『#磨け感情解像度』に応募して
こんばんは、りおてです。
画像は、私の敬愛するレオ様の影響を受けた、イタリア人画家ベルナルディーノ・ルイーニの《斬首された洗礼者聖ジョヴァンニの首》です。ウフィツィで撮影しました。本記事とは一切関係ありません。
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「リストカットは感染る」
実際にリストカットをしたことがある人、あるいは興味を持って調べたことがある人なら、どこかで目にしたことがあるかもしれない。
「リストカットは感染る」。その意味は、リストカットの画像や実際の傷痕を目にすると、目にした人もリストカットをしてみたくなる、というものだ。私の経験則では事実だが、あなたの世界ではどうだろう。自分で自分の腕に刃を入れる。そんな、一見本能にすら反する行為を人にさせるというのは、「死」というものの誘惑は、余程甘美と見える。(勿論リストカットが即「死」と結びつくわけではないことは、私自身こそがよく知っているが、その行為の遠縁の親戚くらいの位置には収まっていると考えるのが妥当だろう)
さて、私は今回『#磨け感情解像度』という私設賞に応募させていただいた。その中で、「死」について、可能な限り誠実に取り上げたつもりだ。
前述の通り、「死」の訴求力は侮れない。
「死」は生きている限り非現実だが、その実、常にあなたの背中にひたりと迫っている。ありきたりな言い方をすれば、生きているということは、常に死という未来と隣り合わせなのである。だからこそ、好むと好まざるとに拘らず、人はどうしようもなく「死」を意識せざるを得ない。
私は、応募した記事の中で、あえて「死」についての語りの前後に「ロストイントランスレーション」の話を挿入した。それは読者が、ロジカルな現実からスムーズに「死」の非現実へと旅立ち、そして再び生の感覚を取り戻せるように、というひとつの仕組みだ。
白状すれば、私は「死」についての語り以外の部分は、この企画においては蛇足かと思っている。だが、これは生きている人間に向けて書かれた文章だ。だから、「死」を覗き込む時も、生の世界から接続しないといけない。そこに忖度を感じる自分もいるけれど、そのくらいのセーフティはあった方がいいだろう。
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「リストカットは感染る」。
それは「死」にも同じことが言える。
「死」は感染する。
それは、今回の記事で書いたような、感覚から言葉へと置き換わるものの対。
それは、言葉から感覚へと感染するのだ。
面白い。実に面白い。
私はこれからも私の「死」を弄び、喜ばせ、抱き寄せて、愛するだろう。
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新天地へと泳ぐすがらに、あなたの漕ぐ舟とすれ違えますように。