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己を映す鏡
「他人は自分を映す鏡である」という文言に疑問を抱いていた。
この言葉についてしっくりくる解釈が見つかった気がするので今回はそれについて書いていく。
既に書いている人たくさんいるからどうしようかなーと思ったのだが、自分の言葉で表現することで考えが明確になる部分もあると思うので書くことにした。例の如く好き勝手書きます。
一個人の意見ですので、合わないと感じた方は見なかったことにしてそっと閉じてください。
他人は自分を映す鏡。
この言葉を知ってから、目の前に現れた人の苦手な部分は自分の中にも存在するという意味があると無意識のうちに考えていた。
相手の姿は自分の姿を反映させたものと考えていたのだ。
鏡を覗き込むと己の姿が映るということは鏡を覗く自分=鏡の中の自分となるように、相手=自分の反映、自分の姿の反映だから相手の嫌な部分は実は自分も持っているもの、そういう風に捉えていた。鏡の中の自分が眼鏡をかけていたら鏡を見ている自分も眼鏡をかけているのと同じように。
だが、腑に落ちない感じがしたため少なくとも自分の中ではそういう意味合い以外もありそうだなと考え直すことにした。
まず、鏡という単語から受け取るイメージについて考えてみた。
ここで、鏡とは「光の反射を利用し姿を映すもの。多くは自分の姿を見るために使われるもの」としておく。
よく考えてみると、これまでの自分は鏡という単語の「自分の姿を見る」に目を向けて解釈していたことに気付いた。
鏡自体ではなく、鏡を使って何が見えるかという部分に着目していたらしい。
鏡を使って見えるのは物の姿、多くは自分の姿を確認するべく使うため自分の姿が見える。
よって、「他人は自分を映す鏡」という言葉から他人=自分の姿というイメージを思い浮かべていたのだ。そのため、目の前にいる人の気になる部分は、自覚がないだけで自分も持っているのかもしれないと思っていた。
以上が、今まで「他人は自分を映す鏡である」に抱いていたイメージである。
今回、上記とは別に、鏡は自分のことを見る「手段」である点に目を向けて解釈してみた。
すると、言葉から受け取る意味が変化したように思う。
鏡を「手段」であるとすれば「他人は自分を映す鏡」の「鏡」とは、鏡写しになった自分そのものの姿(他人=自分の姿)ではなく、自分の姿を確認するために置かれた鏡自体(他人=鏡の立場)を指しているのではと思った。
その点から、他人とは「自分のことに目を向けて知るために手がかりとなる存在」、そういう意味での「鏡」ではないかと考えた。
他人の行動や考えを見聞きし自分がどう感じたのか、それを観察しほどいていくことで自分がどんな価値観を持っているのか、固定観念を持っているのか、性質を持っているのかなど自分の内面を知ることができると思う。
他人という存在を通して生じた内面の動きをきっかけに、自分のことに目を向け、自己理解を深めることに繋がる。
己と対峙し現在の状態を確認、何かに気付くための存在という意味で「他人は自分を映す鏡」と表現するのではと感じた。
これは人に限った話ではなく、本や音楽、情報、自然、動物との関わりなど、自分以外の何かと関わることで感じた内面の動きを分析することは、自己理解、気付いていなかった自分に気付くことに繋がるのではないかと思う。
究極、自分以外の存在は全て自分を知るためのきっかけとなる存在と言えるのかもしれない(大袈裟すぎるか)
どこからが自分といえるのか、他との境界線はあるのか考え始めるときりがないので、「自分」の言葉の定義は各々の定義に委ねてもらえると幸いです。こう考えると、言葉も曖昧なものだなと思います。同じ言葉を使っていてもその言葉がどんな感覚で用いられているのか、どの範囲を指すのか…人によって異なると感じるので…。同じ人でも、使う場面によって異なる定義で同一の言葉を使うこともあると考えているので、定義というものもその時々で揺らめく確かに見えてそうでないものなのでは?と個人的に考えてる…脱線しすぎ失礼いたしました。
話を戻します。
目の前にいる他人と自分は同じ部分を持っている、という解釈で「他人は自分を映す鏡である」を使うこともあると思う。内観していくうちに、実は自分も同じような部分があるのではと気付くパターンの人もいるだろう。
だが、そう解釈していて腑に落ちないことが出てきたため、今回新たな解釈を考え、自分なりに書いてみた。
人の嫌に感じる部分を自分が持っているなんて認めたくない自分もいるから、勝手に都合よく解釈し直しただけともいえるだろう。
逃げているだけかもしれないが向き合いたくない時は逃げていいと思う。無理に受け入れる必要もないはずだ。
苦しくなるなら逃げていい、逃げることで苦しくなるなら無理に逃げろとは言わない。
でも私の場合、そのまま対峙すると嫌になる人間だ。そのため、自分の考え方を少し変えて物事を捉え直してみる、そうすることで楽になる部分もあると思い今回はその方法を取った。
物事に対する自分の捉え方をもう一度異なる方向から捉え直してみることで、知らないうちに自分が足枷を作り上げていたことに気付けるのだと感じた。そういう部分は他にもあると思うので気付いたときに外していけたらいいかなと思う。
人の考え方を知って取り入れることも大切だが、自分がそれについてどう感じるのか、どう解釈するとしっくりくるのか考えることも大切だと思う。
色んな情報に触れることのできる今だからこそ、自分の感情、思考を確認することは大事になりそうだと感じる。自分も気を付けたいと思います。
いつも通り、まとまりのない記事になってしまった。
以上、「他人は自分を映す鏡である」の「鏡=手段」と解釈すると、「他人=自分のことに目を向けて知るために手がかりとなる存在」と解釈できそうだという一個人の考えでした。
こういう意見もあるんだなーくらいで軽く流してくださいませ。
ここまで読んでくださりありがとうございました。