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水平線の向こうの新天地【#磨け感情解像度】

こんにちは、りおてです。

画像は、イタリアはソレントからみたヴェスヴィオ山です。波止場から撮影しました。本記事とは一切関係ありません。

本記事は、私設賞『#磨け感情解像度』に寄せる文章です。素晴らしい企画をありがとうございます。

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“lost in translation(ロスト イン トランスレーション)”という言葉がある。

トランスレーション、即ち翻訳の過程で、その言葉が持つ本来の意味が失われることを指す。異文化を自文化にまるごと正しく移し替えることは不可能で、その過程で必ず何かが失われてしまうことは、言葉を扱う人間であれば誰でも想像に難くないだろう。これは、感情から言葉への過程でも同じことが起こるものだと、私は考える。雨が傘を打つ音や夏のプールのぬるさを、言葉の一文字一文字で正確に表すことは、究極的には不可能だ。そうした非言語的な感覚や感情を言葉によって表現することの暴力性に、文字書きこそは自覚的であるべきだろう。

しかし、だからといって、文字書きが絶望すべきかと言われればそうではない。言葉の力の本質は、“正しく”描写することではなく、“描写すること”それ自体にあるのだから。言葉は、目の前に無い景色を人に想像させ、実際には湧き出得ない感情を人に抱かせ、時には失くした感覚すら錯覚させる。言葉は、発した人間の世界を背負い、それを受け取った人間の世界へと運ぶ。それこそが、言葉の素晴らしい力であると、私は思う。

隣人の見る月の美しさが、己の見る月の美しさと同じか判らない。そのクオリアを可能な限り伝達する手段として、昔の人は言葉を生み出した。だから私も、私の感じている私だけの気持ちを、これを読むあなたに届けるために、言葉を尽くそうと思う。どうか時間が許せば、最後まで読んでほしい。

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私が生まれてこのかた、最も長く、そして親しく付き合い続けてきた友は、「死」だ。

「死にたい」という気持ちを初めて抱いたのがいつだったかはもう覚えていないけれど、記憶にある限り最も古い記憶ではもう、私は「死にたい」と思っていた。

あなたは、死をどんなものだと捉えるだろうか。

闇く、凄惨で、寂しいもの?儚く、純粋で、静かなもの?片付け忘れた風鈴を鳴らす秋風のようなものだろうか?それとも、ピクニック中に遠くから聞こえる雷鳴のようなものだろうか?

死よりも恐ろしいものは、本当にないのだろうか。

愛する人を失うことは?信じた人に裏切られることは?書いた文字が誰にも届かないことは?あるいは、読み覚えた言葉の全てを忘れてしまうことは?

生きるということは、恐ろしくはないのだろうか?

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死は、神に似ている。

死は、常に傍にある。死は、すべてのものに対して公明正大である。死は非情にして冷厳たる存在であり、同時に慈悲深く、その愛は、すべてのものに常に平等に注がれている。

死は、神に似ている。

私にとって死は救いであり、「死にたい」という願いは希望への想像である。私は冬の月を見て「死にたい」と祈り、春の花を見て「死にたい」と祈り、放課後のグラウンドを見て「死にたい」と祈り、車道に溜まる雨を見て「死にたい」と祈る。そこにあるのは救いへの渇望であり、救われた先の未来への余りある期待である。

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「死にたい」という気持ちを何かに例えるとすれば、それはまるで、脱ぐことのできない濡れた服のようだ。身体にぴたりと張り付いて、陸で生きるには気持ちが悪く、いつでも私を海へと誘う。だが、一度海に入ってしまえば、服を着ていることなんて案外気にならないものだ。波のうねりを含んで広がる感触も、心地よく感じられる。陸での暮らしなどどうでもよくなって、いっそ思い切り泳いでしまえば素敵だなんて考える。だから、死へと向かう行為は、沖へ向かって泳ぎ出すことと似ている。「死にたさ」は私に、水平線の向こうに待つであろう、死という新天地を空想させる。そこには何があるのだろうか。あるいは何もないのだろうか。今よりずっと、良いところだといいなぁ。なんて。

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「死にたさ」が濡れた服だとして、私はそれを脱ぐことはできなくて、つまりは「死にたさ」は、常に私と共にあるということなのだけれど。しかしそれでも、それを殊更に感じる瞬間というものがある。言わずもがな、「死」を行動へと落とし込もうとする時である。

初めに、脳が膨張する感覚を覚える。頭蓋を押し広げるような、じんと痺れる感覚。その痺れは眼窩に伝わり、眼球をも膨張させ、こめかみがぴくりと震える。瞳が潤んで、下瞼の縁にじわりと水溜りができ、それはまばたきとともに大きな粒となって溢れる。顎の下で落つる時を待つ雫の冷たさを感じると同時に、喉の下から、熱い塊が押し上げてくる。気道がぎうと縮まり、そしてぐうと広がる。思わず固唾を飲むもうとするも、塊は舌の根から動かない。次に、ひたり、と、指先から冷たいものが這い上がってくるのを感じる。四肢は緩やかに感覚を失い、身体の中心ばかりが熱を持つ。冷えた腕を縮こまらせて、喉笛を掻き毟る。折り畳んだ腕に肺が押されて、舌の根にこびりついていた熱い塊が、かは、という溜息と共に吐き出される。顎の下の雫が、襟元を濡らす。まばたきを2、3度。吐いた空気は取り戻せず、脳が冷えて、ひとつところに向かって研ぎ澄まされるのを感じる。濡れた瞼を開き、部屋を見る。10畳かそこらの部屋が、まるで無際限な荒廃のように思える。その中で、私の喘ぎだけが間近に聴こえる。そのほか上下四方のすべてが遠く、知覚の末梢で存在するともなく存在する、淡い夢のように感ぜられる。そして最後に、込み上げる笑いに耐えきれず、肩が震える。濡れた絹布のような誘惑が、身体中をぴたりと覆っているのを感じる。肩を震わす愉悦は喉を緩ませ、えずくようにして息が漏れる。ああ、救いの手はすぐそこだ。新天地までもうすぐだ。届け、届け、届かせてくれ。

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そうして空想は終わり、夢は醒める。


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冒頭の話へ戻ろう。ロストイントランスレーションの話だ。

私は、目の前の苦痛から逃げたい時、その気持ちを「死にたい」と名付ける。

私は、沢山の悲しみに取り囲まれた時、その気持ちを「死にたい」と名付ける。

私は、私を愛してくれる人たちの幸せを願う時、その気持ちを「死にたい」と名付ける。

私は、月の美しさを思う時、その気持ちを「死にたい」と名付ける。

でも、それらには本当は別の名前があるのかもしれない。感情の世界で、私には知覚できない名前がつけられているのかもしれない。私はそこからそれらを掬い上げ、ひとつひとつ丁寧に並べては、とんちんかんな名前をつけているに過ぎないのかもしれない。逃避、絶望、罪悪感、焦燥、失意、嘆き、夢、光、救い、夜、綿、泥ーー。

私たちは、得体の知れないものに名前をつけて、安心したがる生き物だ。だから、感情にもすぐに名前をつけたがる。でも、一度名前をつけてしまえば、それについて深く考えることは、もう殆ど無いものだ。だから私が、死へと向かう凡ゆる感情に「死にたい」と名付ける時、私は多分、思考を停止している。でも、本当は考えるべきなのかもしれない。私が「死にたさ」と呼ぶ感情の本質を。名付け(トランスレーション)の過程で失われた、その本当の姿を。

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最後に。

私は普段、特定のものを表す時に、それそのものを指す言葉を使わないことが多い。それは、感情から言葉へのロストイントランスレーションを恐れているからだし、と同時に、その外に様々なものを含ませることのできる“言葉”の力を信じているからでもある。

けれど今回は素敵な企画にあやかって、あえて直接「死」という言葉を使って、色々な角度で私の「死にたさ」を表現してみた。普段の私だったらあまり書かないような文章になったかもしれない。とても面白い執筆体験だった。

私の描く「死にたい」という気持ちに少しでも興味を持ってくれた方は、ぜひこちらの小説も読んで頂きたい。

この作品には、死へと至る寒々しい高揚感を、でき得る限り死という言葉を使わずに含ませたつもりだ。高鳴る鼓動、逸る気持ち、そして訪れる静穏と安寧。紙背に表される死への“感情”を、どうかあなたが受けとってくれることを祈って。


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りおて
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