コンプレックス 26
■コンプレックス 26
その後、ある方から富山県黒部市のホテルの総支配人をやってみないか!という話しが舞い込んだ。
小さいながらも年間5億位の売上のホテルであった。
金沢にいるときに何度か行った事のあるホテルであったし、
私の出身地の新潟にも近い、なんといっても総支配人は長年の夢!
話しはトントン拍子にまとまった。
しかし、そこで思い知ったのは富山の県民性の暗さと、
人材不足であった。
元々まともなスタッフがいない上、私が色々とやり方を変えるので、勢いよくどんどん辞めていった。
あらゆる求人広告に募集を出してはみたが、
どう見ても使えそうな人間が応募してこなかった・・・
田舎ゆえの「ホテル」に対する偏見も強かった。
どうにもこうにも困ってしまった。
広島時代にボクの片腕としてやってくれていた男がいた。
その彼が、丁度仕事をさがしていたこともあり、
お願いして東京から来てもらった。
大いに期待をしたのであるが。
彼にとって「勝手が違う」と感じた部分は、わたしのそれより
はるかに大きかったようである。
しだいに、ボクに不平をぶつけるようになってきた。
ボクはボクで、立場の違いを理解してくれない彼の態度にいい加減嫌になってしまった。
そして、彼と向き合い、話をして東京に帰ってもらうことにした。
お互いにしこりを残した別れであった。
その後、エドモント時代私の直属の上司だった方に来てもらうことが出来た。
この時期、どうも皆 仕事がうまくいかず悩んでいた時期でもあったようだ。
二人で力を合わせて色々な事をやり、流れはいい方向に向いていたと思うのであるが・・・結果は良い方向へ行かなかった。
売上を上げることも大事であるが、情報や文化の発信を大切にしたかった。
有名なミュージシャンや歌手などを呼んで、高い値段を取るディナーショーなどは止めて、リーズナブルな価格設定のイベントを計画した。
これには、東京で培ったノウハウが大いに役立った。
色んなイベントをやりまくった。
黒部には「コラーレ」というホールがあり、年に何回か大きなイベントが開催されていた。
ボクは、ホテルでもその「コラーレ」のチケットが販売出来るようプレイガイド契約をした。
そして、「コラーレ」のイベントのポスターをフレームに入れて、イーゼルに飾ったりもした。
小椋圭プロデュースのミュージカルや、渡辺貞夫のライブなど結構興味深いものが多かった。
黒部というのは、YKKの本拠地のあるところである。
宿泊も宴会もYKK関連がほとんどあった。
ボクは、YKKの専務や総務部長を定期的に訪ね、意見を伺う
ということをとても重要に感じ、実行した。
ボクは出来る限りをやったつもりではあった。
しかし、運転資金を融資してもらっていた銀行から
「リストラするしか生き残る道は無い!」
と迫られ、実施せざるを得なくなったのだ。
洋食のレストランを閉めて、調理とサービスの人間をリストラした。リストラを実施した以上、実施した人間が残っていることは
道義上出来ない。自分の身も整理せざるを得なかった。
ようやくつかんだ総支配人というタイトルは、わずか1年3ヶ月の命であった。
そして、このわずかな期間に、色んな事を勉強させてもらった。
ホテルにとって、「人」がいかに大切で重要であるかも
再認識させられた思いであった。
黒部から東京に戻ったが、のんびりしている余裕など毛頭無い。
自己所有のマンションがあったから、まだ良かったが・・・
必死になって仕事を探してみたものの、中々ことはうまく運ばなかった。
そうこうしているうちに半年が経過し、そして事態は変化しなかった。
もうこうなったらコネを使う以外方法は無い・・・
紹介してもらうとややこしい「しがらみ」に縛れるので
本意では無いのであるが、そうも言っていられない状況に陥っていた。セゾン時代世話になった方に頭を下げることにした。
KKRに色んな意味でセゾンが力を貸している・・・
来年KKR博多が開業するが、営業企画を出来る人間をさがしている。チャレンジしてみるか?
と、言われた。
願っても無い話しであり、早速話を進めてもらった。
KKR東京で、面接をしてもらうことになった。
面接は、KKR東京のGMと、KKR博多のGMの2名で行なわれた。
博多のGMは、ボクのホテルマン人生で、出会った事の無いタイプの方であった。
ホテルマンというのは、ちょっとした「しぐさ」や
「喋り方」「目つき」「服装」など、どこかにそのニオイを感じさせることが多い。
しかしそのGMの、どこからもそのニオイが感じられなかった。
彼はボクに「ブライダル」受注を増やす為の企画案を提出するように、
と言い、具体的な期限や送付先を指示した。
提出する企画書によってボクのその後の人生が決まるわけである。
もう必死であった。
黒部のホテル時代にお世話になったN井氏に連絡し、事情を話した。
「OK!ボクが出来ることは協力する!取りあえず出来たものからメールに添付して
送って欲しい。徹底的に直してやるよ・・・」
ありがたい言葉をいただいた。
そして、企画書を送り、徹底的に赤を入れてもらった。
このチェックは、何度も何度も行なわれた。
企画書のレイアウトから、「背景と大意」ココに使う表現、文言 を徹底的にチェックされ
インパクト不足! 説明不足!
と指摘され、何度書き直したことだろ。
このKKR博多のホテルの話しの口をきいてくれた方は、
当時インターコンチネンタル東京のGMをしていた方である。
広島時代は、エアポートホテルの社長でもあった。
企画書をKKR博多に送る前に、
インターコンのGMから「ファックスするように!」
と、言われていたので、ファックスして見てもらった。
「これなら大丈夫だろう!」という言葉をいただき、その企画書を博多に送った。
ほどなくして博多から書面で採用通知が届いた。
救われたという思いであった。