第1章_#07_飯田橋のフランスと潰えそうな夢
さて、続き。お茶の水のアテネ・フランセで入門科を終えた。入門科はABCから基礎的な文法までで終わるクラス。赤ん坊が3歳児になった程度のことだから、次の初級クラスからが本当のスタートである。なのに、アテネ・フランセには初級以上の早朝クラスがない。残業が多いから夜のクラスは無理だ。困っていたら、クラスの事情通に、飯田橋の学校に早朝クラスがあると教わった。おお、それは朗報。
その学校は、日仏学院(現 アンスティチュ・フランセ東京)。上の絵は、日仏学院の敷地内にある書店の外観。フランス書籍の専門店「欧明社」の支店なのだが「リヴ・ゴーシュ」という別の名前がついている。リヴ・ゴーシュとは左岸という意味で、言うまでもなくパリのセーヌ川のそれだ。「右岸」はシャンゼリゼやオペラ座を中心とする華やかで通俗的なエリア、対して「左岸」はサン=ジェルマンデプレやソルボンヌ大学を中心とする落ち着いたインテリジェントなエリア、そんな風に別々の顔を持つ。話が逸れたが、そんな洒落た本屋や美味しいビストロなどの施設を擁する日仏学院は、まんまフランスのようなところ。先生も生徒もどことなく自由でおしゃれな感じ。お茶の水の学校とは対照的なムードが新鮮だった。
フランスへ絵の勉強をしに行くという夢に向かって、貯金とフランス語学習にまい進する20代後半。ただ、ここで私は人生の重要な舵取りをすることになる。そう、結婚である。が、数年間フランスで絵の勉強をしたい旨は結婚相手には話し、特に反対もされなかった。順風満帆に思えた我が人生。
しかしながら、それとほぼ時を同じくして、私の父が脳梗塞で倒れてしまう。一命はとりとめたものの、右半身に重い後遺症が残ってしまった。大変なのは母。若いころからずっと父には苦労をさせられてきて次はこれなのだから。
ひと段落ついたころに、さりげなく、近い将来、渡仏したい旨を伝えたところ、「これから結婚するのにバカなことを!あちらのご両親に恥ずかしい!絶対だめ!」。これからいつまで苦労させられるか分からない絶望の只中にある母に、ぷらぷらフランスで絵の勉強などと一体どういう神経をしているのだ、このバカ娘は。本当はそう言いたかったに違いない。歳をとった今は、その時の母の気持ちがわかる。しかしながら、当時の私は30手前の割には中身は恐ろしく子供で、何故に自分の人生なのに自由に生きられないのか?などと憤っていた。強硬に実行に移そうと思えば簡単なことだが、今後いつまで続くか見当もつかない苦労を母にばかり押し付けてまで好き勝手を通す勇気はなかった。
諦めたほうがいいと神様が言っているのかもしれない。それとも少なくとも今は時期じゃないということなのか?ならばいつならいいのか?フランスは逃げないから、そしてやる気があればもう少し歳をとってからでもチャレンジできるのかも知れない。でもそれって意味があるのだろうか?今じゃないと意味はないのじゃないか?
考えはまとまらない。あっという間に宙ぶらりんになってしまった、私の生まれて初めての目標、私の夢。いや、でも、そうこうしてるうちに何か妙案が浮かぶかもしれないし…などと依然当てのない望みを抱いていることに気づき、笑った。
しょうがない。日本で絵の勉強ができるところを落ち着いて探してみるか。とりあえずは、もうしばらくフランス語だけは続けてみようとぼんやり思う29歳の早春。
なんだか真面目な話になってしまったな。次は「フランスとのご縁が急展開!」な話を。À bientôt!
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