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興味を持つことと、持たないこと

私は、興味があることにはとても興味を示すが、興味がないことには、見る素振りもみせずにすぐ突っぱねてしまう。


例えば、夕食の際に家族でテレビを見ているとき。バラエティ等を見たがる私に対し、父は、ヤクザだかマフィアだか知らないが、そういうった映画を好む。さらに、19歳のわたしには興味がなそうな(本来であれば興味を持たねばならない)報道番組をいつも見る。毎夜毎夜見たい番組の部類は正反対で、毎回喧嘩(この場合、わたしの反抗になるのかもしれないが)になる。そしてわたしはこう言う。「だってそんなの見ても面白くもないしつまんないもん!」一般的な家庭において娘と父親のテレビの好みが合うことはなかなかないだろう。合う方が珍しいぐらいだ。


大学の授業で空きコマがあり、時間を持て余していたわたしは、食堂で、村上龍のエッセイを読んでいた。(わたしは本を読む方なので、他の作品も読むのだが、)作家はなぜ、各方面において知識が太平洋並に広いのだろうと思った。生きてきた年数もあるのかもしれないが、ほぼ無関係だろう。一体、どこからそのようら莫大な量の知識を取り入れるのだろう。


曇り空で、霞んだ外を眺めながらふと、思った。この世界に溢れている物事、事象を、ありとあらゆるものを、見て、聞いて、そして自分からも発信していく。これこそが知識量を増やす核なのではないかと。
以前のわたしは、自分の興味のあるものだけの世界で生きていて問題はないと思っていた。
それではだめなのだ。知識量を求める者にとって1番といっていいほど、まずい行動、思考をしていたのだ。よく考えてみると、恐ろしい。
そのまま突き進んでいたらわたしはきっと、狭い世界で、その中では知識を持っている方だという慢心を抱くだけの阿呆になっていただろう。そうならないために、わたしがしなければならない行動は、例え面白くない、今は為にならない情報でも、ひとまず自分の中に取り込むこと。考えるという料理をするにも情報という材料がなくては料理はできない。


さて、こうは考えてみてもやっぱり反抗してしまうものは仕方がない。父は65歳。父より若くして、同じ情報を仕入れることができていると考える。そうして、優越感に浸ることでつまらなさを埋めるとしよう。こうでもしなければわたしの幼心はどうにもならないのだ。

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