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Friday log #16 professionalism (3/23)


久々の更新です。ロンドンは、桜が咲き始めてきました。この前、アラビア語の先生が「冬を乗り越えたね」って言っていました。確かに、乗り越えるという表現がぴったりです。みなさんも、お変わりありませんか?

思っていること、考えていることが本当にたくさんあって多分すごく長くなると思います。どこから話そうか!!!

インターンやバイトの面接に合計で5回ぐらい落ちました。書類の時点で3回落ち、課題選考で2回落ちました。会社から求められていないということを暗に伝えられるのもしんどいし、課題頑張ってやったつもりなのに落ちたのも凹むし、でもこれ単純に私の努力不足だよなあというのも痛感してすごくしんどかったです。そして、多分書類の時点で落ちたのは、私が履歴書を適当に書いたのもあったなあと思いしんどく思いました。特に私自身高校生の時に、「高校生だから」という文脈で面白がってもらったり(ちやほやされたり)とんとん拍子である程度荒削りでもどうにかなっていたけど、それを大学生になった今でも続けてしまったことに気づいてすごくすごく反省しました、甘かったし傲慢だったなあ。「スーパー高校生」みたいな感じの全能感って課外活動をしているとある程度生まれてしまうような気がしないでもないんだけど、この全能感のまんま大学に来てしまったので「何者でもない自分」と傲慢か否かかという議論は抜きにしても向き合わなきゃいけないのだと思います。確かに、私自身は何者でもないし、お金や価値を生み出すこともできていないし、もっと謙虚に素直に生きたいと思います。でも、「何者にもなれない」と今の時点で決めつけて諦めることは私のプライドと今まで健全に育んできた自己肯定感のおかげでしません、謙虚に学び直そう、新しく始めようと思いました。

就活がまあなんだかんだ近いというか、色々あって職業であったり自分が何をしたいかを深く考える2学期でした。なんとなく適当な職種をみてふーんこんな対策なのかあと無意識に自分を擦り合わせようとしてしまっていたのですが、よくよくよく考えてみれば私はめちゃくちゃ本当に倒れるほど言葉とデザインと広告が好きなことを思い出しました。思い出したというより、直視できなくて目を逸らし続けていたことを思い出しました。なんで目を逸らしていたかというと、努力しない自分を直視するのも、そうやって周りから判断されるのも怖いからです。広告や言葉に限らず、どんな職業だろうとなんだろうと、プロフェッショナリズムを持つ(=こだわりを持つ)ということは、ある程度自分の美意識のしもべになるということでもあり、それには莫大な労力と時間と勇気と傷つくリスクを取る行為だなあと思っています。そして、このこだわりを持つことはしなくても生きていけるからこそ、私は楽な方に楽な方に流されていたのだなあと思いました。だから、好きでやりたいのに、傷つくかもしれないからとかセンスがないからと自己正当化してやらない、よって「やりたい!」とか「こんなことができます!」と自信を持って言えずに、自分を擦り寄せていたのだなあとすごくすごくすごく反省しました。
でも、やっぱり私はどう考えても言葉・デザインの分野が好きだし、プロフェッショナリズムを持っている人をかっこいいと思うので、今日から傷つこうともなんだろうとも、Confort Zoneから一歩踏み出そうと思います。でも、1人じゃ全然わからないことだらけなので、よければ助けていただきたいです….。

まあいろいろもにょもにょと考えたり悩んだりしていますが、内省と言語化を通して、それらの悩みとか諸々が自分の血肉になっていく感覚はすごく豊かです。どうせ常に挫折から始まる人生だし、時間は確実にかかるけれども諦めずにやり続けたらどこか新しいところに辿り着けることを経験則的に知っているという健全な自己肯定感を育んできた自信があるので、なんでもやってみようと思います。始めるに遅いことはないしね。




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