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酷寒中国 敗北旅行 1995年冬 4.售票窓口


「1.弁護的我」
「2.青島風光」
「3.老朋友K」
「4.售票窓口」(このページ)
「5.小姐慕情」
「6.冷蔵列車」
「7.大連寝起」
「8.直達特快」
「9.病魔来来」
「10.石炭咳痰」
「11.日本惨事」
「12.白旗掲揚」

4.售票窓口

 青島駅で、烟台行きの切符を買おうと思う。

 外国人は日本のグリーン車に相当する軟座に乗らないといけないと思い、「明天、到烟台、軟座票、窓席1張(あした烟台まで窓側軟座切符1枚)」の紙切れを窓口に差し出した。

 奥の方に座っているメガネの小母さんは「没有没有(ないない)!」と紙切れをふっ飛ばして「次!」と私の背後の人を呼んだ。

 小母さんはなぜか怒っていた。

 私は明日の列車は満員なんだと思ってあさっての日付を書いてもう1度列に並んだ。

 30分ほど時間がすぎて私の順番になり窓口に紙切れを滑り込ませると、不機嫌な小母さんは今度も甲高い声で「没有没有没有(ないないない)!」とさっきより怒り、叫んだ。

 「次!」すぐに背後の客が窓口を占領した。

 私は立ち止まってその客が買う切符を見た。それは烟台となっていた。
 
 なんだいあるじゃないか!、と思ったが中国人の作る列は非常に密度濃く圧力も高いので、その場で抗議出来ずに私はまたしても列から弾き出されてしまった。

 3度目、列の後ろについてさらに半時間、やっと窓口が私専用となった。

 「烟台!」と私も叫んだが、それにまけじと小母さんは「没有!」と返した。

 私はだんだんトサカにきていて、手に入れるまで動くもんかと思い、

 「烟台烟台烟台! 我要火車票! 明天後天!(切符が要るんだ、あしたあさって)!」と叫んだ。

 私にはこれしか言える言葉はない。しかし小母さんはしぶとく首を横に降り続けた。
 そのうち列の客がイライラしだして私を押し退けた。私はまた列外の人となった。

 なぜ無いのか。薄暗い構内をうろうろしているうちに、この列車が普通列車であることを思い出した。そうすると軟座はないのかもしれない。

 私は気を鎮めてから4度目の列に着いた。
 紙切れの「軟座」に×をして「硬座」と書いた紙を小母さんに恐る恐る渡した。

 窓口には腕1つがようやく入る程のトンネルが空いているのだが、すぐそこに顔があれば話もしやすいものの、そのトンネルを潜ったところにネコの寝床ほどの箱があって、直角にまがった所にまたネズミの穴ほどのトンネルがある。
 そして小母さん自身はそこからさらに50センチばかり離れているので誠にこちらの意志が通じにくい。
 だから皆、おがって切符を買っていて、騒々しいことこの上ない。

 周辺にはいろんな紙が貼りつけられていて、以前に貼っていたセロファン・テープが茶色く変色して固まっていたりして、小母さんの顔もぼやけて、いったいどこを見て喋っているのかもわからない。
 そんな窓口から紙切れを突っ込んで小母さんの注意を促すには、腕をひねってまたねじり、そこでペラペラと紙片を動かすしかない。

 ついに私は上腕三頭筋を引きつらせてしまった。

 痛みをこらえていると、小母さんはとんでもない右側上方の曇った合成樹脂板の壁から顔を覗かせていて、コツコツと私を呼んだ。

 見ると紙に9元と書いてある。
 腕を揉みながら10元紙幣を件のトンネルに差し入れると、すかさず1枚の硬券と1元のおつりがネコの寝床に放り込まれてきた。

 そうして私は青島―烟台235キロの普客票(普通切符)を手に入れることができたのだった。

 もう、そのあとは何をする気力もなくなってホテルに戻った。

 躯を休めてしばらくすると、なぜ最初に小母さんは軟座がないから硬座ね、とひとこと言って売ってくれなかったのだろうかとういうことに気がついた。

 「5.小姐慕情」に続く

目録:「酷寒中国 敗北旅行 1995年冬」


「1.弁護的我」
「2.青島風光」
「3.老朋友K」
「4.售票窓口」(このページ)
「5.小姐慕情」
「6.冷蔵列車」
「7.大連寝起」
「8.直達特快」
「9.病魔来来」
「10.石炭咳痰」
「11.日本惨事」
「12.白旗掲揚」


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