仕事が仕事をしている仕事
澤さんがPRを担当していたRingneで、南方熊楠の話が出てきました。
読みたいとは思っていたのですが、恥ずかしながら未履修だったため、いい機会だと思って本を5冊購入。
最近は作庭についての本も読んでいたのですが、自然の世界から学べることって、たくさんある。
オフィスの蔦のケアとか、興味が出始めています。
そういうことを考えていたら、TOMOOの歌詞が、グサグサと刺さってくる。
「真四角になれる素質なんて 誰も持っていないのに」
ということで、人生初のファンクラブ入会しました。ずっと聴いています。
さて、題名がトートロジーのようになっていますが。
「仕事が仕事をしている仕事」・・・?
ご存知の方もいるかもしれません。
これは河井寛次郎という陶芸家が、会津地方を訪ねた際に発した言葉だそうです。
僕はこういう、分かりそうで分からない多義的な言葉に、強く惹かれてしまいます。
前提、考えすぎとかじゃなくて、おそらく捻くれてるだけなのですが。
そういう謎の美学を持っています。
河井寛次郎の他の言葉も引用すると「暮らしが仕事、仕事が暮らし」というものがあります。
職住分離がまだ進んでいない時代や地域において、生活と仕事はなめらかにつながっていました。
そういう環境だからこそ、近年のブームである民具や民藝が作られたのですが・・・おっと、興味のある話に逸れてしまいました。話を戻します。
仕事=暮らしであれば、「仕事が仕事をしている仕事」というのは、「暮らしが暮らしをしている暮らし」とも受け取れます。
民藝的な手仕事に、生産性や時給の思考は介在しません。
ピダハンのような「今を生きる」ことに集中できる。
どうやら彼は「暮らしに根差した仕事」の重要性を伝えたかったらしいです。
生きるために必要な分だけ。はたらく。くらす。
今の「好き」を大事にして生きたいのですが。
どうやら、ある種のイデオロギーを拡散しようとする欲望が、人によって状況次第では存在するようです。
というか、自分も気持ちは分かる。澤さんのいう「抑圧-非抑圧者」の関係と似ている気がします。
僕はここ1年ほど、所属サークルの体制立て直しに向けて、新しい幹部との対話に多くの時間を費やしました。僕が途中入部してすぐに、1つ下の代が仲間割れし、ほぼ来なくなるという事態になってしまい、完全に組織崩壊を経験しました。
まさに澤さんの指摘する問題(カール・シュミットの「友敵図式」)と向き合う時期でした。
いろんなことを話して考えて、出てきた結論は結構シンプルで
「みんなが好きなことをやって、足りない部分は補い合える環境が安心よね。だからこそ不満があれば陰口ではなく直接言おうね。あと人格否定までの飛躍は悲しいから、できれば避けたいね。落ち込んでいる人がいたら、余裕のある人が話を聞いてあげられるといいね。」そういう形かなと。
もう少し端的に言えば「共同体から生態系になれるといいね」みたいな。
当たり前のこと・・・と思うけど、当たり前って当たり前じゃない。
それではまたイデオロギーの押し付けになってしまう。
後輩たちが本当に頑張ってくれて、制度的な面は整備されたのですが。
あとはこういう最低限のルールだけ決めて、後輩たちには今の「好き」「得意」を、楽しんでほしいなと思います。
何が言いたかったのかよく分かりませんが、1時間がたちました。また来週。
今週の質問:「今では笑い話ですけどね」な自分にまつわる小話
恥の多い人生を送っているので無限に出てくるのですが・・・
前の大学を退学した理由の話でもしようと思います。
退学理由はいくつかあるのですが、それらにとどめを刺したのは
「ラーメンを食べすぎて退学」です。
え?となりますよね。本当です。
もともと「天下一品」が大好きでよく食べていたのですが、
ある時、場づくりが素敵な二郎系(正確には)のラーメン屋さんに出会いました。
お金を稼ぐというよりは、その哲学を学ぶために働かせてもらっていました。
賄いが本当に美味しくてハマってしまい、気づけば「毎日ラーメン健康生活」になっていまして。
ある日、腕に蕁麻疹を発見。
小麦アレルギーと診断されました。全然健康じゃなかった。
要は「ラーメンを食べすぎて小麦アレルギーになり、ひとり暮らしが出来なくなって退学」ということです。
実家での半年間グルテンフリー生活というリハビリを経て、今は完治。
野菜は食べたいから食べるんですよね・・・。