塗料メーカーで働く 第二十話 UV硬化型樹脂の硬化性
1990年1月8日(月)午前6時に出社した川緑は 守衛所で鍵を受け取り 技術棟に向かい 建屋の扉を開けて 2階の居室に上がり 机につくと動きを止めて考え込んだ。
彼の机は 技術部の中では一番散らかっていた。
机の上には幾つものファイルや本や報告書が散乱し 机の下にはインクサンプルや色見本を梱包するための大小さまざまな段ボール箱が積み上げてあった。
横の柱には ユーザーからの依頼をメモした紙切れが30件程 セロテープで貼り付けられていた。
雑然とした机の上に広げたノートには リストアップしていた硬化性に影響する要素が箇条書きに書かれていて 彼は それを見ながら UV硬化型樹脂の硬化性を数値化することを考えていた。
彼は UV光の照射エネルギーと硬化の状態との関係を近似する数式ができないかと考えた。
そう考えると 机の上に山積みされた報告書や 引き出しの中にある実験データを引っ張り出して UVカラーインクの硬化性に関するデータを見直し始めた。
UV露光量とインクのゲル分率の関係をグラフにしたデータを見ていた時に ふと 横軸を露光量の二階対数に取ったらどうなるかと考えた。
これまでUVカラーインクの硬化性のデータをグラフにする時は 横軸を露光量の一階対数に取って ゲル分率との関係を表示していた。
例えば 露光量を 2、4、8、16、32、64 mJ/c㎡ と取り グラフの横軸に表示していた。
これは 露光量を等間隔表示すると 露光量が多いところでゲル分率の変化率が小さくなり グラフが間延びした形になるので それを見やすい形にするためだった。
川緑は 幾つかのインクの硬化性の実験データを基に 露光量を二階対数に取り グラフを作リ直すと 表示された曲線の一部分が 一定の傾きを持つ直線になった。
それを見た瞬間 彼は この形状は UVカラーインクの硬化性の本質に関わる何かを表しているのではないかと直感した。
彼は 幾つかのUVカラーインクの硬化性のデータについて 露光量を二階対数に置き換えたグラフを作成し 得られたグラフの直線部分を近似する数式を求めて その式をノートに書いた。
午前8時前に川上課長が出社してくると 早速 彼に声をかけて ノートに書いた関係式を見せて意見を聞くと 彼は 「うーん、難しいな でもこの関係は本当のような気がする。」と言った。
その後 出社してきた森田課長にも同様に聞くと 彼は ノートをまじまじと見た後に 「この式で Log が二回かかる理由は?」と聞いた。
その理由こそ 知りたかったことだったが 「良く分かりませんが 一回目の Log はインクの光の吸収に関わるもので 二回目の Log は重合反応に関わるものではないかと。」 と答えた。
それから暫くの間 3人は 議論していると そこへ技術部の他のメンバーが出社して来て 彼等も入り意見を交換しているうちに午前中が過ぎて行った。
硬化性の近似式について会社のメンバーと話をしている時に 川緑は 黒体放射スペクトルの式のことを思い出した。
それは 彼が学生の時に受けた量子化学の授業で聞いた話だった。
1900年頃に 小さな穴の開いた中空の黒体を加熱した時に 穴から放射される電磁波の波長とエネルギー密度の関係を定式化しようと考えた人達がいた。
ドイツの物理学者 Wilhrlm Wien の提唱した Wien の式は 短波長側で観測値と一致し また イギリスの二人の物理学者の提唱した Rayleigh-Jeans の式は 長波長側で観測値と一致した。
最終的に ドイツの物理学者 Max Planck が Wien の式を基に エネルギーの量子仮説を盛り込んで 観測値と一致する式を見出した。
講義の中で 川緑の印象に残ったのは Wien の式や Rayleigh-Jeans の式で 彼等の提唱する式は黒体放射スペクトルの全てを表現していなくても そこには 何か黒体放射の本質に関わるものがあると考えて その式を提案したことだった。
研究への取り組みの中で 観測結果を近似する関係式を提示することは 物事の本質を追及するために必要なことだと思った。
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