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虹はもうここにある。

Mr.Children Hall Tour 2016 虹 @iichiko総合文化センターグランシアタ(大分県)(2016.10.17)

数少ないMCの中で、桜井さんは「約束の日がようやく迎えられた。そんな気持ち」と話していた。

とにかく希少なステージだった。「あのミスチル」を、スタジアムやアリーナを満杯にし記憶にも記録にも残る音楽を生み続ける、間違いなくこの国の音楽界において後にも先にもない存在の、百戦錬磨のMr.Childrenをホールで観れる-。

ここ数年の彼らの活動は明らかに「これまで」と違っている。もはや周知の事実だけど、デビュー以来20年以上続いた小林Pの元を離れ、楽曲制作もライブ演出等もセルフプロデュースを行うことでもう一度、バンドを自分たちの手に取り戻そうとしている。それ故奏でる音も一層ブラッシュアップされ、安直に言えばバンド感が増した。これは去年出た「REFLECTION」を聴けば分かると思うし(音の鳴りがこれまでと決定的に異なる)ここ1、2年のライブ会場の規模を見ても、ライブハウス、対バン、ホールなどと言った比較的小さな箱で他のミュージシャンと切磋琢磨しながら、自分たちの演奏に磨きをかけている。

同時に、現在バンドとして脂の乗り切った最高の状態で奏でられる自分たちの音楽が最上に鳴りのいい条件で届けられる場所。心置きなく音を奏でられる場所。ミュージシャンとして至極当然の欲求。そんな条件が合致し自ずと今回のツアーに至った経緯も見て取れる。急激なブレイクにより一気に肥大化したバンドが、自分たちの手元を離れていった多くの楽曲たちをもう一度自分たちの手に取り戻す。手元から足元から鳴る音楽に喜びを感じ、長年共に歩んできたMr.Childrenを愛する人たちがその立会人となり一緒に見届ける。そしてその後また曲は彼らの手を離れてくんだろう。けれど今度はこれまでに類を見ないくらいのより一層の自信と輝きを放ちながら。

その再確認のような場所だった。今回のライブMCで「来年バンドが25周年を迎えるにあたってやり残していることは何だって考えた時に、自分たちはホールで殆ど演奏したことがなかった。やってみてわかったけど、ホールは何より音がいいでしょ?」と桜井さんが誇らしげな表情でそう話していたことに表れていた。

冒頭から新曲。「覚せい剤」「わいせつで逮捕」「どっちかっていうと自分はそっち側の人種」。このご時世ネットで検索すれば曲の歌詞まで簡単に見つけれてしまうけど、タイムリー過ぎんじゃないかってくらいの強い言葉からは引火した炎が猛スピードで燃え上がり、反転、即座に燃え尽き灰になるかのような、馬鹿みたいな過熱報道と世間に対しての痛切な皮肉のように感じ取れた。暗く暗転した照明からはメンバーの影を追うのにやっとで、ただ曲だけを届けたい意思が表れていた。

「水上バス」「Melody」でアコギのキラキラとした世界に圧倒される。もうバンドが視界の中には収まり切らないほど目の前で鳴らされるMr.Childrenの音楽。ドラム小っちゃくね?ボーカル音量やけに大きくね?いやいや、それがホールでありほぼ生音で鳴らされる音楽の本来の姿でしょって、普段どんだけデカい会場慣れしてんだよって。

目の前に現れたメンバーに圧倒される。席は11列目。近い。前に別府ビーコンの時も近かったけど、今日は更に段差もある。見やすい。ステージまでの視界を遮るものは何もない。ナカケーサイド。でも田原さんも完璧見える。小春ちゃんやー!いつもTwitterで観てる人が目の前!
12月ライブ行くでー!(と心の中で何度も叫ぶ)生山本拓夫近っ!サニー控えめだけど存在感!(佇まいはあくまで人並みに楽しむ感じ装いつつ、すでに心の中だけの叫び連発)

「You make me happy」や「クラスメイト」は生音ホーンセクションが本当に贅沢。しっとりとアダルトでお洒落な雰囲気の序盤から「ランニングハイ」「PADDLE」では桜井さんが近い!てかデカい!迫力ッッッ!勢い余ってホール横に飛び出した際には「いやいや、ここドームじゃねーのよ、スケールが収まりきれてねーよ!笑」

目の前で、ホールで、バンドとして鳴る「しるし」。圧倒的スケール感を持った楽曲も、しっかりと自分たちの音として鳴らしてた。

「裸電球」がステージ上に現れ、シンプルだけど強く明確なメッセージ。「もっと」は本当に好きな曲。

新曲「こころ」。入場者全員に配られるウェルカムシートに歌詞が。偶然(本当に偶然)に夏目漱石の「こころ」を今読んでる最中で(表紙の中条あやみに惹かれて買ったという不純な動機)その中身と別にリンクする訳じゃないんだろうけど、桜井さんの歌詩に心掴まれる理由として、いろんな書物や見聞や経験が桜井和寿というフィルターを通してグーーッと絞られドリップされる。その結果が歌詩という形で表れ、そこに並べられている言葉たちに目を通すことで、あたかも同じ経験をしたかのような感覚を抱ける。その過程がとても贅沢で有意義な体験と感じるからではないか。誰かが苦労して得たものが人に伝えるために精一杯抽出され丁寧に並べられ、僕等はただ味わい感じれるのは本当に幸せなことだと思う。

たとえば小説家は自身の考えを表す場合、きっと書籍に託すだろう。映画監督なら映画にして。でもミュージシャンは曲にして歌詞にする。400頁ほどの小説や2時間の映画より5分足らずの音楽は本当に手軽で耳にし易い。それ故に小説や映画とはまた違った苦労がある分、受け取る側も貴重さをつい忘れがちになるように思う(当然どれにも優劣や同列で語れるものでもないことも承知で)。だからその分音楽を味わう時はより良い環境で(たとえば音質機器に拘るとか)できるだけ触れたいって思う。

「こころ」が出来た過程として、桜井さんの肉親が亡くなり、人は死んでも心の中に生きていると感じれたらそんなに悲しみを感じなかった。でも「心」って一体どこにあるんだろう?って考えたことから生まれた曲と話していた。未完ツアーのMCでは、ブッダのエピソードを紹介し、生きた子供は生きたまま、死んだ子供は死んだまま愛せばいい。はっきりとはわからないけれど、愛とは想像力なんじゃないかと話していた桜井さん。その経緯と重なる気がした。

自分がその場に立った時、どう感じるかはわからない。けれど最近自分が読んだ書物の中にも「悩まないためには、あるがままを受け入れること。百歳まで生きた人と、生まれて間もなく死んだ子供でも、どちらが幸せだったかなんてことはわかるはずもない」という印象的な言葉があった。仏陀の教えの中にも「あらゆる事象はただ流れる雲のように。死んでもまた生まれ変わり次の生き方があるだけ」という輪廻転生の教えが説かれている。自分に支持する教えや宗教があるわけじゃないけど、そう考えることで、視界が開けたり、人生豊かになるのなら感じることは自由だと思う。

「東京」を歌う前に、「この曲を大分に捧げます。この街のこと、思い浮かべながら聴いてください。『東京』」。というMCで持ってかれた。曲中の誰かが口笛を吹いてる交差点は、それこそ大分駅前の信号待ちがいつもイメージされてた。まだ就職前の実習期間にスーツ着て出勤するサラリーマンに憧れ、実家から電車に乗りビジネス街で人混みに紛れ「振り」をしていた。自分も「人並み」になれた気がしてた。まだ将来すら不安定なままの劣等感のカタマリだった。

きっと今もそう。人はそんなに変わらない。小心者は変わるはずがない。描いた夢だってそう簡単には叶わない。でも夢を見るより大切な人がいる。笑ってくれる人がいる。理解してくれる人がいる。必要としてくれる人がいる。守るべき人がいる。失敗や挫折してからわかる本当に大切なもの。それを守ることは決して容易ではない。誘惑や迷いや不安や葛藤の日々連続。そんな胸を少しでも掬ってくれた曲。

"この街に大切な人がいる
この街に大切な場所がある"

思い浮かぶのは大切な人たちの顔。そして故郷の匂い。

「足音」はここ数年で最も大切な一曲になった。発売のタイミングも、曲と一緒に歩んできた気すらしたこの2年間も、そしてこれからも。この足音を聴いてくれる大切な「誰か」―。大切な人との出会いの結びつきにも、本当に支えられた。

"疲れて歩けないんなら 立ち止まってしがみ付いていれば
地球は回って行って きっといい方向へ僕らを運んでくれる"

涙腺緩みっぱなしだった「足音」の後の「通り雨」は、本当に雨上がりの水たまりの上を長靴でジャンプして歩くような笑顔とワクワクに会場が包まれた。

そして「虹の彼方へ」で心に虹が架かる。それを意図されてたのかどうかはわからないけど、思い起こせば上手い具合に心動かされてたなぁ。

何万人の心を繋ぎ止める壮大なアンセム「名もなき詩」「Tomorrow never knows」。この規模で鳴らされることで曲の骨格が鮮明に具現化していた。Mr.Childrenという肉体に宿り生気を得た魂のように。いつ聴いても大切な名曲たちだ。

「熊本、大分で大変な震災があって、その時少しメッセージを出させてもらいました。いつか虹が出るかもしれない。でも虹は出ないかもしれない。それでも、100万回に一度でも出た虹を見逃さないように、できれば、前を向いていて欲しい―。そんなメッセージがそのまま歌詞になりました。だから冒頭で『ようやく約束の日に来れた』と言ったのはそういう意味です。
ここ大分でようやくこの曲を演れる。この曲は、NHKさんから朝ドラの話がある前からメロディーは既にできていた曲で、歌詞はまだ付いていなかったんだけど、所々に『虹』という言葉は出てきていて。今回のツアータイトル何にしよう?って考えていた時に、田原から、『虹』でいいんじゃない?って話が出て。(場内フゥーッ:歓声、田原さん桜井さんの後ろに隠れる)今回田原の発言権が大きかったので、この曲の田原のギターは小さくなってます。(確かに物理的に小さい!てかMC上手くなったなー笑)聴いてください。『ヒカリノアトリエ』。」

すっと低い歌い出しと、鬼のBメロ(ミスチルの場合美メロと読みます)が小気味良いマーチングのリズムに乗って、小春さんのアコーディオンが心地よく響き、キラキラと優しい。時にノスタルジックで。でも一歩ずつ前を向いて歩き曲が確かに進んでいく。

地震の被害。我が家は有難いことにそんなに酷くなかったんだけど、勤務体系とか避難所とかそれによって変則勤務になったり通常業務が上手く進まなくて、0時越える残業が続いたりと本当にくたびれた。目に見える被害だけじゃなくて地震っていうのは見えないところでもこんなに影響を及ぼすんだなって身を持って経験した。そんな経験すらようやく救い上げてくれるような、そんな暖かさと強さを持った曲だと思った。

そして最後の「僕らの音」。「イントロも終わってない」「間違ってなんかない」「きっと正解もない」「これが僕らの音」。それは彼ら自身の音楽に対する姿勢であり、ファンとの繋がりでもあり、個人的には男女間の始まったばかりの歩みのようにも受け取れたり。

余韻はどこまで残るのかはわからない。音を聴けば昨夜の映像はまだ克明に浮かぶ。けれど彼らも常日頃歌っていることだけど、目と耳で受け取った情報以上に、頭や心や身体を使って感じた体験は記憶以上に、たとえば遺伝子に刻まれたりしてそうやって残っていって欲しいなって思う。

雑誌で幾らライブレポ読んでも、その場で体験しなければ9割も伝わった気はしない。百聞は一聴に如かず-。

大分iichikoグランシアタ、月曜、地元、一人、
ホール、Mr.Children。本当に希少なライブ。
この体験を分かち合える人がいないことが一番の贅沢な後悔なくらい、素晴らしかった。

たとえばこの拙い文章が、何らかの記憶を思い起こさせてくれるような、足掛かりにでもなれば、その意味に少しは役立てるのかなとは思う。これ以上の考察も特に深い意味もないのだけれど(ていうかそんな力はないのだけれど)個人的には、この素晴らしい気持ちを真空パックしとく意味と、きっと、どこかで目を通してくれる誰かと、その想いを共有したい意図があるのかも。

(2016.10.18記載文より一部加筆修正し転載)

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