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5月8日 トイレの貼り紙と虫刺されと雨漏り【今日のもじょもじょ3】

今よりもっと感覚が過敏だった幼いとき、「もじょもじょする」という表現だけで不快感を退け、仔細な理由もわからず理不尽な否定ばかりをする子どもだと思われていた私。
23歳になった私が、日々生活をする中で自分が感じている「不快」を敏感にキャッチし、誠実に丁寧に言葉にすることで私自身を”癒す”ことができるのか、という実験の記録です。
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ここ最近は専ら外に向いていた私の意識。どちらかというとインプットに偏っていた私の意識を、今一度自分の内側へ。
しばらくの間の身近な旅を、ここで始めてみようと思います。

大学のトイレの中にある張り紙

「生まれかわりました
廃棄文書→トイレットペーパー
地球環境をまもろう!」

いつもいつもなんとなくの言葉ばかりを使うような、全くもって本質的じゃないこの大学の貼り紙がほんとに毎度不快。

前は、トイレットペーパーを持ち帰るな、ということを伝える貼り紙に、「みんなのおしりを守ろう!」と書いてあった。
ペーパーがなければおしりが守られないということか。それはベトナムやカンボジア、インドなど、ペーパーを使わずに水と手でトイレの始末をするような人たちのおしりは守られてないという考えを持っているということ?あれはあれで必要となる資源が減るかもなとか思ったりもした。肯定しているのか否定しているのかはおいておいて、やっぱりそもそもそうやってペーパーを使うことを”ふつう”であるかのように扱うのは、”国際文化学”(別の学科のキャンパスに行ったときに見た貼り紙なので、私がやっているのはこれではない)なるものを志す人びとが使うトイレに貼られ続けている貼り紙としてどうなんだろうか。他の学生はこれに疑問を持たないのか。それはかなり、絶望的なことなのではないか。それに、「みんなのおしりを守ろう」が、ペーパーを盗んでいく人に対抗する人々を連帯させるための文言として適切だと考えているということは、ペーパーを持っていく人の意図は、「みんなのおしりを侵す」ということだと本気で思っているのだろうか。ふざけているのかな。

こないだも、大学へのこのような批判を猛烈に頭の中でまくし立てていた。
そこまでの疑問や批判の目を持って見るようなものじゃない、と言われたらそうなんだろうけど。
なんか、しょーもな^^という気持ちになる。
でもこれはきっと、大学を攻撃したいだけという部分も大分大きくあるんだなあん。

虫刺され

網戸がないにも関わらず気持ちがいいからと窓を開けて寝ていたからか、それとも夜に屋上で本を読むことに最近はまっているからか、今私は現役でかゆい虫刺されの跡を3つ持っている。

かゆい。でも今回のこの虫刺されは、猛烈にかゆくて邪魔で不快、というような気持ちになるものではない気もしてくる。
ペットみたいな気分。ディズニープリンセスが野原でちょうちょやうさぎと戯れているときみたいな気分。

ちょっとした、ほんとに些細な違和感が私の腕や手に届く。
そこで私は、その、信号を発している正体のもとに触れに行く。はいはい、わかってるよお~みたいな気分で。
いわばこれはケアだ。虫刺されの跡というものに対する、私によるケア。
そこにあるのは別に煩わしさとかではない。ただ行動が、移動があるだけだった。人の身体を動かしてしまう、というのは必ずしも不快感があるからだといえるわけではないはず。

でもケアって、何かしら不快などの課題があるからこそ生じるものなのか?

ひどい雨漏り

今住んでいるところはゲストハウスの最上階、客室ではなくスタッフの居住スペースとして使っているところの1室が私のへやになっている。
軽めの労働の代わりに食事と住居を提供してもらえるフリーアコモデーションの分際で個室を提供してもらえるなんて本当にありがたすぎる待遇。そして食事も最高においしく、1階のバーのマスターも兼任のオーナー夫妻や常連さんもやさしく、スケジュールもかなり柔軟に対応してもらっていて、ほんとうに至れり尽くせりという感じの住まい方。

そんな中で唯一くらいに辛いのがこの雨漏り。
前までは廊下の1点だけだったのが、この3日間つづいた雨のせいか、私の部屋の中まで雨が漏ってくるようになった。はじめは、あれ、水こぼしたかな、というくらいのものだったのが、夕方になるころには10分に1回くらい、ジョボジョボジョボってまとまった水が落ちてくるようになっていた。

でもなんだか、その雨漏りがまさに今発生しているという状況にあった昨日は、それほど”不快感”を感じてはいなかったのかも。ここに書くこととして思い浮かばなかった。
もうじきやってくるはずの梅雨のことを思って、絶望はしていたし、なんだか余裕のないような心持ちにはなっていたが、不快さとはまた違った気もする。

一方で、朝起きたとき、なんとか晴れて昨日の湿気を置いてきたような顔をしている日光に照らされながら、雨水が溜まったバケツを見たときは、不快だ と思った。
バケツの中の水は、なぜか茶色。
ちょっと、アンモニア臭のようないやなにおいがする。

ぼとぼとと水が滴っている昨日の夜は渦中すぎて、インスタレーション感が強かった。そ
こから跳ね返るしずくを避けるということに必死で、不快さを感じる隙がなかった。
大変だなあ、という気持ちにはなれど、不快に対する工夫をしている間というのは、その状況にどれだけ嫌悪の気持ちを持っているのか、当人にはわからないものなのかもしれない。

この企画3日目にして、自分の心が少しささくれ立っていることに気付く。
やはり不快さに敏感になるというのは、文句の多い人になるような感じがする。
もっと身体的なものに寄っていきたい。それでもやっぱり私は、思考の中の不快感のほうが今や思いつくような頭でっかちな大人になってしまったのかもしれない。


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