コンプレックス 5
フェヤーモントでは、素晴らしい上司との出会いもあった。
毎日タイプライターでメニューをカタカタ打つのはボクの仕事であった。
グランドメニューに差し込む「日替わりランチ」や「日替わりディナー」のメニューを打つのである。
仏語のメニューをタイプライターで打って、訳は手書きで、自分で調べて書き、ここからが面白いのであるが、シェフにチェックしてもらうのでは無く、取締役の料飲部長に見てもらうのだ。
その方は、本当に面白い方で、決して偉そうな態度は取らず、いつも『仕事をしているふり』の極意や、外国人のご婦人に対して『いかに大袈裟に、どこをどのように褒めちぎるか』など、ジェスチャー付きで教えてくれた。ボクはそういう話を聞くのが大好きで、また本人もとても楽しそうであった。
その方は英語も仏語も完璧だった。
当時は、海外とのやりとりはテレックスが主だったので、必要に迫られてというのもあると思うが、会話も完璧にネイティブであった。
彼との出会いも、ボクの人生観を変えた大きな出会いであった。
彼はボクに対して、色んな話をしたりジェスチャー付で、ボクの感性を刺激してくれていたのである。
彼の実際にゲスト(外国人の)に対しての対応も本当にユニークで、最初は真面目な顔をして普通に挨拶して会話をちょこっとするのであるが、
このちょこっとした会話が「謎の会話」なのである。
必ずゲストは大笑いするか、大喜びするか、そのどちらかなのである。
そして、彼も一緒になって大笑いするか、大喜びするのである。
これぞまさしく「ホスピタリティ」、ボクはそのコツをつかんでやろうと、いつもその事ばかり考えて仕事をしていた。
色々なことがあった。
ボクよりもひと回り以上年齢が上で、会社の費用でYMCAに通っている人がいた。
非常に優秀な方だったんだと思う。
しかし、その年齢になってホテル専門学校に通い、
夜はホテルの仕事という毎日は結構大変でもあったと思う。
その方は、夕方から毎日ラウンジやバーを担当していた。
しかし、YMCAを卒業して、彼はダイニングに異動になったのである。
ボクが21か22くらいで、その方は三十台の半ば前くらいだったと思う。
その方は、フェヤーモントに来る前に十分なホテルマンの経験はあったようだが、料飲の経験は全く無いようであった。
ある日のランチのことである。
10名くらいのお客さまが見えて、その大きなテーブルのオーダーを彼が取った。
「お~ぉ、よせばいいのに・・・」と、ボクは思っていた。
なぜなら、団体のオーダーを取るのは極めて難しいし、その料理のタイミングを合わせてサービスするのも難しいのである。
傍観していたボクに、
「ハイ、これヨロシク!!」と、彼がメモを渡した。
「ギクッ!」である。
メモを見てみた・・・・・・・・・・・・・・・
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メニューがいっぱい綺麗な英語で書いてあった。
ボクは、「どの方が、何を召し上がるのですか?」と、少しいらっとして聞いた。
「それは分からない・・」
彼は、なんでもない事の様に答えたのだった。
「ムカっ!」としたボクは、即座に彼にこう言ってしまった。
「オーダーを取るのは簡単なことでは無いんです!こういうことをされると、私がもう一度お客さまのところに行って、聞きなおしてこないといけないわけです。つまり二度手間です。そして、お客さまにとっては、迷惑です。ですから、きちんとオーダーが取れるようになるまで、こういう仕事を増やすようなことをしないで下さい!」
みるみる相手の顔が変わった。
もの凄い怖い顔に変化していったのである。
「お前!あとで話しがある!!」
一方ボクは、その団体のところに言って、オーダーを急いで確認し、
厨房に急いでオーダーを通し、一人で一生懸命にサービスした。
汗だくであった。
だから言った事は無い!という心境であった。
ランチが終わって、クローズしてから
「お前は、どういうつもりだ!」と、彼から怒鳴られた。
「どういうつもりとは、こちらが言いたい台詞です!ボクは、命を掛けて勉強して、必死になってやってきて、やっとオーダーもサービスも出来るようになったんです。
あんたは、なんですか。黒服着ているからって、偉そうにされても、仕事の出来ない人のことなんて、誰もなんとも思っていないの、分かっていますか?」
ボクのことばが終わるまえに、顔を思いっきり殴られた。
唇が切れて、激しく流血した。
ボクは、拍車をかけるように言った。
「あんた、情けないね!部下にバカにされて殴って気が済むんだ!?
ちゃんちゃらおかしいね!ボクはあんたみたいな価値の無い人とは喧嘩もしたくないよ!
殴りたかったら、好きなだけ殴れよ!私は、一切手を出す気はない。そのかわり、ただで済むと思うなよ!」
と、相手を思い切り睨んでやった。
しかし、意外なことに相手は更に2・3発殴ってきた。
顔がボコボコになった。
その様子を見ていた後輩のTは、ガタガタ震えていた。
「T!悪いけど、バンドエイドを何枚か持ってきてくれ!」と頼み、私は、傷口をふさぎ、
ダメだ!これではしばらく仕事にならない・・と思った。
そしてボクは、着替えてからある先輩の家を訪ねた。
先輩に、ことの顛末を報告し、慰めのことばをもらい、何日か仕事を休んだ。そんな顔では、したくても出来なかったのである。
そして、仕事に復活すると、驚いたことに、慰めてくれた先輩が、
「お前も謝った方がいい!お前は手を出していないが、相手のプライドを傷つけたんだから・・」と言われた。
ボクは「冗談じゃ無い!」と思い、結局彼に謝罪など一切しなかったし、それからしばらくは「無視」をして仕事を続けた。
こちらは、まったくなんら支障はない。
支障があるのは彼のほうだった。
どういう風にしたらいいのか、相当悩んだことと思う。
そんなわだかまりも、時間が解決してくれたが、
お互いに、心の中にしこりを残していたことは間違いない。
ボクは、今でもあの時の、あの行為が
自分ながらよく出来たもんだと思う。
そして、何ら後悔などしていない。