2027年のビーンズショップ    <夢の途中> 第8話 西伊豆へ



 
午後七時三十分少し前に私はダイニングルームに降りて行った。谷川さんはまだだった。案内された席に座って少し経つと谷川さんが下りて来て前の椅子に座った。ちょっとはすっきりした顔をしていた。
 
『何を飲む。』と私は聞いた。『お任せします。』と谷川さんが言った。
『それじゃあ、始まりの夜だからシャンパンにしよう。』と私は言った。オールクルーシブだから高くても良いのだと思ったわけではない。お祝いにはやはり泡ものが良いのだ。
 
飲み物のメニューを観たが、流石にシャンパンは無かった。オールクルーシブで本物のシャンパンを出していたらホテルは倒産してしまうだろう。ただ、何種類かのスパークリングワインはあった。私はその中からカバの辛口を選んだ。シャンパンはフランスのシャンパーニュ地方で作られた物だけをシャンパンというのだ、フランスで作られたスパークリングワインを全てシャンパンと言う訳では無い。それ以外の物はブリュットと等と言われている。
 
私はカバが好きだ。スペイン産のこの発砲ワインは味が濃く、冷たく冷やして飲むととても美味しい。イタリアのスプマンテの方が上品な感じのするものが多いが、カバの味の濃さには敵わない。その上カバは大体において価格が安い。私は家でも外でもカバがあればカバを飲むことにしている。
 
二人でカバで乾杯し、漸く落ち着いた。ここの料理は面白い。船盛もあれば、漁師飯というのもあり、後は、国籍不明の料理が何品か出たりする。私と谷川さんはカバを白ワインに変え、最後はビールに変えよく飲みよく食べた。
 
『今日は残念だったね。』と私は言った。
『いろいろ見られて面白かったです。』と谷川さんは言った。『ただ、私としては、一つ一つの建物がどうかという事では無く、全体的に何かが決定的に違う。という感じでした。』

私もそうだろうと思った。
『今日見たのは全部別荘地だからね。伊豆高原の場合、こういう人工的な別荘地が多いよね。綺麗だけど。』
『そうなんです。私が考えているカフェ&ミニホテルはちょっと違うような気がするんです。』
 
私にも少しわかって来た。谷川さんはちょっと格好の良い別荘地で小奇麗なカフェ付ミニホテルをやりたい訳ではないのだ。それは、今は上手く言葉に出来ないかも知れないが、これから何を選び、何を選ばないかによって、だんだん分かって来るはずだ。そういう意味ではやはり出かけて来て良かったのだ。
 
『明日の物件は。』と私は聞いてみた。『やはり元ペンションなんですが、今度は別荘地内では無いと思いますので、今日より、少しは期待できるのでは無いかと思います。』
 
『それじゃあ、まずそれを観てみようよ。順番だから。それが気に入らなければ、又、不動産屋もあるし、町役場のそういう係りの所もあるだろうから、いろいろあたってみようよ。』と私は言った。ただ、どう考えても、まだ、探し始めた初日なのだ。犬も歩けば棒にあたるという諺もある。物件探しはまだ、始まったばかりなのだ。
 
酔っていたし、疲れてもいたので早めに寝る事にした。明日は又、忙しくなるだろう。ベットで本を読んでいるうちに眠くなり、そのまま寝てしまった。
 
翌朝はバイキングだった。私はバイキングが好きではない。なんでも好きな物を好きなだけ食べられる事を喜ぶのは後進国の子供だけだ。日本もかってはそういう時期があったのだと思うが、今時、そんな物を望む日本人の大人は少ないと思うのに、どこでも朝はバイキングだ。
 
食べ物を好きな物だけ幾らでも食べられるというのが本当に必要なのだろうか。普通の日本人の大人は、喜びはしないだろう。それなら、まだ、和定食と洋定食を選べて、そのどちらも質はとても高いという朝食を出してくれた方が大人は喜ぶのでは無いかといつもおもっている。
 
ただ、旅館やホテルは自信がないのだ。それだって本当はどちらかだけでも良いのだ。ただ、それだけ質の高い朝食を出せる自信が無ければ、それは出来ない。
 
もう一つは人件費の節約だろう。どう考えてもバイキングは人件費の節約にはなりそうだ。
 
だから、谷川さんのカフェで出す朝食は、本当に美味しいコーヒーとパン、地元でとれた野菜のサラダ、それに卵料理だけで良いとおもっている。そうした意味では谷川さんがやろうとしているミニホテルの朝食はとても魅力があるのでは無いかと思う。バイキングの中で、私達は、パンとコーヒーと目玉焼きだけを食べて出発した。

昔は良く松崎へ行っていた頃、主な行き方は二つだった。私は車の運転はしないので、下田から松崎行のバスに乗るか、沼津からから途中の温泉地の港に泊まりながら松崎まで走る高速船に乗るかのどちらかを利用していた。

ただ、この高速船は現在は廃止になってしまった。うちの娘など今でも時々言う、あの高速船は良かったねと。フェリーの様な大きな船では無く、普通の観光船だったため、海も景色も身近に感じられた。そして最後に松崎の港に着くと港のすぐ前に豊崎ホテルがあった。そして豊崎ホテルは今もある。今日はそのホテルを取ってある。
 
豊崎ホテルというと大きなホテルを想像するかも知れないが、港の正面にある小さな旅館だ。更にこの旅館が楽しいのは、食事はホテルの前にある魚料理店でとる事だ。
 
夜は地魚の刺身や、炭火で焼いた魚やサザエ等が沢山出る。それをビールを飲みながら食べるのはとても良い物だ。
 
下田からバスで行く場合は、蓮台寺などの伊豆の温泉場の前を幾つも通りながら、大きな峠を越えると、そこから大沢温泉という古い庄屋屋敷を使った温泉旅館の前を通り、桜田温泉などのまえを通り、松崎の町に入っていく事になる。
 
特に桜の頃は、この大沢川の両岸に桜並木が続き、素晴らしい景色になる。バスにするか船にするかはあなた次第と言いたい所だが、もう沼津⇒松崎間の観光船は無いのだから選びようがない。どうしてあんな素晴らしい観光資源を絶やしてしまうのか理解できない。一度静岡県の観光課の担当者に聞いてみたい物だ。
 
日産デイズは下田、松崎間のバスルートを辿っていた。勿論、下田まで行くわけでは無く、途中の蓮台寺から右折し大きな峠に向かって走って行く。
 
『今日のもう一軒のペンションはどのあたり。』と私は聞いた。『西伊豆というより、南伊豆と言った方が良いと思うんですが。』
 
西伊豆の海岸線は崖の上をずっと波勝崎に向けて走って行くのだが、確かにその周りにもペンションは多かった。少し不便でも風光明媚な方が営業上は良いのかも知れない。その中の一軒の空きペンションが今日の物件らしい。
 
道路は空いていて快適なドライブだった。谷川さんが車を止め、『この辺だと思うんですが。』と言った。確かにペンションやミニホテルが何軒かある。車を横道に入れ、少し走るとその空きペンションらしい物件が見えて来た。
 
白いペンキで塗られた2階建ての建物で、それなりに崖の上から海も見え、建物も昨日の城ケ崎海岸の別荘程、豪華では無かったが、まあ、それなりに恰好良かった。
 
『どう。内見する。』と私は聞いてみたが、谷川さんは『いいや良いです。』と言った。やはり思っていたものとちょっと違うのだ。『それじゃあ松崎に戻ろうか。』と私は言い。『はい。』と谷川さんが答えた。
時間は1時を少し過ぎていた。『松崎に美味しいうなぎ屋があるからそこでお昼にしようよ。』と私は言った。
 
日産デイズは先程の道を戻り、松崎市内に入った。適当な所で、時間貸しの駐車場に車を入れ町中をぶらぶら歩きながら、入り組んだ道へ入り、うなぎ屋に到着した。昔、何度も来たことのあるうなぎ屋だ。
 
美味しいし、その上落ち着く。二人でうな重を注文し、少し話をした。『景色の良い所に建っている、元ペンションなんかは気に入らないみたいだね。』『はい。やはり気が乗らないんです。そういう場所でちょっと格好の良いミニホテルをやりたい訳じゃあないんです。今回、建物を幾つか観てそういう事がはっきり分かりました。そういう意味では来て良かったと思っています。』
 
『そうだね。何でも実際動いてみなければ分からない事は沢山ある。豆屋を作る時だって、そうだよ。人によって、いろいろな好き嫌いがあるので、ここが売れそうだからと言っても、そこで決まる訳では無い。』
 
話しているうちにウナギが焼け、うな重が席に届いた。昔と変わらず大きなウナギがのっていた。ウナギはふっくらと膨らみ、とても柔らかそうだった。二人ともたちまち食べてしまった。昔、家族で来た時も良くこのうなぎ屋でお昼を食べたものだ。
 
『少し町を歩いてみようよ。』と私は言った。コーヒーも飲みたかったし、町も少し歩いてみたかった。
 
二人で町をぶらぶら歩いた。松崎プリンスのある海岸沿いを歩き、町中もぐるぐる歩いた。大沢川の畔を歩いている時、ふと気が付くと谷川さんの表情が変わっていた。
 
『この町はいいなあー。この町で出来たら凄く良いと思います。』と谷川さんが突然言いだした。さっき迄の何か違うという感じが全く消えていた。
 
少し歩いてから、一軒のカフェに入った。この町にカフェは少ない。昔、松崎美術館の中にあったカフェも何となく止めてしまった。このケーキ屋を兼ねたカフェがこの町の唯一のカフェらしいカフェかも知れなかった。
 
私達はケーキを注文し、コーヒーを頼んだ。ケーキもコーヒーもまあ、普通の味だった。
 
何となく谷川さんの顔は上気している様に見えた。何か気持ちが動き始めているのかも知れなかった。
 
『不動産屋でも探してみようか。』と私は言った。『不動産屋に物件はありますかね。』と谷川さんが聞いた。『分からないけれど、順番としては不動産屋からの様な気がする。』と私は言い、町を歩き始めたが、不動産屋は殆ど無かった。小さな不動産屋が一、二軒あったけれど、ミニホテル向けの物件など無かったし、態度も冷たい物だった。
 
『困ったね。』私は言った。でも谷川さんはここがとても気に入った様で簡単には諦めそうも無かった。でももう時間も三時を過ぎていた。役所へ、おかしな時間に行くと親身になって相談にのってもらえないかも知れなかった。『一度旅館に入ろうか。明日、町役場へ朝から行くという手もあるし。』と直ぐに疲れてしまう年寄の私は言ってみた。

谷川さんも仕方無いと思ったのか、『それではそうしましょう。』と言って二人で日産デイズの所まで戻った。私達は松崎の港に面した豊崎ホテルに着いた。駐車場に案内され日産デイズをそこに止めた。
 
ホテルのロビーは昔より大部広くなっていてソファーの数も増えていた。部屋に通されると普通の八畳の和室だった。昔は家族三人でもっと小さい部屋で狭かったが、それで充分だった。
 
昨日は別々に部屋を取ったが、今日は、それは無理という事で、一部屋だった。『風呂に入ろう。』と私は言い風呂に向かった。あった、あった。昔と変わらないタイル張りの小さな風呂がちゃんとそこにあった。二人でゆっくり湯に浸かった。風呂の窓からは港と魚市場と海が見えた。景色も昔と変わらなかった。
 
『いいなあ、この旅館もこの町も。ここでやりたいなあ。』と谷川さんが子供の様に言った。何だかこの町もこの旅館もとても気にいったのだろう。昨日までの谷川さんと全く違う。
 
風呂から出て、浴衣に着替え、二人で港を散歩した。港には、魚市場もあり、その中も観る事が出来た。人が二・三人何か仕事をしていた。
 
旅館に戻ると、フロントで『夕食は六時からです。前の魚料理店でお願いします。珍しい取り合わせのお二人ですが、仕事ですか。』とフロントの男の人が聞いてくれた。
 
『仕事と言えば仕事なんですが、物件を探していて。』と私は言った。困った時は藁をも掴みたい物なのだ。『へー珍しいですね。今時物件を探していると言うのは。もう、そう言う人はいないのかと思った。この辺も一時はペンションや民宿ばやりで、そういう物件を探しに来た人が多い時期もありましたが、今ではそれも下火になり殆どそういうお客さんはいないです。』
 
『不動産屋さんにも、殆ど物件は無い。と言われたんですが。』と谷川さんが言った。
 
『いやそんな事も無いかも知れない。町の観光課に、そう言う事に詳しい女の子がいますんで、連絡しておきます。明日時間は大丈夫ですか。』
『はい。昼間なら大丈夫です。』と谷川さんが答えた。私は笑いそうになったが、堪えた。『昼間以外役所がやっている訳がないだろう。』と思ったからだ。
 
『それでは明日の朝役所に電話して約束の時間を決めておきます。場所は町役場でいいですか。』
 
『大丈夫です。宜しくお願いします。』と谷川さんは言った。これが今回の案件の大きな解決策になるとは、その時はまだ、二人とも気づかなかった。
 
六時になり、二人で旅館と向き合っている、魚料理店に入った。席へ案内されて私は言った。『今日はビールにしよう。後で日本酒にしてもいいから。』
 
今日は魚料理だった。まず最初にお通しの<とこぶし>が小皿に乗って出て、そこに生ビールが出た。二人でごくごく飲んでいるうちに刺身の大皿が出た。アジ、イワシ、イサキ、カレィ等が奇麗に盛られていて、マグロ等一切無い。皿にはサザエの殻が二つ乗っていて上にサザエの刺身が沢山乗っていた。
 
『美味しいね。』と私は言い、谷川さんも『美味しいです。』と相槌をうった。『お酒にしよう。ぬる燗がいいね。』と言い私はぬる燗を二本頼んだ。そこへイサキの焼き物が届き、サザエのつぼ焼きも届いた。
 
谷川さんは昨日とは別人の様だった。探していたものが見つかったのだ。まだ、物件は見つかっていないけど。
 
『この旅館も良いですね。魚料理店と旅館に分かれているのが更に良いですね。私のやりたいミニホテルだって、前がカフェで、道路を挟んだ向かい側にホテルがあっても良い訳だから。』と何かもう物件が見つかった様な騒ぎだった。
 
『良かった。』と私は思った。谷川さんは自分のやりたい物を見つけたのだ。嬉しいにきまっている。
 
私達は沢山食べ、よく飲んだ。明日はどうなるか分からないが、取り敢えずやりたい物がどんな物で、それをやる場所がここである事も分かったのだから。
 
第8話終わり。 第9話に続く。


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