10月2日の日記

物事を自分のできる限りの最後まで追っかけて行って考えるということを諦めることが習慣となってしまっている自分がいる。一人で考えていると自分が現実から浮遊していくような感覚になり、地に足をつけて生きていくことができなくなる。そうして思考しているうちに自分のキャパが足りなくなる。そのキャパをじわりじわりと負荷をかけながら大きくしていくというスリルみたいなものを引き受けて、自分の脳や心の筋肉の可動域やスタミナを高めていく。
でもやはり枝分かれを繰り返す自分の思考の中でどれかひとつを追って深めるということが難しい。迷子になってしまう。
別にそうして発散することが悪いわけでは無い。だが自分ひとりで行う思考はその存在がそもそもあるような無いようなものであるため、”発散”が、その思考の存在を残したまま広がっていくのではなく、同じひろがるでも”蒸発”のように小さいつぶとなって大気中に消えていってしまうような感覚になる。たくさん集まっているとたしかにその蒸気も存在しているということがなんとなく感覚として持てるが、散らばっているとその存在は無と帰す。

大学に行って講義を受けてみた。1年生と2年生ばかりがいる中で。
はじめ、それぞれ自分の研究を行う大学教授が目のまえでしゃべって話すこともできる授業って、それだけで十分面白がる余地があるものだったのかもしれない、もっと自分は大学の講義を受けてみればよかったのかもと思ったが、受けるうちに、自分の興味を定めていく中で広く多様なものに触れることが重要となる時期もあるが一方でこの大学で提供されている授業がそのような有益な発散を効率的に行うことが可能になるような装置であったとは思いにくい。そのような目的で様々なものに触れようとするにしても、この大学の外により面白く上質なものはやっぱり膨大にあり、単位をとる以上にこの大学で過ごす必要はやっぱり私にはないのかもしれない、と思った。

そんなことを書きたかったのではない。つまり私は議論や話の相手を求めていて、でも私が満足な議論の相手ではないという現状に対して、もっとちゃんと自分の思考に迫りながら書くということが必要であると感じたことから、その授業で取り上げられていたトピックについてとにかく自分の話したかったことを文章に書こうと思って書き始めたが時間がどんどんなくなってきているのでもういい。とはいえこういう時間の消耗に対する焦燥感への耐久性の無さが、深い思考を妨げているともいえる。

雑誌や本や映画など、受け取っているだけの立場でいられるメディアはやさしい。やさしいがそれを受け取っているだけで終わるのは自分がいつか楽しく居られなくなってしまいそうで違う。ただ、人と場を共有することはやはり容易ではない。自分を表現すること、自分の考えや存在をわかりやすく示すことが求められるため。

もちろん私はいろいろと心理的ハードルの低めな人間ではあるので、今日のその授業のあとやその最中も、話したいと思ったことを隣の知らない学生に話したりしていた。がやはりその子からの返答はなく、愛想笑いが続くのみであった。
自分自身が中途半端な人間すぎていやになる。満たされないか、満たせないか、その両方ばかり。あたりまえか。
どちらのストレスを取るのか。その選択の前提となる要素の大きな一つに、「若さ」はやはりあると思う。満たせないという状況に対して申し訳なさを感じている時間はとても苦しいが、お互いの感情が、満たされるか満たされないか、そのどちらかにそれぞれが位置しているというとき、満たせないという状況は若さを理由に許容されうるような気がする。
いや、この思考はやはり不毛だ。お互いに満たされる議論や関係だってきっとあるはず。
いずれにしても自分の思考力と言語化能力の不足によって自分のストレスが今増幅しているということは強く感じるので、とにかくもっと書こう。それは人がいなくてもできるトレーニングである。

今日も中国から来た大学院生は事ある事にため息をつきながら研究室の机に座ってひとり、作業をしている。
中国で過ごしているときと今日本で過ごしているとき、研究活動の在り方に大きな変化はあったのだろうか。時々先生に相談する以外はずっとパソコンに向き合う日々。やろうと思えば中国でもできたのではないか。
でもじゃあなぜこの人はここにいるのだろうか。
話したことがない。ともに過ごす時間が少ない。唯一春先に開催された歓送迎会にもこの院生は来なかった。
でもふと気づく。この大学院生の生活時間というのはここでの時間に限られるわけではない。自分の家があり、そこからの通学時間があり、そこでご飯を食べたりつくったりもしている。休日もある。その時間が十分にこの場つまり日本という環境に独特の過ごし方ができているようなのであれば、この人はこの場所で暮らし、研究をここで行う意義があるのかもしれない。
というかそもそも、暮らしたり自分の活動の場所を決めるのに他人に説明して納得してもらいやすいような意義がある必要は全くない。自分にとっての意義すらそうかもしれない。別にその場所を選択することの明確な意義や理由がなくたって、自分のしたいこと(これはその場所の特性に依存するようなもの事である必要はもちろんない)ができ、楽しく過ごすことができるならそこにいていい。もっと自由に自分の居所を考えることが「許される」という言葉ですら薄ら寒いような気持ちになるほどに、我々は本来何かに縛られるということの必然を持たないことが可能な存在なのだということに気付く。

とはいえ同時に、今 世の中にあらわれている事象、物事、各人の在り方や古間いには全てそこに至るまでの経緯があり、今のその在り方が発現していることには理由がある。その理由や経緯を逐一、できるかぎり万物について想像をめぐらすということが創造の土台をつくり、楽しく、かつエネルギーの効率がよい健やかな自分の人生形成につながるとも思う。
最近そのような感覚の敏感さ、目などのあらゆる感覚器官をかっぴいてできる限りの激しさで脳内を動かすということの積極的な意識付けを忘れてしまっていたようなところがある。そのような在り方はわずかには自らの性質という部分もあるとは思うが大部分が習慣であるとも思っており、だからこそ意識さえすればそちら側にいけるんだという希望的実感もこれまで持ってきたのだ。失ってしまっていたということに気付けた自分に拍手。まだまだ取り戻せるからしっかりやっていこう。

その後もため息を繰り返した大学院生は、そうこうしているうちに「おつかれさまです」という一言を残して部屋を出ていってしまった。でもその声色には案外疲れた様子はなく、軽やかで明るいものだった。ガゼルがしゃべるとしたらこんな声かもしれないという声。にしてもガゼルの声も大学院生の本性も、私にとってどれも「イメージに過ぎない」過ぎる。
私のその比喩がそもそもイメージに過ぎず、それが的確な表現であるかがわからないのに、その上ガゼルという言葉に対して各々が持つイメージすらもそれぞれに違ってい過ぎる。
人間同士が、コミュニケーションをどうにかとれていることがまずもって奇跡のようなことである。コミュニケーションは、意思疎通ができないからこそ行ったものである上で、それが可能にするその意思疎通も結局100%ではない。課題や難点に対して発明されたものこそ、その課題解決として持つ機能の限界を持っているというのはあるかもしれない。眠たい!

私は一次的なものに割く時間をもっと増やす必要がある。
人が何かの影響を受けてつくったものに触れることにも意味はある。その影響の受け方、受けた影響を経て考えたこと感じたことをどのように表現するのか、いろいろなことがわかる。
一方で、それはサンプルなのであり、同じ立場に立つ人の一例でしかない。
2次的なもの、つまり1次的なものから派生してつくられてきたものごとだけを楽しんでいてはいつまでたっても本物じゃない。
それでいい、という在り方もあるとは思うけれど。

一次的なものは概して自然であるというのが今の私の発想の限界でありながらもそれは同時にある程度までは真実であるとも感じる。

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