているパーソナリティが好きになった。
作家としての星野源に出会ったのは今年のはじめ、月に1回くらい行く歩いて15分くらいの書店で物色していたときだ。エッセイ集が出されることは知っていたが、たまたまそこで見つけたのと、カバーの絵がきれいだったのでレジに持って行った。

家に帰り、とりあえずページをめくった。とりあえずのつもりだったのだが、気がつけば4編くらい一気に読んでいた。特段すごい物語構成があるわけではない。ただ、自分の感じたことをそのまま文章に落とし込むことがすごく上手いと感じた。

自分の感じたことや考えをそのまま自然に文章にする、ということが苦手だ。というか、自分は今までしてこなかったと思った。入試や大学のレポートで求められる文章は、もしテーマが「自分の考えを書け」だったとしても、自分の考えを大幅に加工した文章だ。そこで求められる文章が評価されるには、序論・本論・結論の構成を考えろ、根拠となる文献なり箇所なりを示せ、体裁を揃えろ、など色々な条件をクリアしなければならない。そこでは、自分の感じたことや考えの過程なんかを正直に書かせてもらえる余地はない。

大学のレポートよりは、小中学校で誰しもが書いた(書かされた)読書感想文の方が自由に書ける場なのかもしれない。ただ、やっぱり読書感想文にしても「書き方」なり「評価のポイント」なりはある。目立ちたくはないけどやっぱり評価はされたかった当時の自分は、「言われるような書き方でなるべく評価のポイントに沿う」ようなものを書いていた。その結果書き上がったのは当然、自分の考えをそのまま書いた感想文ではなく、誰かに評価されるためのポイントを押さえた文章だった。その感想文を書いたのは自分じゃなくて、先生や審査員なんかの「他者の目」だったのだと思う。

就活で書いたエントリーシートなんて、そもそも「他者の目」にウケようとして作っている代物で最悪だ。自分自身の経験や感じたことを出汁にして、企業や面接官の印象に残ることを目指さなくてはならない。自分の体験をよりよく見せようとした結果、就活後半は等身大の自分が感じたこととの乖離ばっかりに目が行き、自分や他人に嘘をついているような感覚に陥っていた。
志望度の高かった某公共放送の面接試験で落ちるよりも、自分と他人をだましている罪悪感を持ち続けなければならなかったのが就活を通して一番嫌だった。

そんな時期に読んだことも影響したのかも知れないが、星野源のエッセイは誰にも評価されようとしていないように感じた(多くの人が支持しているけど、それはあくまで結果の話に見える)。それによって、自分の感じたこと、考えるようになった過程を素直に描写できているように思えた。星野源の感じる世界と、それを自由な言葉によって表現できる力に憧れのようなものを抱いた。

星野源とは雰囲気が違うけれど、同じくらい惹かれたのが漫才コンビオードリーの若林正恭のエッセイだ。
若林の文章は、毒々しい。感じた世界を自由な言葉で表現していることは星野源と共通しているけど、若林は周囲や社会への恨みまで切実にぶちまけている。文章の中で自分の世界を持っている。こんな自由なことをしていいんだ、と思った。

あと、最近は友人が書いているnoteにも多分に影響を受けている。普段話している感じをそのまま文章に落とし込んでいる記事がすげぇと思ったし、普段話している感じではない、洗練された書き言葉だけどおそらく感じていることをそのまま書いてるのであろう(真意は聞かないと分からないが少なくとも自分はその文章から「自由」を感じる)記事は本当に綺麗だと思った。

この人たちの文章の持つ、誰にも縛られていないという意味での自由に惹かれて、エッセイにハマっている。

それと同時に、自分もその自由を手にしたくなった。
エントリーシートやレポートを書きまくってきた最近の自分は、自分と自分以外が感じていることの境界線が曖昧になっている。例えば怒りを感じたとしても、すぐに怒りに対する反対意見を想定して、自分自身で折り合いをつけてしまう。折り合いをつけた頃には、もともと自分が何を感じていたんだか忘れてしまっている。

最近まではそれが強みだと思っていた。「自分という1つの目線にとらわれない多面的な考え方ができる」ことは正義だと思っていた。そういう考え方を長らくしていたおかげで、バイト先で10歳くらい下の子どもにどんなにハチャメチャなことを言われても、その子の背景なり置かれた環境なりを想像して、自分の中で納得するという能力は身についた気がする。

けど、そうやって絶えず自分を変化させていくことで、自分の感じ方なり考え方なりに一貫性がなくなってしまうことに気付いた。このままでは「大学生」や「会社員」という肩書きでしか自分を語ることの出来ない大人になってしまいそうだと思ったとき、はじめて教職の教育心理学だかで習ったアイデンティティ拡散とかいう言葉の中身が実感として分かった気がする(それを歌にしてしまう山口一郎はすごい)。

そんな自分はきっと、今思っていることや感じていることも数年後には綺麗さっぱり忘れてしまっている。けれど、それは21歳の自分の世界を丸々なかったことにしてしまうのと同じではないかと思ったら、最近は少しだけ怖いなと感じるようになってきた(多分この怖さもしばらく後にはなかったことになってしまう)。

そこで、エントリーシートのせいで煩った「文章で嘘をついている感覚」をなくすための治療と、自分自身が感じたことを将来確認するための繋留点として、ここで文章を書くことにした。


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