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コンプレックス 4

■コンプレックス4
 
毎日のように神業オムレツを見続けたボクは、それに興味を持ち自分の賄い用とお願いし、
毎日毎日練習してみた。
最初は全く思うようにいかなかったが、毎日違う担当のコック(若いスタッフも多かった)
が見かねて「ささやん、こうだよ!」と言ってコツを教えてくれた。
継続は力なり!ボクはオムレツの名人となり、その技は今でも自分の中でインプットされている。
ポイントを熟知しているので間違いなくきれいなオムレツが今でも焼けるのだ。
 
そんなこんなでマイケルH城氏は、レストランでの私の対応に大変喜んでくれて、
そしてアメリカに帰っていかれた。
 
彼が、次に登場したのは半年後位で、それは何の前ぶりも無かった。
ある晩ふいに現れた。
 
ボクは彼との再会がとてもうれしかった。
「H城さん、いらっしゃいませ。イヤーうれしいです。今日は再会出来た記念に
本城さんの好きなドライの白ワインを私からサービスしますよ!」
H城さんもとても嬉しそうであった。食事をサービスしながら、色々な話で盛り上がった。
 
H城さんの滞在中に、彼から有名なイタリアンレストランに連れていってもらった。
そのレストランはラ・コロンバ! フェヤーモントホテルのすぐ近くにあり、
当時話題のイタリアン・レストランであった。
お店の前には毎晩のようにポルシェが並んでいる。エントランスの外には、
たっぷりの氷を入れた中に生のお頭付の鯛やらカサゴやら、イトヨリやら、エビやらカニやら
とにかく高級そうな生鮮食材が入ってくるゲストをアッと言わせるのであった。

ボクは、このお店でチコリのサラダのウンチクを聞き、ジビエの美味しさのウンチクを聞いた。
チコリなんて、誰も知らない時代のことである。知りたくてもどこにも売っていなかった。
 
金大中が拉致されたホテルとして有名なホテルグランドパレスのバーに飲みに連れて
いってもらったりもした。
お客様におごってもらっていいのかなぁ・・?と、少しだけ考えたりもしたが・・・
まあいいかぁということで、あまり深くは考えなかった。
 
ある時H城さんがこう言った。
「笹川君は、本当にホテルの商売が好きみたいだね!良かったらニューヨークに
遊びにお出でよ!ニューヨークで評判のレストランに毎日連れていってあげるよ。
凄い勉強になると思うよ。ウチに泊まってもいいし、嫌だったらホテル手配してあげるよ。
飛行機のチケットだけ自分で用意すれば後はお金かからないから!」

「まあ、ゆっくり考えてから返事は手紙でもちょうだい。」
と言って彼はアメリカに帰っていった。

夢みたいな話しだ・・と思った。
しかし好意に甘えていいものなのか?それからしばしその事ばかり考えていた。
 
ある休みの日、家でテレビを見ていると、映画「ある愛のうた」をやっていた。
劇場で既に見た映画であったが、なんとなく見ているうちに段々引き込まれた。
舞台はニューヨーク。とても刺激的に見えた。
その時に腹が決まった。「ニューヨーク」へ行こう!と。
 
ボクはH城さんに「桜の忙しさが終わる4月15日にニューヨークへ行きます。」と手紙を書いた。
 
それからパスポートを取り、ビザを取り(その当時はアメリカ旅行にもビザが必要だった)チケットを手配した。
 
当時ニューヨークへの直行便はパンナムしか飛んでなかった。
パンナムのチケットは、30万円位だったと思う。
今であれば、ホテルもついて他の都市、ロスやサンフランシスコも一緒に廻っても
10万円位のツアーがごろごろしているので、当時はかなり高かった。
 
一通りのアメリカ行きの準備は出来たので、ボクはすっかり安心した。
そして、ガイドブックを研究したり、英会話の勉強をしたり、出国入国の
手続きの勉強をしたりというとても大切な事を一切しなかった。
日ごろから外国人を相手に仕事をしているんだから、なんとかなるだろうとしか
思っていなかったのだ。
 
それと出発前は、桜の季節で鬼のように忙しく、四月になって花が咲いてから
休みが取れないどころか、ホテルに泊まり込みで朝から晩まで働きぱなしであった。
 
出発の前の日、オーナーがフラリと現れ、100ドル紙幣を「しゃしゃがわ(笹川の意味)餞別だ!」
と言って渡してくれたのは、驚きであった(思い起こせば、随分オーナーにも可愛がられていた)。
 
出発の日は、フェヤーモントから成田行きのリムジンバスに乗り、初めての成田空港に向かった。
なんと嬉しいことに一緒に仕事をしているK田氏とY美ちゃんが一緒に成田まで見送りに同乗してくれた。
Y美ちゃんは、目をうるうるさせながら、手作りのお守りまでくれた。
勿論、舞い上がってしまった。
 
出国の手続きは非常に複雑であったが、それでもなんとか中に入る事が出来、免税品を買ったりした。
平常心だったのはここまでで、出発のゲートに来た時にはビビった。
 
日本人がいないのだ。そこは既にアメリカであった。
 
そのうち機内への案内が始まり並んでいると、
後ろの外国人が「この列はジョンFケネディ空港行きの列ですか?」と私に聞いてきた。
「こっちが聞きたいくらいだ!」と思ったが、そんな難しい英語は当時しゃべれなかったので
「Yes.Yes.」と反射的に答えていた。
 
機内でも隣に座ったビジネスマン風のおっさん(アメリカ人)が、
やたらと話し掛けてきて対応しきれず苦慮した。
食事がサービスされるとそのおっさんは、「飛行機の機内食は監獄の食事みたいで嫌いだ!」
と言って全然手をつけなかった。こんなに美味しそうなのになぁ…
とボクには彼のキモチがうまく理解出来なかった。
そのおじさんは余程退屈だったようで、ボクに自分の家族の写真を見せ説明を始めた。
ボクはどういうリアクションをとったらいいのか心底困り、そして大いに疲れた。
 
ニューヨーク迄の約13時間位は、ボクにとって以上に長く、この先の不安でいっぱいであった。
 
ジョンFケネディ空港にようやく着いた時は、もうすでにボロボロの状態であった。
 
そんなボクに通関のおじさんは、止めを刺すかのように色々な事を聞いてきた。
途中までは何を聞いているのか何とか理解できたものの、
最後に難しい事を聞かれ「質問の英語が分からない」と答えると、
そのおじさんは後ろに並んでいる人に向かって
「誰か日本語が分かる人はいませんか?」
と通訳してくれる方を捜したのであった。
 
しかし、いくら日本から飛んできた便とはいえ、
通訳できるほど日本語が達者な方はいなかったようで、
おじさんは両手を上にあげ「まいった・・・」という表情で、
ポンとスタンプを押してくれ「OK!」と言って通してくれた。
 
ようやく外に出られたボクをH城さんは迎えてくれた。
「どうした元気ないぞ!」なんて言われながらも、それから10日間は、
もっともっとカルチャーショックの連続であった。
 
10日間の間にH城さんが、案内してくれた店は、イタリアンレストラン、
スパニッシュレストラン、中華レストラン、ステーキレストラン、寿司屋、ピアノバー、等々・・・
 
どのレストランの料理も日本では見た事も無いような内容、
そしてイタリアのレストランにはイタリア人、スパニッシュレストランはスペイン人、
中華レストランは中国人、という具合にそれぞれの国の人だけで運営されているのも驚きであった。
 
そして、どこの店に行ってもこちらを精一杯満足してもらおうという、
店の方々のエンタテイメント性にほんと驚かされた。
 
チップ制度の細かい対応の仕方も勉強になった。
しかし、一番よく分かったのは、自分の英語は全然ダメで、全く通じないということであった。
 
ニューヨークに滞在中の10日間、どうやって過ごしたのか・・・
40年も前の話なので、詳細は覚えていないが、明確に覚えていることもいくつかある。
 
昼間は、基本的に一人でどこに行こうがフリーであったわけだが、前記したように全く何も予定や準備はしていなかった。
セントラルパークのメトロポリタンミュージアムに行ったり、
アトランティックシティーにカジノをやりに行ったり、
あとは、日中何をしていたんだろう・・
 
リアルに覚えているのは、
最初に日に泊まった「ホテルキタノ」(日本企業が経営する、5番街の中の上のホテル)での、対応の悪さ・・
ボクを、「この日本人のガキが!」みたいな感じで扱った(今のボクだったら、絶対に許していない・・)。
 
フロントの日本人に、どうもうまく鍵が開かないのですが!?と、
本当に困って言ったにも係わらず、彼は・・、なんと彼は『日本語が分からないふりをした・・』
 
というよりも、無視されたといったほうが正しいかもしれない。
 
彼の人生が、いかに屈折したものであったかを、思い知らされる出来事であった。
 
それはいいのだが、鍵がうまく開かないので、自分のルームに入れない事態は解決出来ない。
見かねた別のベルかなんかのおじさんが、一緒に来てくれて開けてくれた。
感動するくらいうれしかった。しかし、これって当たり前のサービスなんだと思う。
 
ニューヨークの最初の晩に、屈折した世の中の「歪み」を垣間見た気がした。
 
一晩だけ泊まったそのホテルのその部屋は、今になって思い起こしてみれば・・・
確実に50㎡以上の大きなルームであった。
 
都内のシティホテルで言えば、セミスウィートクラスのルームであった。
 
その夜は、ピアノバーに連れて行ってもらい結構飲んだのだったが、全くうまく寝ることが出来なかった。
 
翌日、そのホテルのレストランで朝食を食べた時に驚いた!!
 
ゲストのほとんどが日本人で、皆「和朝食」を食べていたのだった!
 
であれば、昨日のあのフロントの、あの男の対応は!?イッタイ何だったんだ!?
「若い」というのは、バカにされるものなのか・・・
翌日になってから、急に腹が立ってきた。
 
 
メトロポリタンミュージアムは、1日では絶対に見ることが出来ない!と誰かが言っていた。
ガイドブックにも、そんな風に書いてあった。
しかし、ボクは2時間もたすのがやっとだった。
 
どうやって、ここを何日もかけて見るのか不思議で仕方なかった。
ランチに入ったコーヒーショップで、とてもノドが乾いていたボクは「コーク・プリーズ!」とコーラを注文した。
なんと、ホットコーヒーが出てきた。
 
あまりの驚きに、私は黙ってコーヒーをいただくしかなかった。
「コーク」と「コーフィー」、かなり違うように思うのであるが、
私の発音は、そんな程度だったようである。
しかし、屈辱を味わうには十分な体験であった。
 
わずか10日間しか滞在しないのに、寿司屋に行ってしまった。
板前さんは、皆日本人であった。
「ヘイ、お客さん、次は何を握りやしょ!」
と言うので、
「コハダ!」と言うと、
「そりゃ、ないっすよ!」と苦笑して言われた。
その意味が、40年以上経った今でもよく理解出来ない。
 
しかし、わざわざニューヨークで、寿司屋に行かなくても良かったし、
コハダが特別に好きなわけでも無かった。
適当な流れで、そう言ったつもりが挫けてしまった!
そんな感じであった。
 
情けないことにラーメンまで食べに行った!
それも、かなり真剣に色んなものを調べて、場所をさがして・・・
ニューヨークのラーメンは、たいしたことなかった。
しかし、少し落ち着くことが出来た。
やはりボクは、根っからラーメンが好きなようである。
 
H城氏には毎晩素晴らしいレストランに案内してもらったが、
今でも鮮明に覚えているのが、グリニッチビレッジのスパニッシュレストランだ!
 
ニューヨークの街は、全体に汚い!感じがするが(実際に汚い)、
グリニッチビレッジは、ヨーロッパの街並みを感じさせる、
ちょっと雰囲気を異にした場所であった(ヨーロッパに行ったことなど無いのであるが)。
 
我々が行ったスパニッシュレストランは、行列が出来ていた。
私は日本で、行列をしているラーメン屋は見たことがあるが、レストランに並ぶ人を見たことが無い。
そして、待ってる人たちがやけに楽しそうなのである。
中には、茶色の薄いクラフト紙に包まれたワインやビールを飲みながら待っている人もいる。
 
初対面でも、待ってる人は皆仲間!みたいな感じでワイワイ盛り上がっていた。
 
随分待ったが、待った甲斐があった!!
素晴らしい料理であった。
 
スペシャルのパエリャは、凄かった!
あれ以来、未だにあの「パエリャ」を超える「パエリャ」を見たことが無い!
 
パエリャ自体、初めて食べた料理であったが、
その内容が凄かったのである。
チキンは丸ごと1羽入っていた!
大きな伊勢海老が2匹入っていた!
それ以外も、ムール貝やら何やらイッパイ入っていた!
 
見た瞬間、「これを2人で食べるの!?」と思った・・・
 
随分待たされたこともあって、空腹だったボクはガツガツ食べ始めた。
しかしいくら食べても減らない。
結果、我々が食べられた量は、半分に届かなかった。
いくら美味しくても、限界がある。
 
アメリカ人と日本人の胃袋の大きさは、サイズが違うんだと思う。
 
それと、海外に出掛けると、どうしても普段の食生活と内容が変化するからか、
日にちが経つにつれ、胃の方が疲労してくるという現象もあるようだ!
 
NYの後、随分経ってから行ったバリ島では、どんな料理にも使われている
ココナツオイルにげんなりして途中から、いくらお腹が空いていても、うまく食べることが出来なくなった。
 
ワイキキやロスでも似たような症状を起こしたことがある。
有名なステーキレストラン・ローリーズなんかに行って、気持ちは「食べたい!」のであるが、
実際食べ始めると、付け合せのベークドポテトやコーンやスピナッチでお腹が膨れてしまい、
肝心なステーキは、全然食べられないのだ。
 
ああ、そうだ!
NYでは一人で映画を見に行ったこともあった。
当時「カリグラ」という映画が話題になっていた。
最初から最後までセックス描写ばかりの映画で、NYであればノーカットで見れると思い
出掛けてみたが、「オ~!」と思ったのは最初だけで、
段々気分が悪くなり、結局途中で出てきてしまった。
 
そして、このNY旅行の締めは、帰りの便で成田に着いてからである。
ディオールのサングラスかなんかかけて颯爽と通関に来たまでは良かった。
「麻薬とか、ポルノとか持ってきてませんか?」
「まさか・・」と、動揺を隠すかのように答えたが、
プロの目を誤魔化すことは出来なかった。
 
根が正直者のボクには、サングラスをしていても、顔に「やましい」と書いてあったんだと思う。
 
荷物を開けて下さい!と言われスーツケースを開けた。
「大丈夫、見つかるわけが無い・・」
心臓がバクバクした。
スーツケースの一番下にスーツの内ポケットに、数枚の「いかがわしいグラビア写真」を大事に隠していたのだった。
 
担当官がスーツケースを開けてから、その写真が見つかるまでの時間は「わずか数秒」であった。す、すごい!
 
「これは何ですか!?」と言われた時の動揺は、激しいものがあった。
 
そういう場面に慣れていないボクは、腰が抜けたようになってしまった。
本当に情けないことであるが、人間はショックを受けると腰にくるのである。
 
別室に連れていかれ、コンコンと説教をされた。
「書類送検」とか「犯罪」とか色々なインパクトのある日本語で脅された。
 
今にして思えば、彼らの暇つぶし以外の何ものでも無かったんだろう!
「ちょうどいいカモが来たんで、遊んでやろうと・・」
 
もし、今そういう場面に遭遇したら「何が悪い!ふざけろ!」と言うと思うが、
残念なことに、止められたことが無い。
世の中うまく出来ている。
 
自分の英語は通用しない、そして自分の胃袋と精神力の弱さを
たっぷりと味わうことになった旅行ともなった。


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ササピー
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