ボロ雑巾な伯爵夫人、やっと『家族』を手に入れました。〜世間知らずの夢の成就は、屋敷ではなく平民街で〜 第五話
「別に必要ないだろ、キッチンの掃除なんて。どうせ誰も使わないんだし」
「自分たちで料理を作ったりは?」
「しねぇよそんなの、出来ねぇし。周りからくすねてきたのをそのまま食べる方が楽だろうが」
言われてみれば、たしかにそうだ。しかし、料理しないと食べられないようなものはどうするのか。
もしそういうものは頂いてくる対象から外すのだとしたら、少し栄養が偏りそうだ。少し、彼らの体調が心配になってくる。
しかし眉尻を下げた私に、気付いているのかいないのか。綺麗になった室内にズカズカと歩いてきたディーダは、昨日と同じように暖炉の前にドカッと座る。
今は火をくべていないから、暖をとるには至らないはずだけれど、ノインも当たり前のように昨日と同じ場所に陣取った。もしかしたら、そこが彼らの定位置なのかもしれない。
「おい、お前に銀貨一枚の凄さ、見せてやる」
こちらに背中を向けたまま、振り返ってディーダが言う。目つきが悪いせいでまるで睨み上げているように見えるけれど、口調の荒々しさに反して空気感は意外にもピリついていない。
むしろ自信ありげで、少し得意げでもある。
「昨日に続いて、今日も豪華な食事だからね」
ノインも言いながら、私に座ることを促すように近くの床をタンタンと叩く。
大人しくそちらに腰を下ろせば、ちょうど三人で円が作れる位置関係になった。二人からそれぞれ一本ずつ、持っていた串焼きをズイッと渡される。
ちょっと、二人の仲間に入れてくれたような気持ちになれて嬉しい。
口元を綻ばせながら、無言のままに串を受け取る。
改めて両手を交互に見る。串にそれぞれ、同じ大きさに切られた四角い肉が四つずつ刺さっている。右手にはタレ、左手には……一見すると素焼きに見えるのだけど、こちらは何なのだろう。
「食ってみろ、こっちの方が絶対美味い」
「食べてみなよ、こっちの方が絶対に美味しいから」
二人の声が、綺麗に重なって私の耳に届いた。互いに互いを見た二人は、あからさまに不満顔だ。
「何言ってんだ! タレが最強に決まってるだろ!」
「塩の美味しさが分からないなんて、人生の八割損してるよね」
「何だと?!」
「何だよ」
顔を突き合わせ言い合う二人に「もしかして先程外でしきりにしていたタレとか塩という話は、この事を言っていたのだろうか」とふと思い出す。
だとしたら、ご飯の好みで言い合うだなんて、何だか少し可愛らしい。思わず笑ってしまったところで、ディーダはムッと、ノインは片眉を上げてそれぞれ「は?」という顔になる。
「今はちょうど一対一、お前が勝ちを決めるんだからな!」
「責任重大なんだからね?」
二人とも、どうやら真剣なようだ。
彼らの手元を見てみれば、ディーダはタレ、ノインは素焼き風の串をそれぞれ二本ずつ持っている。どうやらそれぞれ、自分好みの味のものを二本ずつ買ってきたようだ。
私の答えが待ちきれないと言わんばかりに、肉にかじりついた二人を見て、密かに「なるほどそうやって食べるのか」と学ぶ。
昨日といい、今日といい、どうやらここでは銀食器を使って食事をしないのが普通らしい。私が知っているお肉の食べ方は、やはりナイフで切り分けてフォークで口へと運ぶ方法しかなかったから、こういう食べ方はかなり新鮮だ。
昨日食べたジャガイモにも、今まで食べていたものとは違う美味しさがあった。もしかしたらこのお肉も、今までとは違う味わいがあるのかもしれない。
少しドキドキしつつ、まずは右手のタレの方を思い切ってエイッとかじってみる。
まず口の中いっぱいに広がったのは、少し焦げたタレの香ばしさだ。パリッとした表面の食感と、中からジュワリと染み出る肉汁。濃厚なタレは絡みつくかのようなとろみだが、持って帰ってくる間に少し冷めたのか、温度もちょうど良く火傷はしない。
「……美味しい」
口元を押さえながら思わずポロリと言葉を零すと、ディーダがフフンと得意げになる。
「ほら見ろやっぱりタレだろうがっ!」
「ちょっと、まだ塩を食べてないから。食べたら一目瞭然だから」
反論したノインが急かすように、私の事を見てくる。急いでタレ味のお肉を呑み込み、次は塩味の串にエイッと噛り付く。
驚いた。
多分素材は、先程のタレと同じ肉だ。にも拘わらず、味わいがまるで違っている。
鼻を抜ける香ばしさはないが、代わりに肉本来の甘みがよく分かるサッパリとした味付けだ。食べれば食べるほど深くなる旨味は、おそらく塩味だからこそ味わえるものなのだろう。
「美味しいです……」
おそらく肉自体は、それ程品質の良いものではない。それこそ屋敷で昔食べていたような質のいい肉とは比べものにならない。
それでもここまで美味しいのは、ここ一年は、これほど大きな肉の塊をろくに食べていなかったからか。それとも誰かと一緒に食べているからか。
目を閉じて、旨味をゆっくりと噛み締める。
先ほどやジャガイモの時にも思ったけれど、美味しいものを美味しいと感じられるのは、ただそれだけで幸せだ。
その幸せにただただまどろんでいると、二人分の影がズイッとにじり寄ってきた。
「で? 一体どっちが美味いんだよ」
「で? 一体どっちが美味しかったの?」
二人共からそれぞれに「タレだろ?」「塩でしょ?」という圧が、ものすごい。
えぇぇ、困った。どちらかなんて聞かれても――。
「えっと……両方?」
「はぁーっ?! お前、ハッキリしろよ!」
「アンタが答えを出してくれないと、ボクたちの決着がつかないんだけど」
不服顔で詰め寄ってくる二人に、思わず苦笑してしまう。
あんなに綺麗にハモるくらい気が合うのなら、いっその事好きな物も同じだったら良かったのに。
そもそも自己主張が苦手な上に味の好みも特に無い私に、そんな問いをする事自体が間違っているのではないだろうか。
しいて言うなら甘いものが好みだけれど、どちらも勿論甘くないし――などと思っている事など、彼らはきっと知る由もないのだろう。
どうしたものか。結構真剣に困っていると、ディーダが肉をたいらげて最後に残った串でノインをピッと指しながら「こうなったら別の方法で決着を付けるか?」などと言いはじめている。
そうなって、気がついた。二人の手元には、既に食べ終わった綺麗な串しか残っていない。
……もしかして、お腹が減っているから苛々して喧嘩になるのでは?
そんな思考が頭をよぎる。
元々彼らはひどく痩せている。たとえ昨日今日と二食続けてご飯を食べる事が出来たところで、そう簡単にガリガリの体が健康体になる訳ではない。
対して私の手元には、一切れずつ食べたとはいえ、まだ幸いにも二本とも肉が残っている。
おあつらえ向きに彼らが好きなタレと塩の肉が同じ数だけ刺さっている。
二人が取り分で喧嘩になる事も、おそらくない。
「あの、二人とも、これ食べますか?」
子供にお腹は空かせられない。私にとって、これは至極当然の帰結だった。
しかし彼らは二人して「はぁ?」と言いたげな顔になる。
「お前バカだろ。何で自分の飯を他人にやるなんて発想になる」
「だって、そんなにガリガリでは体に悪いですよ。もっとたくさん食べて、ちゃんと栄養を付けないと」
「はぁ、アンタ変な事言うね」
理由を話せば、お礼は言われないまでも納得はしてくれるだろうと思っていただけに、思わずキョトンとしてしまった。
しかしそれが尚、彼らの訝しげな表情を深める要素になる。
心底呆れたような声を出したのはディーダだ。
「言っとくけど、お前も似たようなもんだからな?」
「え?」
「痩せこけてんだろ、お前だって」
「え、あ……」
言われて数秒経ってから思い出した。
そういえば、昨日水たまり越しに見た自分の姿は、一年前とは比べ物にならないくらいやせ細っていたのだと。
ディーダの口から舌打ちと共に「自覚無しかよ」という言葉まで投げられてしまった。
しかし私だってアレを思い出せば、流石に彼らから「他人の事、言えないだろ」と言われても仕方がないと自覚できる。
自分が出来ていないのに相手の不出来を心配する事ほど、恥ずかしい事も中々無い。
思わず俯くと彼は頭をガシガシと掻く。
「ホントに変なヤツだな、お前。そもそもそんなじゃなくったって、普通は自分の取り分を他に分けたりしないんだよ。もう、いいから食えって」
面倒くさそうに手でシッシッとあしらわれて、そういうものかと独り言ちた。
私だって、何も食欲がないという訳でもない。続きを再びモグモグと口にし、冷めても十分美味しい肉を堪能する。
――あぁ、食べるって幸せな事なんだな。
そんな風に噛み締める。
思えば昔は、実家の食卓やレイチェルさんがまだ来る前のザイスドート様と小さなマイゼルと三人で囲んだ食卓は、当たり前のように幸せだった。
しかしレイチェルさんが来て少しして、食卓に共に並ぶことができなくなった。
最初は、時間をずらしてご飯を食べさせられていた。それが気が付けば食卓に座る事すら許されなくなっていて、ついには限られた残り物で、自分で食事を作らされるようになっていた。
量も少なく、栄養も偏り、その上寝ている時以外はほぼ全て使用人と同等の仕事。時にはその睡眠時間さえ削ることもあった。
あの時はまるで気にする余裕などなかったけれど、こうして全ての時間の使用権が必然的に自分に戻ってきた結果、これまでの自分の無理な生活がほんの少しだけ理解できる。
ザイスドート様たちは、もうきっと私の事なんてすっかり忘れていつも通りの生活をしているのだろう。もしかしたら、私が居なくてむしろ清々としているのかもしれない。
そんな可能性に出会ったというのに、何故か少しホッとすらしている私は、彼らの事などもうどうでも良くなったのだろうか。
分からない。
けれど『人と関われない寂しさ』だけが何故か強烈に襲ってきて、ご飯を食べる手を止めさせた。
あぁいけない。ここに居ると思い出す。
家族との昔の幸せを、自分でもそんな家庭を作りたいと思っていた昔の自分を。彼となら叶えられると信じていた自分を。
そして夢を見たくなる。私が得たくて得られなかったもの――居場所と、それを得ることで感じられる幸せは、もしかしたらここにあるのでは無いかと。
分かっている。こんなのは良くない。こんなまだ子どもの彼らに、他人に、私みたいな素性も知れない爆弾を、抱えさせるだなんて。
「……ご飯を食べたら、ここを出ます」
大人としての義務感と矜持が、気が付けば私にそんな言葉を呟かせていた。
まだどちらの肉がいいか論に花を咲かせていた二人は、顔を見合わせて黙り込む。
「お前、行く当てがあるのかよ」
「それは、無いけれど……大丈夫です。私だって大人ですし」
「そんな非常識な状態でかよ」
バカにするように、ディーダがフンッと鼻で笑った。
「まさかその辺で寝泊まりしようとは思ってないよな?」
「その、お二人がやっているように、とりあえずはどこか空き家を探してそこに住もうかと……ダメでしょうか?」
「ダメでしょ。アンタみたいな弱っちいの、すぐにその辺の男どもの慰み者にされるか、身ぐるみを剥がされる。そうでなけりゃぁ、奴隷商売の恰好の餌食だろうけど、どれがいい?」
「……奴隷商売は、この国では禁止の筈です」
「はっ、法律がどうしたってんだ」
「忘れたの? この領地では、色んな事がほったらかし。もちろん大々的にやってりゃ捕まるだろうけど、実際にそういう事をしてるやつは、大体上手く隠れてる」
彼らが語る実情に、私は思わず驚愕した。
法律とは、国民を統制するために国王陛下が敷いた秩序であり、人々の生活を守るためのものの筈だ。
それが、機能していないだなんて。一体誰のための法律なのか。
――いいえ、それよりも今は目の前の事よ。
一度脱線しかけた思考を自ら元の道筋に戻し、再び考える。
私が危険だというのなら、彼らも同じなのではないの? 大人とはどうしても体格差があるのだから、何が起きても不利になるのでは無いかと思うし。
でも、思えば彼らは少なくとも今日まで、そういう危険と隣り合わせの中で生きて、生き延びてきたのだ。昨日ここに来たばかりの私に心配されたら、きっと「大きなお世話だ」と怒られるだろう。
「それではどこか、ちゃんと泊まる事ができる場所を探さなくてはなりませんね。ご忠告いただき感謝します」
とりあえず、何か大変な事になる前に教えてもらえて良かった。彼らには本当に助けてもらいっぱなしだ。
そう思いながら、泊まる事ができる場所とはどこにあるのか。とりあえず建物の多そうな所に行けば――などと頭の中で考えていると、またもや深いため息が聞こえてきた。
「はぁー、お前、宿代なんかに無駄遣いするつもりかよ」
「え?」
「どれだけ大金を持ってたって、金だって無限じゃないんだろ。やがては無くなって腹が減る。寝る場所がなくても死なないけど、食えないんじゃ死ぬんだからな」
「わざわざそれ以外の所に金を使う意味が分かんないよね」
彼らの言い分に、思わずキョトンとしてしまった。だって私は今まで一度も「屋根のある場所で眠れる事は、何も生活に必須ではない」などとは、微塵も思ったことがなかったから。
だからこれまでどれだけレイチェルから辛く当たられたとしても、「屋根のある場所のベッドで寝かせてもらえて、薄汚れたお古とはいえ洋服を用意されているのだから、感謝すべき」という彼女の言葉に、異論を抱く事はなかった。耐える事ができていたのだ。
しかしこうして言われてみれば、彼らの言葉こそ真理かもしれない。
私が抱いているのは恵まれた考え方であって、平民街で暮らす選択肢しかない今はもう、とても贅沢なことなのかも。
現に、彼らの服を見れば『衣』のクオリティーに重きを置いていない事は言うまでもない。それは私だって同じで、薄汚れた服を着ていても今、問題なく生活できている。
ならば『住』に対しても同じなのではないだろうか。
現に私自身、実際に『住』に重きを置かないこの場で一日寝てみたけれど、致命的な不足は今のところない。
『住』を必要だと思うのは私の固定概念からくる贅沢で、今の私が『住』にお金を投じるべきではないのかも。
でも、つい先ほど二人から、住むところの安全面を考慮すべきだと言われたばかり。そうなると、私は最低限安全で無償な場所を探さなければならない。
一体どうしたらそんな場所なんて――。
「別にいいんじゃないの、ここでも」
素っ気なく、ノインが言った。
思いもよらない提案に、思わず目を丸くする。
「とりあえず面積はこの通り三人寝ても余ってるわけだし、アンタも世間知らず過ぎだし。出ていくにしても、もうちょっと色々知った後じゃないと、アンタすぐに騙されるか、野垂れ死ぬかの二択でしょ。流石にちょっと、寝覚めが悪いよね。っていうか、ディーダが絶対夜中に様子見に行くだろうし。そしたらボクも、とっても迷惑」
「しねぇわ、そんな事!」
ディーダが抗議の声を上げ、ノインが彼に疑わしげな目を向けた。迷惑そうな顔を隠さずに「夜中に室内歩くと、床がギーギーいうからすぐに分かるんだよ。強がった後にバレるのとか、最大級に恥ずかしいと思うけど」などと口にする。
「どうせ生活に支障が出るんなら、宿代浮かすのとボクたちに色々と常識を教える代わりに、ボクたちのご飯をアンタが買う。正々堂々、持ちつ持たれつ。それで綺麗に収まると思うけど」
さぁ、どうする? ノインの薄桃色の瞳が、静かに私の様子を窺ってきている。
戸惑ってしまう。だってこんなの「ここに居ていい」と言っているも同然だ。私にとって、あまりに都合が良すぎる。
二人は、私の素性を知らない。
教会の婚姻契約が残っている限り、私は伯爵家の人間という身分に、ザイスドート様の妻という立場に縛られたまま。肩書だけは貴族であり、領主夫人なのである。
万が一にも、二人を妙な事には巻き込めない。
「一体何を躊躇しているのかは知らないけど、これは平等な取引だ。ボクたちにも利がある話、いわゆる利害関係の一致だよ」
「まぁたしかに、お前を住まわせれば、当分の間は俺たちも食いっぱぐれずに済む」
ノインの援護をするように、そっぽを向いてディーダも続く。
膝の上に置いた手を、ギュッと強く握りしめる。
彼らの提案が自分たちのより生きやすい選択の結果だという事は、もちろん私も分かっている。
でも、それでも。
知らなかった。いや、忘れていた。
どんな形であれ、求められる事が、受け入れられる事が、居場所をもらえることがこんなにも嬉しい事だなんて。
強がっていた自分が暴かれてしまう。
本当は、何も知らない場所で一人きりで生きていける程わたしは強くない。
ずっと怖かった。不安で寂しかった。
何かに笑顔になれる事、掃除を楽しいと思える事、ご飯を美味しいと思える事。色々な楽しさを思い出してしまったから、尚更一人になることが心細くなっていた。
だから、負けた。
気が付けば、視界がじんわりと強くにじんでいて。
「えっ、ちょっ、はぁーっ?!」
頬を濡らすのはおそらく涙だ。
続くディーダの「おい! なんか俺らが虐めてるみたいだろ!」という怒り声がすすった鼻の音のせいで遠い。
大人なのに、二人の前でこんな風に泣くだなんて情けない。
グシグシと懸命に拭うけれど、今まで泣けなかった分の感情が一気に決壊したようだった。
洪水になって溢れ出て、堰き止める事は叶わない。
怒っても結局止まらない涙に、やがて諦めたかのようにディーダはチッと舌打ちをする。
横でノインも肩をすくめた。だけど結局二人とも、それ以上は何も言わない。何も言わずに、私が泣き止むまでずっと、ただ側に居てくれた。
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