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追憶

こんにちは、らっくすとーんです。
これを執筆している今、わたしは臨床実習後OSCEと呼ばれる、臨床の場での能力を問われる試験を終え、さらに合格したことも分かって安堵と歓喜の中にいます。
医学部生として学校でのdutyが終わり、徐々に医師国家試験、そして18年間という凄まじく長い「生徒・学生」としての生活の終わりが近づく中で、最近、大学生活で起こったことを思い返すことが増えてきました。
故郷を離れ、ひとりぼっちで未知の土地に住まうことになった18歳の青年がいかにして「医師の卵」になっていったか、自分を省みていこうと思います。

わたしが宮崎に住んでいることは、もうXの投稿をご覧の皆さんには周知の事実だと思いますし、宮崎県で医学部を擁する大学はたった1つで、その最高学年でこれだけスタプラアイドルと麻雀に入れ込んでいる人間などと絞り込めば誰がこれを執筆しているかなんて一発で分かることなので、変に誤魔化したり隠したりすることなく、それでも配慮すべき点は配慮して筆を進めていこうと思います。

はじまり

わたしの大学生活の本当の始まりは、高校3年生の秋、予備校での三者面談のことでした。
当時わたしは地元の大学の医学部を目指しており、そこに一途…というよりは「自分ならいけるだろう」と心のどこかに謎の自信を飼っており、一発勝負で決めてやろうという気が満々でした。
つくづく「大学受験」という名の魔境の恐ろしさを知らないからこその愚かな考えだったと思います。
ところが、そんなわたしの態度を危うく思ったのか、予備校の校長に親もろとも呼び出され、開口一番こんな質問が投げかけられました。
「後期日程、どこに出願するつもりですか?」
当然親子ともにそんなことを真面目に考えているはずもなく、そこから「もし仮に前期がダメだった場合」の作戦会議が、第三者を介してやっと、初めて行われました。
そこで白羽の矢が立ったのが今わたしが在籍している大学というわけです。

それでもわたしの傲慢は本当の意味では解消することなく、後期日程に合わせた飛行機はとったものの「まあ宮崎に旅行に行くくらいだよね〜」なんて親と笑い合っていました。
そんなわたしへの天罰だったのか、わたしは前期日程で志望大学に落ちてしまいます。
ちなみにその大学にはAO入試でも出願し、見事にセンター試験での足切りを食らっていたので、完全なる敗北でした。

こうなったら旅行などと嘯いてもいられません。大急ぎで対策を始め、後期日程に臨みました。
のちに大学での友達に訊けば、わたしはそんなつもりはあまりなかったのですが、わたしの試験会場での態度は周りを威嚇するようで、相当嫌なヤツに映っていたようです。大反省。
そして後期日程の合格発表前夜、ここを落とせば1年浪人生活が待っていると思うと、わたしは緊張で眠ることができず、一睡もできないまま当日の朝を迎えることになりました。
そして迎えた当日の朝、また別の意味でわたしの不安を増長させる1通のLINEが友だちから届きました。
「お前この大学進むの?大丈夫?」
続けて送られてきたのはあるツイートへのリンクでした。
そこに記されている内容にわたしは目を疑いました。
その日は前年度の進級判定の翌日であり、どこからそんな情報が漏れるのか、
「1年生26人、2年生36人留年」
とありました。
大体1学年100人強なので、とんでもない割合で留年者が出たことになります。
ただでさえ縁もゆかりもない土地なのに、行く前からこんな情報をお出しされて、
「そもそも受かるのか?」
「無事に受かったとして、6年間で医学部を卒業できるのか?」

という二重の不安に心を支配されることになりました。
結局合格こそしたものの、初めての一人暮らし、初めての九州で、その上どんな仕打ちを受けるか分からない大学生活目前に、ワクワク以上に不安な気持ちで宮崎での6年間の幕が上がりました。
その時も友人に同じことを返しましたが、6年間色々乗り越えて改めてこう思います。
全然大丈夫じゃねえわ。

こう書くと今の大学のことをネガティブに言っているようなので、ここでひとつ弁明を挟んでおきます。
6年間ずっとポジティブな気持ちばかりでいたと言えば嘘になりますが、それでも6年前も今もわたしは自分を拾ってくれた大学に、「一刻も早く医者になる」という本懐を叶えるために助けてくれた大学にとても感謝しています。

臨床実習まで

そうして晴れて医学生となったわたしですが、当然ここがゴールではなく、むしろ先のことを考えたらまだ一回表が終わった程度の到達度でしかありません。
低学年の時のことを思い返せば、部活やそれ以外の友人との交流もあれど、記憶の多くの部分を「勉強」が占めていたなあと思います。
最初は、とにかく留年したくない、その思いで必死でした。
新歓の時の、後に所属することになる部活の先輩からの「1ヶ月前から対策すれば十分だよ」という言葉を馬鹿正直に信じて、その言葉その通りにどんな試験も1ヶ月前から過去問を集めて答えを作り、他者に説明できるようになるまで徹底的に頭に叩き込む、ある意味根性でゴリ押しの勉強法をしていました。
個人的に「他者に説明できるようになるまで」というのがミソで、確かに基礎医学の中でも解剖学などはひたすら覚えないとどうしようもない事柄も多いですが、それでも何でもかんでも丸暗記ではなく、「どうしてそうなるのか」が分かれば余計な暗記も必要なくなることに気づき、その「どうして」を他者にも分かるように伝えることが「『理解』の最高到達点」だと信じて勉強を進めていきました。
そうやってきた基礎医学の学習がよほど自分に合っていたのか、1年前期の教養科目の時期にはそこまでパッとしなかった成績が、基礎医学に突入した途端目に見えてよくなり、その状態は結局CBTを終えるまで継続したままでした。
2年次・3年次と学年主席という誉に与ることになり、さらにCBTも同様に学年で1位でした。
まあぶっちゃけ過去の栄光で、6年生に入ってからの模試の成績はそんなによくないんですが…。
ところでこうなってくると、徐々に同期にも「あいつできるらしい」という話が広まるようになり、勉強について質問されたり自分が作った過去問の答えが全く渡したはずのない人が持っていたり、ということが増えていきました。
高校生の時は「部活ばっかりで勉強もろくにしてない自分は、医学部でどれだけ頑張っても平均に追いつくかも怪しいだろう」と考えていたのに蓋を開ければこんな未来が待っていて、それは僥倖であると同時に低学年の頃の自分にとってめちゃくちゃ大きな重圧でもありました。
勉強をするモチベーションが「他者の期待に応える・失望させない」ことにいつの間にかすり替わっていたのです。
「ここで再試に引っかかろうものなら、今自分の周りにいる人のどれだけが自分を見放すだろう…」そんな恐怖に駆られて勉強をするようになっていました。今思えばそんなことで見放しうる人は関わるべき人じゃなかったですが。
CBTの結果が発表された時、自分の結果に喜ぶこと以上に「ようやくこれで学年の皆と比較される生活が終わった…」という安堵の気持ちが強かったのを覚えています。
「留年したくない」も口実としてはやや不純な気もしますが、それでも軸が「自分の生存本能」な分まだマシだと思います。
結果はそれはそれで自慢したいけれど、それで周りからの期待値が上がることには目を背けていたいし、期待値が下がることは自分の中の要らぬプライドが許してくれない、そんな歪んだ承認欲求に囚われていましたし、その呪縛からは今も本当の意味で脱していないと思います。

低学年の頃、わたしが言われるのが死ぬほど嫌だった言葉があります。
それは「〇〇(本名は)天才だから」です。
別に天才でもなんでもありません。
言ってる側は正直そんなに深い意味も持たせていないのでしょうけど、わたしはこの成果は自分にできる限りの努力をしたから得られたわけで、別にそこには天性の才能なんてものはひとつも介在していないと思っています。
まあ要は「結果」というよりも「努力」や「過程」を認めてほしかったわけですね。つくづく歪んだ承認欲求だと思います。
承認欲求はバリバリに強いのに自己肯定感は低いままここまで来てしまい、我ながらどうしてこうなってしまったのかとは思います。

臨床実習以後

とにかく承認欲求に駆られるままに走ってきた医学部生活、その中でわたしは、「どうして医師になりたいと思ったのか」「医師として何がやりたいのか」という一番大切なことを考えることを怠っていました。
順位という概念から解放された先で、わたしはその怠惰のツケを一気に払わされることになります。
わたしが医学部に入るモチベーションは元々「終末期医療に従事する」ことでした。このことについては以前のnoteに詳細に書いてあるので、ぜひそちらをご覧ください。
ちなみにその当初の夢が明確にぶち折れたイベントについても書かれてあります。
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ただ「破壊」の先には時に「再生」が待っているわけで、臨床実習の2年間で自分の将来像について色々考えることができたかなと思います。
どこかで表明しましたが、わたしが今一番考えている診療科は外科、特に消化器外科です。
理由は色々あります。
まず、個人的に手を動かすことをメインにした方が自分のやる気も長持ちするのかなと考えました。
そして臨床医学の時に学んだ上部消化管の再建術、これが自分にとってとにかく印象的でした。食道や胃を切除した後に体内に残された臓器を用いて、いかに元の身体機能を可能な限り復元するかを考え尽くして編み出された技術に人類の叡智を感じ取りました。
そして、とある病院の見学で外科の先生に言われたことが印象に残っています。
「外科に入れば内科的なことにも手を出せる。手が動かなくなれば化学療法や緩和ケアにも手を出せる。むしろ外科的な素養のない緩和ケア医とのコミュニケーションはきつい。ただ、逆(=内科系に進んでから外科系に手を出すこと)はできないよ。」
後にも言及しますが、わたしの目指すところは「『専門外なので何もできません/分かりません』と言わないでいい医師になる」ことなので、なるべく多くの領域に関われる可能性があることがとても魅力的に感じました。
そして一度は完全に諦めた緩和ケアへの道ですが、もしまた戻りたいと思えた時に道筋が残されていることも魅力的です。

あたかもずっと緩和ケアと外科について考えていたように書きましたが、自分の進路についてはこの6年間随分フラフラと色んなことを考えたなと思います。
実はコロナ禍以来数年間、医系技官になりたいと思うことがありました。
医系技官とは、要は「医師免許を持った官僚」です。
未曾有の感染症を前に医療の現場も行政もまさに手探りだった3年間、色んな人が悪戦苦闘している様子を目にして、自分も力になれたらいいと強く感じ、またそんな医療と行政の苦悩をまるで解さない心ない言葉に心が痛み、そんな言葉が生まれないような啓蒙をできるのではないか、という期待もありました。
そして、今も進路として惹かれているのは小児・新生児医療への道です。
多分子供も赤ちゃんも好きなんでしょうね。学生という立場でも、患者さんを見ると「頑張れー!」という気持ちになって、この子たちのために何ができるだろうという強い気持ちに駆られます。

2つの夢

先に掲載したわたしのnoteでは「わたしには明確な夢がない」という旨を書きましたが、6年間色々なことを経験して、色んなことを考えて、既にこの時点で「夢」はできていたのではないかと思います。
同じことの繰り返しになるかもしれませんが、今のわたしが医療従事者になる上で持っている2つの夢を改めて表明します。
1つ目は「自分にとって大切な人を救う、『最後の砦』となること」です。

わたしが終末期医療に関心を持ったのは、祖父の人生という物語に今からでも寄り添いたいと思ったからであって、自分のその思いの根源は「自分に近しい誰か」でした。その根源だけは今も変わりません。

究極的には、顔も名前も不確定の通行人Aに全てを捧げるために医師になったわけではなく、自分の大切な人の力になれる「究極の手段」としての医学をわたしは切に望んでいるのだろうと気づきました。

https://note.com/rich_camel223/n/n852586c00623

こう記したように、振り返ればわたしの原動力は、とにかく大切な人の力になることでした。今だってそうです。
彼らの命やQOLが脅かされそうな時に、そこに介入できるだけの知識と能力に常に飢えているのがわたしです。
もっと欲を言えば、彼らだけでなくその子孫のための存在でもありたいです。
この国の医療制度では専門性を持つことがとても重要視される以上、わたしだって自分の専門は必ず持つことになるのですが、彼らが直面する問題はむしろわたしの専門でないことの方が多いわけで、それについて相談されたときに
「俺の専門じゃないから分からない/何もできない」
なんて言うことは屈辱以外の何物でもありません。
仮に手を施せなかったとしても、助言をしたり然る場所へのコンサルテーションに繋げたり、何かしらの手は打ちたいわけです。
そういった意味でこの先に待ち構える初期研修の2年間は自分にとってとても大きな2年間になるでしょう。
どの診療科に専属するわけでもなく、多くの診療科に触れて知識と技術を身につける機会を逃さず、有意義なものにしていきたいです。

2つ目の夢、それは「憧れの人のようになる」ことです。

先生は小児循環器グループのトップ、というわけではなかったですが、グループで話し合ってる場面を見かけるたびいつもイニシアチブを取っていて、病棟でも外来でも全力を注いでいることがその背中や眼差しから伝わってきて、それでいて学生の話にも耳を傾けてくれて…ととても熱意に溢れた人だということを肌身で感じました。

もちろん知識量もとても膨大で、この熱意と聡明さの掛け算に一生敵うことはないと確信を得ました。

笑った表情がとても素敵な方ですが、わたしは先生が患者と向き合う姿がとても好きで、眉間に皺を寄せて真剣な眼差しを向ける先生のことをいつまでも見ていたいと感じるようになりました。

ずっと探し続けた「憧れの存在」は、5年前に苦渋の決断で故郷を離れ辿り着いた辺境の地にいました。

https://note.com/rich_camel223/n/n852586c00623

小児科に惹かれる根源的な感情の根源はある意味ここかもしれません。
某漫画では「『憧れ」は『理解』から最も遠い感情」と嘯かれていて、確かにその通りかもしれません。
でもそれでもいいじゃないか。
「憧れ」がいつの日か「理解」になるように、そのために弛まぬ努力を続けていく覚悟は決まっています。
一生かけても同じステージに辿り着けるかどうかも怪しいですが、だからこそ、そのステージを見据えてずっと頑張り続けていたいものです。

1年生。都井岬。
2年生。日向・クルスの海
3年生。宮崎空港。
4年生。平城宮跡。
5年生。自宅近くにて。
6年生。プーケット・マヤ湾。


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