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怒涛の大人の休日倶楽部パス・第4日目・最早とき312号新潟-東京で開高健邸と餃子&麻婆豆腐 2025/01/23

スクチャイのむちゃうま旅日記013 東京>杉並区(2025.01.23)

★第1日目の成田山と鳥重の話はこちら★

★第2日目の松本市草間彌生と桜鍋の話はこちら★

★第3日目の品川-仙台常磐線特急ひたちの話はこちら★


<序>

この日は以前から東京でアポイントがあったので「大人パス」第4日目の目的地として東京に往復することにした。

現地では「大人パス」を有効利用するためになるべくJRを使う。
そして空いた時間は手抜かりなくおいしいものを食べる。

1.「とき312号」の指定席

昨日も乗車した新潟9:13発「とき312号」に乗って東京へ行く。

1日1往復の東京までの所要時間が上り1時間31分(下りは1時間29分)の速達新幹線だ。

昨日は進行左側の3人掛け座席の窓側を指定したが、今日は右側2人掛け座席の窓側を指定した。

昨日も書いたが「とき312号」は自由席車両が3両しかなく指定席車両が7両で指定席の方がすいていると思われるので指定席を確保したのだ。

これで「大人パス」の指定席の権利6回中の5回目を使うことになる。

さあ、今日は右側車窓を眺めながら東京へ行こう。

2.新潟-東京 1時間半「とき312号」

乗車した車両での観察だが、混み具合は昨日と同じようにほとんどは外見がビジネス仕様のひとり乗客がほとんどすべての窓側に座っているのだった。

昨日より若干乗客は多いように感じたが、自分の車両しか見ていないのであくまでこの車両での今日の状態だ。

吾輩は右側2人掛け座席の窓側に座っていたが、左斜め前の席には3人掛けを2人で座る中年女性がいた。

ビジネスには見えず、浮かれた遊び目的の私服の旅行客だと一目でわかった。

もしかすると「大人パス」同業者かもしれない。

3.年輩女史2名の喋りが車内に響く

しかし、例外なく中年女性2人組はいつでもどこでもよく喋る。

あたかも口から生まれてきた特別進化の生物のように。

幸い斜め前だったので話し声は迷惑するほどではなかったが、よく通る声だったので話の内容がはっきりわかるほどだった。

さすがに座席の真後ろにそんなお喋り女性がいたらノイローゼになるかもしれない。
(以前関西空港-伊丹空港のリムジンバスで背後にいた女性2人にそういう目に遭ったことがある。吾輩の頭頂から後頭部にかけてから1時間も絶え間なく降ってくる甲高いマシンガントークに、こちらは寝不足で休みたかったのに休めなかったのだった)

さて今日は新幹線車内で、斜め前から聞こえてくる女性2人のお喋りだ。

これから東京まで1時間半の忍耐を強いられるわけだ。
(中年女性2人の会話が途中で終わるわけはない。90分フルタイムで時間切れなのが目に見えている。それにしても速達新幹線でまだ良かった)

ところで、女性の喋りというのはなぜやかましく感じるのか?

そして男性と違う点は?

というのを吾輩なりに分析してみた。

★女性の話は感情を籠めるため、直接話法が多い。

例文:きのう夢グループの保科有里さんがねぇ~「社長ぉ~!もうちょっと安くしてぇ~!そうでないとアタシ、買えない~!!!」って言ってたよ~!
(発言者の感情と口調を真似る。しかし似ているかと言えばそうでもない。自己満足形模倣である。「!」が多いことが特徴である)

★男性の話には話し手の感情は入らず論理的に意味を伝えるため、間接話法が多い。

例文:きのう夢グループの保科有里さんは、社長にもう少し安くして、そうでないと彼女は買うことができない、と言った。
(男性はなるべく標準的な言葉に変換して起伏ない冷静な話し方で相手に意味を正しく伝えようとする)

実践編。

左斜め前の女史2名のうちの1人が喋っていた言葉の例だ。

きのうウチの息子ね~「そんなのおかーさん無理じゃん!最低じゃん!」って言うからね~。なのでアタシさ~「おかーさんにそんなこと言っても仕方ないでしょ!なんであなたそんなことまでわからないの!」て言い返したの~そしたらね~ついに「エーン!」って泣いちゃった!あっはっはっはっ!!!(ポン!と隣人の二の腕を叩く)

「」の内部は息子の口調を似せたつもりで甲高い声で感情を込めていて、話し手が言ったそのまんまの言葉を自分の話に挟み込んで喋るのであった。

その口調の真似が会話の中に頻繁に挿入されるので、抑揚が激しい非常に落ち付きのない喋りとなって、それがノイズとして周囲に響き渡るのであった。

たとえ当人達は声を抑えているつもりでも、静謐な新幹線車内では周辺にハッキリと会話の内容がわかるのだった。

当人達はまずそれに気付いていない。

これを男性同士の話に変換するとどうだろう。

昨日私の息子が母親にそれは無理だ最低だと言うので母親がそう言っても仕方がないことだけどそれがわからない?と言い返したら息子は泣いてしまった。ははは。

抑揚のない冷静な会話で小さな低音で話すので周囲に迷惑をかけることはない。

但し酒が入った日本人オッサンは声がでかくなり支離滅裂で繰り返しの発言が多発するので最悪の騒音公害となり、ここでのオバサンの直接話法などは実はまだカワイイものなのだ。

結局酒の入った日本人オッサンほど始末に負えないものはない、というのが結論だ。

(オバサンを敵に回すと怖いのでここではそういう結論で終わる。くわばらくわばら)(≧∇≦)

4.新潟は裏日本?

裏日本、表日本という表現でピンときて「なつかしい!」と思う人は中年以降の人間だろう。

現在中年以降の人は、毎日天気予報などで「冬型の気圧配置で裏日本は今日も大雪の荒れ模様です」などと聞かされていたのだ。

吾輩は子供だったけど、子供心に何が「表」で何が「裏」?
と思っていた。

親に訊いてみたら、

「東京やら大阪などがある太平洋側が表やから反対側の日本海側は裏やね」

とのことだった。

大阪に住む吾輩は、そうか、自分は「表」なんや、なんか良かった、と納得した。

いつしか「表日本・裏日本」が「太平洋側・日本海側」に変わったが、吾輩自身は理由はよく知らない。

これも人に言ってみると、

「表と裏は価値が違うことが多いので差別的な表現になるからとちゃう?」

とのことだ。

表=良、裏=悪

とまではいかなくても、表は主体で華やかで豊かであるが、裏はついでで地味で表より目立ってはならず、つまり裏はどうでもいい存在・・・?

シングルレコードで言うとジャケットのタイトルが入っているのがA面つまり表面で、オマケというか付録というか、ついでに入ってるのがB面つまり裏面である。

吾輩も持っていた「およげたいやきくん」のシングルレコードのA面はもちろんジャケットの「およげたいやきくん」で、裏面のB面には「いっぽんでもニンジン」が入っていた。

「いっぽんでもニンジン」???

なんじゃそりゃ?

と思い、恐る恐るレコード盤に針を置いてみると・・・

「いっぽんで〜もニンジン♪・・・にそくで〜もサンダル♪・・・」

なんやねんこれは!?

(今にして思えば笑えるのであるが、当時は素直に「変な歌」で片付けた)

「およげたいやきくん」は学校から帰ったらすり切れるほどかけて聴いていたが、B面の「いっぽんでもニンジン」は最初に一回聴いただけで二度とかけることはなかった。

・・・そういうわけで、日本列島を表と裏にわけるなどしちゃいかん!

なのであろう。

吾輩はガキのころは大阪だったが、今は新潟なのでおもいっきり裏日本だ!

「いっぽんでもニンジン」側だ!

一回しか聴いてくれない側だ!

夢にも思わなかった陰気くさい(天候の)地域に住んでいる!

こうして考えると、たしかに表/裏と表現すると価値の優劣があるように見える。

それはやっぱりイカンことなのだろう。

話がずれるが、ついでに言わせてもらうとブラック企業のブラックだが、あれ、明らかに黒=悪と決めつけてるし。

そんでええのん?

冷静に考えて、黒=悪なん?

レストランの黒服は悪い人?
ブラックホールは悪い穴?
あなたの身の回りにある黒いものは悪いものなん?

反対に、ホワイト=善、なん?

ホワイト企業/ブラック企業、というのは、白人/黒人と照らし合わせると非常にまずい表現なので止めた方がいい、と吾輩は長く思っているが、日本では一向にその表現はなくならんね。(余談)

5.「裏日本」新潟は冷たい風雨

住んでみないとわからなかったこの陰気・・・

これが裏日本、いや、日本海側の冬の気候だ。

11月頃から3月頃まで太陽が出ないのだ。

(はやく引っ越したい)

今年は暖冬のようで1月中旬の時点でまだ本格的には雪は積もっていないが、冷たい雨が降り風も吹き荒れ空は鬱屈した黒い雲に覆われてるので寒いことは寒い。(新潟駅周辺基準の話。山間部は雨の代わりに雪だろう)

9:13発とき312号は窓に雨粒を水平に流しながら越後平野を突っ走っていた。

雨粒が水平に流れるのはスピードが速いからあたかも重力がないかのように後ろに飛ばされるのだ。

その角度によってスピードを算出できるかもしれない。

今、何キロ?

というアプリがあったような気がするが入れてない。

それよりも雨粒の飛び去る角度でスピードがわかる方がおもしろそうではないか。

そういえば以前新幹線の車内電光掲示で「ただ今○○○km/hで走行中です」と流れていたが、最近見たことがない。
あれは東海道新幹線だったかもしれない。

吾輩の経験上の飛行機以外の一番早い乗り物は上海空港から都市部へのリニアモーター列車だ。
車内の電光掲示で412km/hだか430km/hだかの数字をアピールしていたのでその写真を撮ったことがある。

(嬉しいよりもどこかにふっとんでいって土に埋められるのではないかと怖かった)

上越新幹線の最高速度は前回のダイヤ改正(2023年3月18日)で240km/hから275km/hに引き上げられたらしい。

そのため停車駅が途中大宮だけの列車は7分短縮されて1時間30分を切る(新潟方面下りで1時間29分、東京方面上りで1時間31分)ようになった。

ちなみに東北新幹線の「はやぶさ(こまち)」の最高速度は宇都宮-盛岡間で320km/hだ。(大宮-東京は上越新幹線も東北新幹線も最高速度が1/2以下の130km/hに制限されている)
東海道新幹線の「のぞみ」の最高速度は285km/hで東京-新大阪552.6kmの最短時間は「のぞみ」の上下線最終列車で2時間21分だ。

さて、「とき312号」は朝の9時過ぎでなお暗くて陰気臭い「この世の終わり的」天候の越後平野を突っ走り、燕三条、長岡をどんどん通過して行きトンネルばかりになった。

雪深い越後湯沢を通過し長いトンネルを抜けるとそこは青空の世界だった。

上毛高原で青空。

雪は日が差さない陰の片隅にほんの少し残っている程度だ。

ともかく、青空だ!

「表日本」に出たのだ!

「国境の長いトンネルを抜けると青空の国であった」(成康端川)

6.表日本・関東平野は抜けるような青空

「とき312号」は雲ひとつない抜けるようなさわやかな青空の関東平野をひた走り、高崎、本庄早稲田、熊谷を通過した。

通過時には電光掲示で「ただいま○○(駅名)付近を通過中です」と表示される。

そして最初の停車駅大宮を定刻の10:20に発車して、次は東京だ。

大宮からは先に書いたように速度130km/h制限があるので新幹線らしからぬのんびりした走りに見える。

左側に満員電車の埼京線と併走し、右側には富士山が見える。

ともかく、青空だ!

青空なのだ!

なお、当日のとき312号車窓風景はノーカットでYouTubeにて公開中。

7.中央線快速グリーン車

定刻の10:44に東京到着後、吾輩は中央線1,2番線に移動した。

おととい新宿に行く時と同じパターンだ。
通勤というものは毎日の繰り返しなので複雑な乗り換えでも寝ぼけていても自動的に歩いて乗り換えて電車に乗り継ぎ勤務先に行けるのだ。

吾輩は初日に総武線快速ホームへ向かう傍ら、脇目で中央線1,2番ホームへ上がるエスカレーターを見ていて、その翌日はそのエレベーターで上がって中央線に乗ったのだった。

今日は3度目なので寝ぼけていても間違わなかったはずだがもとより寝ぼけてなんかいない。

おとといは新宿駅までの移動だったので適当に来ていた電車に乗ったが、今日はその先荻窪まで行く。

できれば例の、今無料開放されている4,5号車のグリーン車に乗ってみたい。

と、号車番号を探し回る必要もなく、吾輩が立っているところがちょうど4,5号車辺りであった。

と、
待つほどもなく折り返し電車がやってきて、目の前にグリーン車が停まった。

通勤客をはき出してからガラガラのグリーン車の2階に乗り込んだ。

係員による車内清掃がなく、座席も東京方面に向いたままだった。

自分で座席を回転する。

後で乗り込んできた乗客は、座席の向きを気にせずそのまま座る人が多かった。

まあ近距離だと気にすることでもないかもしれない。

通路を挟んで右側に座ったおばあちゃんも、座席を回転させずに東京方面を向いた席に腰掛けた。

列車はすぐに発車した。

進行方向に向いて座ってリクライニングして、2階のちょっと高台から混雑するホームを眺める優越感に浸れる感覚が新鮮だった。

お茶の水に停車すると、おとといもそうだったがホーム向かい側の黄色の総武線からこちらの列車に大群で押し寄せてくるのだった。

ふなっしー(船橋)方面、千葉方面からの通勤客だ。

案外グリーン車両にはほとんど乗ってこなかったのだが、1人の兄ちゃんが2階座席にやってきて、通路を挟んだおばあちゃんが1人で窓側に座っている席の隣の通路側席に無造作に腰を下ろした。

ドサッという音がするほどぞんざいな座り方だったので吾輩もその方を見た。

兄ちゃんはおばあちゃんの隣に腰を下ろした瞬間、座ったまま前のめりになってスマホをいじり始めた。
いや、その様子からスマホは最初から握りしめていて、総武線乗車時から片時も画面から目を離さずいじっていたのだろう。
すなわち周囲の状況を感知しない利己的兄ちゃんなのだ。

先に書いたように吾輩のいる2階席は空席だらけだ。

なぜ兄ちゃんはわざわざおばあちゃんの隣に座った?

吾輩が案じるまでもなく、おばあちゃんはすぐに、

「すみません~、席替わるので通して下さい~」

と兄ちゃんに言い、前傾姿勢でスマホをいじる兄ちゃんの前をなんとか横切って通路に出て、逃げるように2つ前の座席に移動した。

そりゃそうだろう。
おばあちゃん、正解だ。

吾輩だってそんな薄気味悪いスマホ男が空いてる車内で隣の席に来たら嫌だ。すぐに逃げ出す。

そもそもなんでわざわざ人のいる隣に座ったのだ?

またしてもトナラーか?

まさかスリなどの犯罪目的ではないにしろ、ガラガラの車内でわざわざ隣に座ってくる人の目的がわからない。

おばあちゃんはひとりでくつろいで座っていたのに、そこを邪魔するように隣に座ったものだから、とても嫌な表情をしていた。
なんだかおばあちゃんをいじめているようにも見えた。

真意がわからないぜ兄ちゃんよ!
(本人はスマホばかりで周囲に興味がないみたいだったが。こういう人を見るとやっぱり自閉症を疑ってしまう)

それに、やっぱりトナラーって実際にいるのか?
意味もなく隣に来るヤツ。

おばあちゃんは今度は自分で座席を回転させて進行方向に向けてから座った。

なお、無料開放グリーン車には乗車ルールがあって、下車時には座った座席の背もたれは元に戻すこと、ゴミ箱とトイレは利用停止中、ゴミは持ち帰ること、の協力を何度も車内放送で呼びかけていた。
今のところ専属の乗務員がいないので乗客の協力を促すしかないわけだ。

有料化した後はアテンダントも付いて車内清掃や終点での座席の回転などを行ってくれるようになるのであろう。

なお、このときの中央線グリーン車からの車窓、東京から荻窪はYouTubeで公開中。

8.荻窪の餃子と麻婆豆腐

荻窪に11:20頃到着。

アポイントは昼過ぎなのでここで昼食だ。

餃子12個定食
単品の麻婆豆腐を追加

餃子と麻婆豆腐が売りの食堂で、今回は餃子を、と思っていたが餃子12個定食を食べてもまだ食べられそうだったので単品で麻婆豆腐を追加した。

いつ来るかわからない次回に回すのではなく、食べられるときに食べておこうという魂胆だ。

ご飯も手抜かりなく最初から大盛りにしていて、餃子を食べ終える時点で半分残るようにした。

そうなのだ。

麻婆豆腐をご飯にかけて食べたのだった。

餃子も麻婆豆腐も独特で、実においしかった。

なお、この店にはもう一つの名物かあって、それは博多もつ鍋だ。

昼はなく夜のみで、しかも2人前から注文可能。

店員に聞いたら、1人で2人前注文もOkと言ってくれた。

そういう人もいるわよ~、とのことだ。
愛想もいい店員さんで雰囲気もいい食堂だった。

今度夜に来たら「1人で博多もつ鍋2人前」を注文することを心に決めて、吾輩は店を出た。

9.杉並区井草の開高健邸

開高健邸(建て替え後)

開高健氏が芥川賞を取り寿屋(サントリー)の社宅を出て移り住んだ家が杉並区井草にあり、今は記念文庫ということで予約制で公開している。

詳しく言うと、敷地は変わらないが今ある建物は開高健氏が亡くなってから奥さんの牧羊子氏と娘さんが相談して建て替えたたものだ。

開高健氏は建て替える前の家で執筆活動をしていたので、今はその家は写真でしか見られない。
数々の作品を生んだその書斎は2階の奥の左隅だったらしい。

今はその空間的場所は本棚で、記念会スタッフが集めた開高健関係書物や開高健氏自身の蔵書が並べられてある。

見学は2階のみで、1階は事務所になっているとのことだ。
現在の土地建物は相続した牧羊子氏の実の妹から開高健記念会に譲られ、今は記念会が土地建物を所有しつつ管理をしている。
原則毎週水木にスタッフが出勤しているようだった。
(アポイントの日はその曜日が望ましい)

なお、開高健氏は後に執筆場所として茅ヶ崎に家を建てて最初は1人で住み始めた。

しかし開高健氏は生涯住民票は井草のままで、茅ヶ崎には移さなかったとのこだ。

(その頃書いた「独身はすき焼きや!」を読んだとき、なんで独身?と思っていたのだが、この話で合点がいった)

約1年後に妻の牧羊子氏と娘の道子氏もやってきて茅ヶ崎に家族と一緒に住み始めた。

開高健氏はとってひとりになれる場所がなくなり、ひとりで執筆する建物を敷地内に増築し、そこにはバストイレキッチン寝室が揃い、部屋から一歩も出ずに生活できる空間であった。

編集者は玄関から「哲学の小径(こみち)」という母屋の脇を通って直接書斎件ひとりの住まいに出入りすることができた。

親子3人の生活の場は茅ヶ崎に移ったが、井荻の家はそのままで、書斎や倉庫のような形で使っていたらしい。
(しかし実際は開高健氏は書斎の本をわざわざ茅ヶ崎から井草まで取りに来ることはなく、必要な本は茅ヶ崎の書店で注文して新たに買っていたらしい。サルトルの本などが一例だが、つまり蔵書として2冊ずつあるのだ)

吾輩は、茅ヶ崎の開高健邸を先月(2024年12月)に訪れていて、そこで数々の遺品を拝見して感慨無量だった。30年以上経った今も開高健氏の息づかいがあるようで、ファンには堪えられない空間だった。

しかし井草の記念館の方は、開高健氏自身も見ていない建て替え後の家ということと、遺品はなく、基本的に書籍ばかり(+若干の写真)を集めた場所になっているので、開高健氏を研究したい人などがアポイントを取ってから使わせてもらう、といったような場所で、開高健氏の息づかいは感じられない場所だった。

それでも開高健氏の書斎の本をまとめた本棚は圧巻であった。

開高健の蔵書(一部)

編集者に本を読め読め!と言ってただけに、本人はすごい読書量のはずで、しかし、開高健氏は本の保存には関知しない性格だったらしく、帯やカバーや箱を外して捨てたり、ページを折り曲げたり、あまり大切には扱ってなくて、どこかに行ってしまった、という本も結構あるのかもしれないようだった。
見た感じ蔵書の量が少ないような気がしたからそう思った。

しかし蔵書を背表紙だけでも覗き見る、というのは作家の手の内を覗き見るようで、何だか開高健氏に悪いような、後ろめたいような気もした。
本人は公開していることについてどう思っているのかはさだかではない。
記念館や記念会や文庫というものの意向は遺族によるものだからだ。

ここは作家のネタバレに相当するような場所ではない?

たとえばだ。(開高健氏の言い方を真似る)(≧∇≦)

外国の笑い話が書物によく書いていたので、さすが開高先生なんでもよく知ってる!
と尊敬していたのだが、蔵書の中に「外国の笑い話」などという(そのまんま!)の本が鎮座していたのを発見したからだ。

しかしもちろんそれを丸写ししたわけでもないので開高健流に消化しておもしろおかしく書いていただけで、開高健氏の書物では蔵書とはまた別物であるのは間違いないが。

ヴェトナム戦争がらみやチンギスハーンの墓を探す(無念にもその志が果たせられず他界してしまった)などで参考にしたと思われる蔵書も多かった。

それらを手にとって見られるのがここ「開高健文庫」の特徴なのだ。

吾輩も何冊かの本を手に取った。

ヴェトナム関係の本、アメリカ文学の本、サルトル全集・・・

開高健氏が触れて読んだその本を自分が手に取りたとえ今数行でも読んでいる、という感覚が、開高健氏のファンにはたまらなかった。

生前だと、余程親しくないと書斎に入って蔵書を手にすることはできないだろう。

そして、ある本のページで、折り曲げているヶ所を発見した。

開高健氏の蔵書で折り曲げ発見
どの文章を気に留めて折り曲げたかを憶測

開高健氏が気に留めた箇所に違いない。

開高健氏が自分の指で折ったページだ。

そのページを読んでみて、開高健氏がどの行を気に留めたのだろうか、と想像すると背筋がゾクゾクした。

開高健を多数読んでいる吾輩には、わかった。
たぶん、ここだ。

外国のことわざが書いてあった。

もちろん違うかもしれないが、氏の作品をほとんど読んでいると自負している吾輩には氏の目の付け所がなんとなくわかるのだった。

畏れ多いが、なんとなく、開高健氏の魂が、吾輩に宿ったような気にもなった。

先月の茅ヶ崎でもそんな気になる一瞬があったのだ。

書斎で、氏が釣りの時に頭に巻いていたバンダナがきれいにたたまれて積み重なって置いてあるのを見たときにもだ。

まあ、以上は自意識過剰の吾輩の勝手な思い込みの可能性が高いだろう。

「いや、そうでもないで。当たってるで。よう当てたな。よう読んでくれたな。それよりうまいもん喰いに行こや。まあそういうこっちゃ」

と独特のベビーフェイスの大阪弁で話しかけてくれるような気がしたのだった。

週刊プレイボーイ

他、別室にあって特別に覗かせていただいた当時の雑誌「週刊プレイボーイ」の『風に訊け』の文章を見つけ、こんなん書いとったんか!(一説によるとゴーストライターがいたとかいなかったとか・・・?)

と、読んでみると今さらながら恥ずかしくなった。(≧∇≦)

風に訊けのころは吾輩さすがにガキもガキ。読んでも何もわからんかった。
(けど、今はむちゃわかる)

吾輩より上の世代の人にとって、兄貴と慕われて、何でも訊けたのが開高健やったんや。

開高健の名前を忘れている人も、『風に訊け』の人や!と言えば、あああのおっさんか!と思い出すのではないかな?

開高健は永遠やで!

開高健氏

なお、撮影許可をいただいたので会話と館内の蔵書をYouTube動画にて公開中。

10.Costco幕張倉庫店

井草の開高健邸を辞し、あとは自由だった。

久しぶりに東京を自由に彷徨いたい。

・・・といいつつ、ある程度目的がないと、どこへ行くかも定まらない。

バスで荻窪に戻り、黄色い総武線で西船橋まで移動した。

「大人パス」があるので極力JRを使うのだ。

乗り換えなしで一本、なあに、簡単な移動だ、と座りながら考えていたが、西船橋(ウエストふなっしー)までなかなか着かない。

1時間以上かかっただろう。

そこから乗り換えて幕張豊砂へ。

開高健邸を16時ちょうどに出てからすでに2時間以上経過していた。
18時過ぎであたりはもう真っ暗だった。
これだから東京の移動は時間がかかる。
2時間は東京-新潟の移動時間だ。

まあ、久しぶりの東京散歩だから電車に乗ってるだけで楽しいからいいのだ。
目的は駅前のCostcoであるサプリメントを買うのだった。

Costcoに来て買うのはサプリメントだけだ。
オンラインより500円安かった。

ただそれだけだ。

こんなに時間がかかるのだったらオンラインで買った方が合理的だ。

新潟からは最寄りのCostcoは山越えして山形のかみのやまだ。

山越えになるので雪の頃は行かない。

フードコートで洋なしスムージーとホットドックも買った。

アメリカ人と思われるお姐さんは、フードコートで大きなホールピザを買ったようで、それを1人で担いで吾輩と同じ京葉線に乗り込んだ。

フードコートで買える焼きたてピッツァは1880円だ。
直径45cm。
その辺の宅配ピザ屋で買うよりは圧倒的にお得だ。

吾輩も車でかみのやま倉庫店に行くときは結構買って帰る。

しかし、電車でひとりで持ち帰り?(≧∇≦)

数駅の場所に住んでるのだろうか、今話題になる電車の中での食べ物のにおい問題は大丈夫なのだろうか?
(吾輩はまったく気にしないが最近においにうるさい人が多いらしい)

11.19:36発新潟行き「とき341号」

吾輩はCostcoのフードコートで買った洋なしスムージーだけ新幹線で飲んだ。
まだしゃりしゃり冷たくて、新幹線の中で飲むさわやかなスムージーはとても美味かった。

19:36発のとき341号の自由席は早めに並んでいたので最初に乗車できたが、後を見るとすごい行列だった。

車内放送でも本日の指定席は完売、自由駅車両では荷物は網棚へ、1人でも多くの客に席を空けて・・・と繰り返し言っていた。

今日は木曜日で週末前でもないが、何かあったのか、またはいつもこの時間の列車はこうなのか、よくわからなかった。

吾輩の隣にもメガネの丸っこい体型のサラリーマンが座りに来た。
3吾輩は3人掛けの窓側にいて、通路側の席にも先に1人のサラリーマンがいたので、メガネのサラリーマンは中央の座席に恐縮するような姿勢で入ってきて座った。

満席になる列車なので、隣に来ても仕方なしに来ているので「トナラー」ではない。

なんとなく、若い頃の開高健に似る男だった。

高崎で客のほとんどが下車して、車内はすいた。

隣の開高健も高崎で降りていった。

それにしても今日は東京は抜けるような青空の快晴で気温もさわやかちょうど良く気持ちのいい一日だった。

また陰湿な裏日本に戻ることを考えると気が重いのだった。

長岡あたりから案の定窓に水滴がつき始め、真横に線を描くように流れていた。

新潟平野部は今夜も雨のようだった。

(おわり)

★第4日目の鉄道経路と行動まとめ

新潟(11)9:13とき312 10:44東京
333.9km
東京中央線4号車グリーン車-荻窪
18.7km
餃子12個定食&麻婆豆腐
バス南田中車庫行き井草森公園下車
13:00開高健記念文庫16:00
16:50総武線西船橋-幕張豊砂18:15
18:15Costco18:40
幕張豊砂-東京
36.2km+9.4km+30.0km
東京(23)19:36とき341 21:36 新潟
333.9km
走行距離合計:762.6km
333.9+18.7+36.2+9.4+30.0+333.9

★★【目録】「大人パス」5日分旅日記★★

★第1日目の成田山と鳥重の話はこちら★

★第2日目(松本行き:草間彌生と桜鍋)の話はこちら★

★第3日目 品川-仙台常磐線特急ひたちの話はこちら★

★第4日 とき312号新潟-東京で開高健邸と餃子&麻婆豆腐★ (このページ)

★第5日 はやぶさ15号で仙台セリ鍋&松島★

(おわり)


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