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坊主

こんにちは。名前の順により図らずともトリを務めさせていただくことになりました、RFC.tokyoの吉田です。

普段あまり自分のことは話さない方なので、せっかくなのでこの機会に自分のサッカー史について語らせていただければと思います。

「幼稚園〜小学校時代」 

通っていた幼稚園にサッカー教室があり、なんとなくサッカーを始めました。元々外で遊ぶのが好きだったので、なんとなく始めたもののすぐにハマり、2002年の日韓ワールドカップで将来の夢がサッカー選手となりました。

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懐かしのメンバー。僕は小野伸二のファンでした。


「中学時代」

中学生になり埼玉では割と有名な「クマガヤSC」に入団しました。ここでは良かったことと嫌だったことを箇条書きで書きたいと思います。

(良かったこと)

・気温40度を超える熊谷の地をひたすら走らされた為、後の高校や大学で経験した走りトレーニングが辛く感じず済んだ。

・着替えが遅いとメンバーを外される為、強制的に身支度が早くなった。

・根性がついた。

(嫌だったこと)

・技術的、戦術的な指導がほぼなかった。

・公式戦で負けると監督から言われる、「坊主にして気持ちを見せろ」という指示。→全国制覇しない限り坊主確定。

・天然芝での試合時は天候に関係なく取替式スパイクの着用が必須。固定式スパイクでも良いが、試合中一度でもスリップすると卒団までベンチ外に

一言で言うと軍隊の様なチームで、精神的な部分で逞しくなることが出来ました。

ただ、今思うと強豪チームでベンチに座るよりも、自分に合ったチームで試合に出た方が上手くなれたのになあと思います。


「高校時代」

高校では自分に合ったチームへ行こうと思い、パスサッカーで定評の高かった本庄第一高校に進学。高校時代はインターハイ予選で引退するまで、ミュシャ式3-4-2-1フォーメーションの左WBとして試合に出場することが出来ました。

※サイドハーフの時に守備を頑張るのはこの時の名残です。

一方で、サッカーは充実していましたが、部内では問題が多発していました。そして、事件が起きる度に連帯責任で坊主になりました。そのため、中学から引続き、高校時代も大半の時間は坊主で過ごしました。(トップ画ご参照)

とても面白いサッカーをする高校でしたが、数年前に部員が遠征先で集団万引き事件を起こし、監督がクビになってからは低迷しています。いつか復活するといいなあと思っています。


「大学時代」

学習院大学に入学すると、迷わずサッカー部に入部しました。学習院のサッカー部は誰から言われる訳でもなく、選手達で考えながら運営したいたことに驚きました。

今まで監督の指示が絶対の環境でサッカーをした事しかなかったので、大学で自分達で考えてサッカーをする事はとてもやりがいがありました。

今もRFCで同じような活動が出来るのは幸せなことだなあと思います。あまり口には出しませんが、僕はこのチームが大好きなので、みなさんとこれからもRFCとして活動していきたいです。

ラストはグダグダになりましたが、以上になります。

2周目は誰からやるかわからないけど、よろしくお願いします〜











             

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