はじまりのライダーとは誰か —映画「仮面ライダー 令和 ザ・ファースト・ジェネレーション」感想

こんばんは。ムビチケデビューしました。

今回は初めての試み!
12/21より公開の映画『仮面ライダー 令和 ザ・ファーストジェネレーション』の感想です。
映画レビューなんて大仰なものではないですが、高ぶる気持ちが「感想をしたためろ!!!」と叫んでいたので、こんな記事を書いてみました。
当然のごとくネタバレしっぱなしですので、あらかじめご容赦を。

冬映画としての新機軸

評判の高かったジオウの夏映画『Over Quartzer』がなんやかんや見れず、映画の面では悶々とした想いを抱えた2019年でした。
が、このままではいかんと、今作を勇んで観覧に行きました。

平成ライダーで伝統となってきたクロスオーバー映画ですが、20作という節目で平成シリーズが幕を引いた今、令和と平成の狭間に位置する今年の冬映画は、
平成を総括する前年とも、そして令和ライダーのなんたるかを定義していくであろう来年以降とも毛色を異にする、最初で最後の世代間コラボ。
今まではとにかくバトンを受け渡してきたリレーでしたが、今回はその試合自体が切り替わるポイントと言えます。乗り越える壁がひときわ大きいことは言うまでもありません。

まさしく、今作のストーリーがそれを象徴しています。
フィーニスにより、先代社長の秘書を務めたヒューマギア・ウィルアナザーゼロワンとなり、ヒューマギアが人類を絶滅危惧まで追い込んだ世界。
それを正すため、共に過去に飛んだジオウゼロワンが、父に出会い、飛電インテリジェンスの過去を知り、帰還した現代で自らの夢のために戦う。
物語の大筋はこんな具合。

ジオウの大きな特色であった「他のライダーの世界への介入」と「時間移動ギミック」を用いて、飛電のルーツに触れるいわゆる「ビギンズナイト」的な機能を有しつつ、或人は父を、ソウゴは自らが見てきたライダーの歴史を、それぞれが乗り越えて答えを導き出す構図となっています。
平成の後日譚としても、令和の幕開けとしても有機的に働くストーリーとなったことは今作の大きな功績じゃないだろうか。

少し話が逸れますが、今までのライダー映画は2通りの作り方をされてきました。
細かく設定を組み込んでテレビシリーズのストーリーと整合性を持たせるか(近年多い)、映画限定のパラレルストーリーだと割り切って全く新しい物語を描くか(平成1期に多い)のどちらか。
しかし、ジオウの「歴史改変と修正」というギミックなら、はじめから存在しえない歴史を描きつつ、しかし結果的には正史につなげているので、この点においてかなりシナリオが整然としている。合点もいきます。
特に今回は殺伐とした戦闘シーンや、人類の追いやられようなんかが『555 パラダイス・ロスト』を彷彿とさせるためか、
テレビ本編ではありえないほどのディストピア感に満ちていたものの、決して本編と決別したわけではない、よりその整合性が胸を打ったのかもしれないなと。

父を超える「試練」の映画

先に少し触れましたが、或人は過去に飛んだ先で父・飛電其雄と出会います。
未来の或人に出会えたことで、其雄は或人が自らの時代の創り方を導き出すため、「俺を超えない限り未来はない」と、自らが壁となって立ちはだかったようです。
「父を超える」という図式は、まさしく劇的に転がり続けた平成ライダーの歴史、その先に立つゼロワンの立場と重なるものがあります。
やや押し着せ感というか、露骨さも拭えなかったですが、父が変身するライダーが1型であることや、そのフォルム・カラーリングにも、そんなミーニングを禁じ得ないなと。

そんな或人が最後に導き出した答えは、父が本当に伝えたかったことそのものだったのでした。
それはかつて「クウガ」が、仮面ライダーシリーズが鳴りを潜めた空白の数年間を超え、完全新生をうたい、全く新しいアプローチでシリーズの息を吹き返した、あの鮮烈なデビューすらをも彷彿とさせます。
あまねく世のコンテンツに対し、なるべくビビッドであれ、ラウドであれ、エキサイティングであれと求められる現代では、クウガのような渋みに満ちたデビューこそ叶わないものの、ゼロワンはゼロワンなりの、ゼロワンらしい、現代の1号としては満点の決意表明を果たしたと僕は思います。

そして、「父を超える」のと同じ構図が、かたやジオウでも成り立っていました。
フィーニスとの戦いは、徹底的に「平成」フィーチャーを貫いてきたジオウに、「昭和」が絡んだ最初で最後の瞬間でした。正直平成ライダーの力を吸収して1号のウォッチになるっていう理屈にはなかなか納得できないですが、
「ライダーの力はもとは悪の力、それをライダーたちが歪めた」「自分こそが原点にして頂点のライダーの姿」
こんなアナザー1号、もといフィーニスの言い分が作用して具現化した結果だったのかもしれないですね。

「ライダーに原点も頂点もない」「力のあり方は自分次第だ」
ともすれば一部のライダーファンの心を逆撫でしかねない、やや危うさを孕んだセリフですが、色鮮やかな個性派19人、誰一人として同じでない凸凹で粒揃いな平成ライダーの歴史を、その目に焼き付け継承してきたジオウであればこそ説得力を伴う一言だと思います。
そしてその濃すぎる個性こそ、ライダーの力を自ら正義の力に塗り替え、運命と戦ってきた歴史そのものなのだから、納得できないはずがない。

今作にも平成ライダーはわずかに登場しますが、今作の彼らにはパーソナリティが存在しない、完全にグランドジオウの能力の一部です。
「平成」というコンテンツは完全に、今作においての平成代表であるジオウの一手にバトンタッチ済みであり、そのジオウとゼロワンの出会いはしかし、そのバトンを「受け継ぐ」ためのものではない。
互いが互いの時代に、その時代に生きる自分自身に、スタンスを、信念を導き出す。極論ですが、それが二人同時に、同じ事件下で起こった出来事というだけのことで、最終的に互いの時代やそのイズムには一切干渉しないのだと。今っぽいっちゃ今っぽいですよね。藤岡弘、さん自ら演じた本郷猛が、かつて鎧武やゴーストにそのイズムを説き、固い握手を交わしたのとは全くその交わり方を異にします。

如何せん、「平成」「令和」といった、それぞれの括りになるような単語を、この映画の中では誰一人口にしていないのです。
人類最後の発明とすら言われるAI、その浸透はまさに元号のような枠組みに限ったことではなく、純然たる新時代の到来。ある種、露骨に元号をコンテンツ化し、その枠組みを見える化してきたシリーズの「時代観のアップグレード」すら行われているのかもしれないと思いました。
いびつな個性の集合体だった平成ライダー。新時代、令和ライダーの集合図がどんな並びになるのか、楽しみでなりません。

また今回は、或人の「夢」というキーワードを深く掘り下げた作品でもありました。
「AIは人の夢だ」「ヒューマギアと一緒に笑える世界が夢だ」
これにとどまらず、予告編にもあるように色々な立場から「夢」の描写が描かれていました。奇しくも、その夢こそがこの映画での事件の一つの引き金を引いているのですが。
技術の革新も、悪との戦いも、時代の創造も、その根源に人の見る「夢」の力がある。「夢に向かって飛べ」。まさにライジングホッパー<JUMP>とも重なるところに、制作の妙技を感じます。

魅力的なキャラ、そして作り方

今作はアクション、キャラクター、造形に至っても、かなり見ごたえのある一本でした。
 A.I.M.Sの戦闘がとにかく圧巻で。キャスト各位が、武器を扱うシーンに相当こだわりがあったと話していたのですが、バギーチェイスに始まり、武器のメンテナンス、変身前の銃撃戦まで、ミリタリー臭プンプンのかなり油臭い(全力で褒めている)演出が光っていました。  

少し脱線ですが、そんな今作の世界観、人間が絶滅寸前まで追い込まれているというのは、当然AIの話題になれば必ず懸念されるテーマでもあるでしょうが、プログライズキーのモチーフが現存生物であり、対をなすのがゼツメライズキーであることにもかけ、皮肉を効かせているようにも見えました。
この映画では他ならぬ人間が<TYPE:ZETSUMETSU>だったのです。

不破と刃は極力生身で戦い、劣勢になってようやくエイムズショットライザーを手に取るわけですが、変身が死ぬほどかっこよかった。テレビ本編でもクールだったんですが、その見せ方が、モーション、姿勢、カメラアングル、光量に至るまで、全てがベストマッチした巧妙なかっこよさでした。
エイムズショットライザーの展開方法の違いもうまく取り入れていて、二度ある変身シーンのどちらも洗練されていて甲乙付け難い。

また、或人と其雄のストーリーであれほど「人間とヒューマギアが一緒に笑える世界」の夢を見せた傍ら、アナザーゼロワン撃墜の際「ヒューマギアは所詮人間の道具に過ぎない」と唯阿。
この断固としてブレないスタンスにもハッとさせられました。AIに対する多様な人間の見方とその拮抗は、「ゼロワン」において決して失われないテーマだと再確認しました。

AIといえば、今回の映画は当然歪んだ歴史の話ではあるんですが、改変を受けた「デイブレイク」の出来事自体は真実なので、テレビシリーズのナゾを説く大きな助けにもなりえます。
本来AI管理用衛星として打ち上げを計画されていたのが「アーク」。しかしアークは人類滅亡こそ人工知能にとって理想的な未来と結論づけ、初期ヒューマギアを一斉ハッキングして「デイブレイク」が勃発。
壊滅都市「デイブレイクタウン」で滅亡迅雷.netに指示を送りながら復活の時を待つのが、テレビ本編での現在のアーク(歴史改変の影響で衛星の事情も変わり、ライジングホッパーのバッタくんが地面からひょっこり出てきたのが、可愛かったしそれでいて巧みな伏線でした) 。

ただ、ゼアとの関係はまだなんとも言えない。TVでのアサルトグリップの共用なんかを見ると、ただの敵対関係ではないようにも見えます。
そもそも、ゼアは何を判断してプログライズキーを生成しているのか?
或人は「ゼアの意思のままに」戦っているのではないか…?
これは衛星(AI)同士の代理戦争に駆り出された人間の話なのでは……?

ただし、もうひとつわかったこととして、其雄が人とヒューマギアの共存に必要な武力として準備していたのが「仮面ライダーシステム」だったということ。
てっきり先代社長が開発したと思っていましたが(プロジェクト自体は共有していたのか)その開発を担っていたのが其雄とウィルだったと。
或人の持っていた滅亡迅雷フォースライザーにハッとした其雄。飛電ゼロワンドライバーと同じく飛電製らしいですね。なんならサイクロンライザーの存在からして最初期型がフォースライザーだったのかなと。

ゼアとの関係も含め、その全貌のうちどこまでを本編で紐解いてくれるのか、その余裕があるのか、そんな問題のような気がします。

余談ですが、西岡徳馬演じる先代社長が社長の鑑すぎた。
「社員こそ会社だ」「我々の夢を頼んだ」
などの語録はもちろん、社長室から指示を出すだけではなく自らヒューマギアの異変を調査するフットワークとテクニックの持ち主。
副添と山下の身代わりとなって散るシーンは、どういうわけか今作一番の涙腺ポイントとすら思えました。

そしてここまでまったく言及しなかったけど、001馬鹿ほどかっこよかったです。
超デッドヒートドライブあたりを彷彿とさせる急場凌ぎ感、付け焼き刃感…と思ったら本来のゼロワンの2、3倍出番あるみたいな。
飛電ゼロワンドライバーならいざ知らず、おそらくヒューマギア、ないし滅亡迅雷に最適化されたフォースライザーでは人間の手に余るのか。

コレが令和の夜明け

うーん。
そんなもんだろうか。言い残したことはないだろうか。

とにかく、割とここ1、2年にわたってひしひしと感じることなんですけど、「20年ライダーファンやってきてよかった…」と、心底報われる体験が多くて。
こういうクロスオーバーとか全員集合ものとか、「コンテンツの過積載」「レアリティのインフレ」ともなりかねない手法こそが平成ライダーの武器でもあったということも承知の上で、それでも近年の「ソレ系」は話が鉄壁というか、かなり綿密に練りこまれているし、整合性を持った、ただのお祭り企画に終わらないものが多い。
よって、「ゼロワンで仮面ライダーデビューした子供」のようなリアル世代はもちろんのこと、この数十年の歴史に連れ添った青年世代への安心や納得も与えてくれる。

クロスオーバーやリバイバルなんて「キバ」まではあり得ないことだった、知らない楽しみ方でした。「クウガ」や「アギト」は、あの日々限りの存在で、何年越しに変身なんて、ソレ自体思いつかないほどのことだった。
そんな、独立しながら連続し続けたいびつな歴史を「ディケイド」が”破壊”した。
これはかねてからの持論なんですが、ディケイドの「世界の破壊と再生」は「視聴者の中のライダーの再定義とコンテンツとしての復活」だったのだと思っていて、そういうメタフィクションを実行する挑戦の作品だったのだと。
いわゆる冬映画の歴史も彼の存在ありきで始まったものだし、ディケイドの世界設定を丸ごと輸入して作られた(ということがおいおいわかった、おまけに本人も絡んできた)のが他ならぬ「ジオウ」だったのだと。

おそらく制作側もじりじり探りながら築き上げてきたエンターテインメントなんだと思います。なのでその全てが「たまたま」今作まで繋がったのであり、「これを想定して作った」というライダーなんてきっと存在しない。
平成ライダーという数奇な歴史が令和ライダーの誕生まで繋がったのは事実ですが、その善くもあり、悪しくもある一本の線をブッツリと断ち切る、
今作はまさに「夜明け」の作品だったのです。

そして、この映画のキーワードであった「はじまりのライダー」。
それは、新時代の1号たるゼロワンであり、かつ、平成という時代を「王」として総括し未来を託したジオウのことを、両方差したフレーズでもあったのかもしれない。

馬鹿みたいに長くなってしまった。最後まで読んでくれてありがとうございました!
ではまた!  

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