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セドナで見つけた人生設定
行きつけの歯医者さんでセドナについての本と出会った。
その何週間か前にヨガの先生をしている友達が一人でセドナに行き、息を呑むような景色の写真をFacebookにあげていたのを思い出した。
そして誰かが、セドナって行こうと思ってもなかなか行けないところだよね。何かが足止めしたりして、だから、行ける時に行ってしまうのが一番ってことも思い出した。
大の苦手な歯の治療中も、頭の中でセドナの空が広がってみょうに呼ばれているような気がしたのをはっきりと覚えている。
実は2ヶ月後には主人の実家のトロントに行く計画をしていた。それを機に帰りは私一人でセドナに行こうと決めた。元々主人は私よりの長くトロントに滞在するつもりだったので、私は早々に切り上げ、とんとん拍子でのセドナ旅行が始まったのは7月。
季節は思ったより気温が高く、ひたすら歩くのが好きな私も車をレンタカーすることに。セドナは一言で表すと月並みだが「パワースポット・癒しの街」。赤土やサボテンの広がる荒地に、数々の名前のついた岩山が点在し、その間に住居がある。
観光地のホテル以外に高い建物はなく、夜になると星の輝きを称賛するかのように街全体の電灯は普通の灯りよりもぐんと暗い。車もそれほど多くなく音も感じることがない。
パワースポットの岩山へはそれぞれいくつかのトレッキングコースがあり、まずはその中の1つベルロックへ向かった。人を呼ぶためのベル(鈴)に形が似たことから来たようだ。
近くの駐車場へ車を止め、ランニングシューズ、1リットルの水、タオルに帽子、完全装備でトレッキングコースへ。こんなに世界中に有名なのに、コースですれ違ったのは2〜3組くらいしかいなかった。
座る椅子ほどの岩が目印となり進んでいくのだが、目の前にベルロックが鎮座しているので少しくらいの寄り道をしても進路変更は簡単。岩場のバッタらしき虫は体が迷彩色ならぬ、岩石色で、郷にいれば郷に従えだ。
たらたら歩いて40分ほどで到着、ベルロックの岩場の登れるところまで上がり、しばし瞑想。眺めは360度広がる空と岩山。先住民のネイティブアメリカン達も同じ景色を眺めたのだと思うと、これまた感無量。
しっかりとパワーをもらい、帰路へ。帰りは目標となる聳え立つ岩山がないので、目印の岩を頼りに歩き出す、が、来るときにあまりにたらたらと景色(と言ってもどこまでも同じだが)ばかりに気を取られ、道を見ていなかったからか、なぜか迷う。なぜ迷う?何度も引き返し、目印の岩を確認、砂漠のような地面に残る人の足跡も追ってみる。やはり迷っている。
太陽は空の頂点で、焦りも出てひどく暑い、喉が乾く。
すれ違う人も、遠くに見える人影もない。
googleで調べても道はもちろん出てこない。
ベルロックから自分の場所の距離を見るからに、どこの出口に向かっているにしろ。もうすでに半分は来てしまっていることから、もうこのまま突き進むしかなかった。
焦った。
ペットボトルの水はどんどん減っていく。ゴールの駐車場へのサインもない。ただただ早足でどこかに出ることを祈りながら歩いた。
その時考えたこと。
これって人生?
可視化できるゴールを設定して進むことの楽しさ、簡単さ。ゴールした時の気分もやりたい事もイメージができているので、そこまでの工程の寄り道さえも楽しむことができた。
でも駐車場へ戻るということはゴールであることには違わないが、ただ単に「帰る」だけの目的で、方向さえわからないままでの工程はかなり苦しいものとなってしまった。
ゴール設定のない人生は、行き当たりばったり。それはそれで選択肢の1つだろうけれど、ゴールを決めることの楽しさは、そこへ行き着くまでも、到着した後も心が踊る。
セドナでのトレッキングで考えさせられた課題となった。
結局ペットボトルが空になった頃、駐車場のサインを発見。日焼けして疲れ切った私を親切なアメリカ人ファミリーが、元の駐車場まで送ってくれてことなきを得た。
まあ、道が見えなくても突き進むことが大事で、なんとかなる!と言う事も私の人生ではいつも教訓であることも思い出したセドナの旅だった。
また絶対行きたい!
今度は迷う事も楽しみたい。