終わりよければ…?!
まさおさんは78歳。3年ほど前、病気で奥さんに先立たれ、二人の娘も離れた所にお嫁に行き、手のかかる年頃の子どもを抱えなかなか会えず・・・と淋しいながらも、気ままな一人暮らしの身です。
根はいい人なのですが、ちょっと人の欠点が目につきやすいのが玉にキズ。
お隣の庭木の枝が伸びておうちの垣根を超えてくると、
「まったく、人のうちの庭にまで…!」と、庭木の剪定のついでにぱちん、とやってしまったり、近所の子どもたちが遊びに夢中になって騒いでいると、
「お宅では子どものしつけもろくにできんのかい。これだから、共働きの家は…」
と皮肉を言ってしまったり、と近所でもちょっと煙たがられながらも、「ま、じいちゃんのいうことだから・・・」
と受け入れられてしまう不思議な存在なのでした。
ある日のことです。まさおじいちゃんは、庭の手入れに精を出していました。奥さんが大切にしていたいろいろな草花。
その合間にあちらにもこちらにもたくさんの雑草がわがもの顔にはびこっています。
「まったく、ばあさんときたら、こんな面倒なもんを残して行きおって・・・」
ぶつぶつ言いながらも手入れをして、3年間枯らすことなくいろいろな花を咲かせています。
もう盛りを過ぎたアジサイの花を摘んでしまおうと立ち上がった瞬間でした。
空がぐるり、と回ったような感覚にとらわれ、視界が暗くなりどこか遠くで「じいちゃん!」と呼ばれたような気がしたときには、あたりは完全に真っ暗になっていました。
・・・どのくらいの時間が過ぎたでしょうか。
まさおじいちゃんは懐かしい風景を眺めていました。
かまどのあるお家の煙突から、晩ごはんのしたくのための煙が上がっています。薪の燃えるなんとも言えないいいにおいが辺りに漂い、そのにおいに混じってご飯の炊けるほんのり甘いにおいがします。
つられてのぞいてみると、かまどに薪をくべながら額の汗を手拭いでぬぐっているお母さんの姿が見えます。
「みんな、御飯よ。早くいらっしゃい!」
と呼ぶ声に暗くなりかけた庭で遊んでいた子どもたちが我先にと駆け込んできます。
何とも懐かしい、家族全員で囲む食卓。
おかずの取り合いまで始まり、大騒ぎです。
「おかわりはまだあるから、けんかしないの!」
ご飯をよそいながら、たしなめるお母さんの横で、子どもたちがおいしそうに食べる姿に目を細めているお父さん。
・・・ああ、ここは、わしの育った家だ。
気がつくと古い学校の中でした。日がさんさんと降り注ぐガラス窓。授業中で誰もいない静まり返った長い長い廊下。
ずっと向うの端の教室の廊下に誰かいます。水の入ったバケツを下げて立たされているのは、なんと、小学生の頃の自分です。
「あいたた・・・そういや、子どものころから、口が悪くてそれがもとで
ケンカばっかりしとったなあ。今も昔もやっとることは変わらんのお。」
次に見たのは、先立たれたおばあちゃんと出会ったころ。
気に入っているのに、皮肉なことばっかり言ってしまい、良く泣かせたり
怒らせたりしたものでした。
あれでよう嫁に来てくれたなあ・・・と、妙に反省してしまったまさおじいちゃんでした。
一人目の子どもが生まれたころ・・・
大工の仕事も軌道に乗ってきて、今の家を建てたころ。
口は悪いが面倒見がよく、曲ったことが大嫌いなたちで、ケンカもしたが、助けてくれる仲間や慕ってくれる若いもんも結構いたもんだ・・・
と悦に入りながら一言。
「ま、頑固すぎて施主とけんかしたのも、数えきれんが・・・ばあさんがあちこちに頭を下げて回っとったようだの・・・」
二人の子どもたちが大きくなっていく過程。
忙しくてなかなかかまってやることもできんかったな。
見に来てくれと頼まれた運動会も、学芸会もとうとう行ってやることができないまま、
「お父さんお家建てる大工さんのお仕事忙しいもんね。」
と許してくれたもんだった。
二人ともばあさんに似て、おとなしいがしっかり者によう育った。
近頃は子どもに手がかかってなかなか会うこともないが、よく電話をくれるやさしい娘たちだ。
二人の娘をお嫁に出しておばあちゃんとの二人暮らし。
そしておばあちゃんの病気とあっけない最期。
・・・苦労ばかりかけて、やさしいことの一つも言えんで
・・・ばあさん、すまんかったのう。あっちで楽をしとるじゃろう?
わしもそろそろらしいから、また世話をかけるかもしれんなあ。
ばあさんがおらんようになってから、近所のもんもよう世話を焼いてくれた。おかずを差し入れてくれたり、様子を見にきてくれたり。どうやら、礼も言わんままになってしまいそうじゃ・・・
「じいちゃん!まさおじいちゃん!」
頭の上から元気のよい男の子の声がします。まだ、ぼんやりとした視界の端に数人の影が動いているのが見えました。と、その時
「あ、じいちゃん気がついたみたい!」弾んだ声がしました。
ありゃ、隣の坊主の声だな・・・相変わらず元気なでかい声だ。
そう思った瞬間、次第に視界がはっきりとし、良く見なれた顔が目に飛び込んできました。
「わしはまだ、ばあさんの所には行きそこなったようだな・・・」
これが、まさおじいちゃんの第一声でした。
「やれやれ、もうしばらくは、シャバで庭の世話をしろとばあさんがいっとるんじゃろう。」
そういいながら、起き上がろうとするのを皆が寄ってたかって抑えつけます。
「じいちゃん、まだ寝てないと!庭に倒れているのをうちのたかしが見つけてから半日寝てたんですよ。こんな蒸し暑い日に無理して・・・
こんなんじゃ、亡くなったおばあちゃんに顔向けできませんよ。」
隣の奥さんが、額に載せてあった冷たいタオルを絞りなおして額に載せながらいいます。
「全く心臓が止まるくらい、びっくりしたよ!じいちゃんって呼んだのに全然起きてくれないんだもん。」
「そうか、たかしがみつけて母ちゃんたちに知らせてくれたのか。
すまんかったの。おかげで命拾いできた。ありがとうな。」
まさおじいちゃんの言葉に、皆ハトが豆鉄砲を食らったように目をぱちくりさせています。
「じいちゃんからお礼言われるなんて・・・打ちどころ悪かったんじゃ?」
「おいおい、おまえらはわしのことを何だと思っとるんじゃ!まったく・・・」
口ではそういいながらも、皆が心配してくれたことがうれしくて、にじんできた涙を隠すように額のタオルで目を隠すまさおじいちゃんでした。
「長い長い、夢を見てたんじゃ、子どものころから、つい最近のばあさんがいたころまでのな。文句ばっかり言って怒ってばっかりだったが、見直してみると、なかなか捨てたもんじゃない人生だったよ。ばあさんがおらんようになってから、ずいぶん助けられとることも、ありがたいことじゃと思うとるよ。」
「じいちゃん、頭打っていい人になったんだねえ!これが“終わりよければすべてよし”ってことだよね!」
「こら、たかし!わしゃまだ死んどらんぞ!」
たかし君の頭を小突きながらも、まさおじいちゃんの目は笑っていました。
まるで、走馬灯を見るように見た長い長い物語り。それを見終わったとき、まさおじいちゃんは大切なものを何か見つけたようでした。
(ちょっと一言)
自分の人生が上映されている映画を見ることができたら。
あなたの目にはどんな物語が映るでしょうか?
平凡な、ついてない、運の悪い物語でしょうか。
それとも素敵な、楽しい物語でしょうか?
私たちの目の前には良いことも悪いことも平等に起こるものです。
違うのは人それぞれのもののとらえ方です。自分が運が悪いと思っていれば、チャンスに気がつかなかったり、良いことがあっても「偶然・たまたまそうだった」と思って幸せなことと感じることができなかったりします。
もったいないことだと思いませんか?
その真っただ中にいるときは、目の前のことで必死になるあまり、客観的に見ることができないことが多いかもしれません。ちょっと一息ついて離れて見てみると、行き詰っていたことの突破口が見えたり、気づかなかった見方に気付くことがあるかもしれませんよ。
ゆっくりと一人になれる時間がとれたら、ぜひ、「私の物語上映会」を開いてみてください。
きっと、新しい発見、幸せ発見ができると思います。