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【感想】「猿の戴冠式」(著:小砂川チト)
概要
第170回芥川龍之介賞候補作。
いい子のかんむりは/ヒトにもらうものでなく/自分で/自分に/さずけるもの。
ある事件以降、引きこもっていたしふみはテレビ画面のなかに「おねえちゃん」を見つけ動植物園へ行くことになる。言葉を機械学習させられた過去のある類人猿ボノボ”シネノ”と邂逅し、魂をシンクロさせ交歓していく。
――”わたしたちには、わたしたちだけに通じる最強のおまじないがある”。
”女がいますぐ剥ぎ取りたいと思っているものといえば、それは〈人間の女の皮〉にちがいなかった。女は人間の〈ふり〉をして、ガラスの向こう側にたっている”
”女とシネノは同じだった。シネノのほうはそのふるまいこそ完璧ではあったけれど、それでも猿の〈ふり〉をして、あるいは猿の〈姿をとって〉、こちら側にいる”
ねえ、なにもかもがいやなかんじなんでしょう。ちがう?
表紙の不穏な感じと、あらすじの「言葉を機械学習させられた過去のある類人猿ボノボ」というワードが気になり購入。第170回芥川賞候補作(「東京都同情塔」が受賞)。小砂川チトさん作品初読ですが、この前作の「家庭用安心坑夫」も気になってます(きっと近いうちに購入します。)。
感想
「言葉を機械学習させられた過去のある類人猿ボノボ」
「機械学習」といえば、(自分は全く専門でないものの)AI用語として用いられるような、コンピュータに大量のデータを解析(学習)させて、何らかのアルゴリズムを生成・発展させるような技術を指す用語と自分は思っていました。なので、「言葉を機械学習させられた過去のある類人猿ボノボ」とは、脳とかにAIを搭載した微小コンピュータ等を埋め込まれた、半分機械化されたようなボノボのようなものを想像していて、それを「おねえちゃん」と思い込んだ人間とが何らか関わっていくような物語かなと思っていました。
個人的に、そんな意味不明な設定でどんな物語になるのかとても楽しみだったのですが、実際読んでみると、AIの片鱗すら全く出てきません。おそらく、あらすじで用いられている「機械学習」というのは、機械(を使った)学習くらいの意味で、作中のボノボ(「シネノ」という名前)は、「粗末なキーボード」なるものを使って、絵文字と意味の対応関係を学習していきます。
そういう意味で、本作の内容は読み始める前に想像していた内容とだいぶ異なっていたのだけど、そもそもあらすじの「機械学習」がミスリーディングでは?とちょっと思いました。
シネノ(ボノボ)としふみ(人間)、似た境遇の二人が共鳴し合う物語?
本作の主な登場人物は、言語を学習したボノボのシネノと、競歩選手のしふみ。シネノは過去の言語学習によって、人間の言語をほぼ理解しているが、そのことを隠して動物園で生活している。
ただ、ほんとうはできることをあえてやらずにいる、それはシネノにとってときどき、腹立たしいこと。苦痛なのだった。
シネノはこのようにして話すことが、できる。(略)シネノはシネノの意思を伝えることが、できてしまうのだ。それを長いあいだずっと秘匿してきた、この動物園で、この檻のなかで、たんなる展示物として平穏に暮らし、安穏に死んでゆくために。
ただ同時に、シネノは大舞台に弱いことも自覚しており、自分は本当に特別な猿なのだろうかと自問自答もしている。
シネノは研究所にいた頃から、ここぞという大一番に弱かった。
一方のしふみは、オリンピックの選考がかかった大会で先頭につけていたところ、後ろから追い上げてくる後輩選手に抜かれることを予期し、妨害して失格処分となる。これまでの人生においても、大事な場面で何かしでかしてしまう失敗欲・破滅欲があり、失敗を繰り返してきた。ただ、そんな中でも、自分には何か特別なものがあり、それを自尊感情として大事に抱いている。
(略)それでも絶対になにかみどころのあるやつだというこの一点についてだけは未だに、どうしても、底のところで諦めがつかなくて、その考えのせいできっと、いまのこの境涯に納得感を持つことができずにいる。
作中、シネノ視点のはずなのにしふみが見聞きしている情報を認知して、しふみの頭のなかが語られたり、しふみ視点では逆のことが起きるのですが、シネノとしふみは、自分は特別でみどころがあると思うことで自分自身を認めようとしながらも、その一方で大舞台では成功できずにきた経験からともに鬱屈した想いを抱えていて、さらに、幼いころに霊長類研で一緒に遊んだ経験・記憶も相まって、相手に再会した瞬間に、互いに相手を自分自身の写し鏡かのように錯覚したというか衝撃を受けたのではないか、そして、そこで生まれたつながりから、お互いの内面についても理解し合えるようになったのではないかと自分は解釈しました。
ネット上のレビューを見てみると、「全部しふみの妄想」という説も見かけ、そっちの方がたしかに現実世界の現象としては説明可能と思いますが、それだと、あえてフィクション小説を媒体としてこの物語を描く意味があまりないというか、わざわざ現実世界の物語として四角四面に理解しようとする必要はないのではないかというのが自分の考えです(妄想説が真実かもしれないけど。)。登場人物間の視点共有が本作よりさらに突飛な、「鳥がぼくらは祈り、」を読んだ後なので、余計そう感じたのかもしれません。
自分で自分を認めること(=戴冠)で自分を救う
作中、シネノとしふみは手で王冠の形を作り、自分の頭にのせるジェスチャーで自分は特別だと表現します。
そしてラストシーンでは、シネノは動物園から脱走し、それに呼応するようにしふみは大会での失態を乗り越え歩みを再開します。世間からの好奇の目(展示動物、女性アスリートとして)に晒され、自分の本心や意図とは異なって理解されてきた(テレビ番組で動物の行動にアテレコしたり、競技と関係なしにルックスで評価されたり)両者が、それらを振り切って、自分の力で自分自身を取り戻す/救済するようなシーンのように私は感じました。