SNSは子どもを殺すのか
YouTubeのニュースで連日取り上げられている話題がある。それは「子供のSNS使用禁止法案」だ。
ニュースの概要は、海外では子どものSNSの利用を制限することが児童の自殺を防止につながると考え、アメリカなど欧米諸国では禁止され始めている、というものだ。
SNSはいまや人のコミュニケーションツールとしての枠だけでなく、コミュニティの拡大、さらには副業と、自分の生活を一変させる可能性がある媒体だ。
その特徴はなんといってもハードルの低さと自分だけのコミュニティを作ることが可能ということだろう。始めるハードルは実質アカウント作成だけであり、一旦始めさえすれば自分の生活圏では味わえない刺激が山ほどある。さらに情報共有によって共通の趣味を持った知人ができることもあり、ファンサークルなどはライブに行くとよく見かける。
だが、こういったグループの非日常感はいい方に作用するだけではない。悪用されればニュースのような学校でのいじめにも応用できる。
一般的に、学校でのいじめは会った時に直接行うなど表に出るものと思いがちだ。しかし最近では裏でいじめることが増えてきている。SNSを介することでそれがさらに容易になった、ということだろう。
ただ、私はSNSが人を殺めるという考え方は違うのではないかと考えている。その理由は2つある。
1つ目は使い方の問題だからだ。
人は便利なもの生み出し、生活している。例えば包丁は料理に使える一方で人を殺める道具にもなり得る。人の用いる道具は全てそういった危険性を常に抱えているものだ。
ではSNSはどうか。一見SNSの特徴が子どもたちのいじめを助長させているようにも思える。だが実際、いじめる時の道具は「言葉」である。SNSはその利用場所に他ならない。さっきの包丁の例で言えば、刺した包丁を咎めずに刺されるような環境を作った方が悪い、と言っているようなものだ。直接的な因果関係はそこにないのに、一方的に禁じるのは変だ。
2つ目はいじめを根絶することは難しいからだ。
人は太古から集団で生活している。その中である人が自分の味方か否かを判断する指標の一つが共通の敵がいるかどうかだ。そして、それは集団内でも同様である。常に「自分は集団にとって必要な存在だ」と誇示してグループからハブられないようにする。
つまり、いじめとは「生物学的に人間らしい行動の一つ」なのである。現代ではグループからハブられることが大昔のように生死に関わることはほとんどない。しかし、現代人の脳は先祖と大して差がないとも言われているので、その一連の行動やそれに伴う感情は太古からの名残りとして今も見受けられる。
故に何かしらハブる人を見つけては仮想敵としようとしてしまうし、その人を一緒に攻撃することで味方と判断してしまう。そして反対したり参加しない人は何となく敵に感じるのである。
では頭を使えばこうした問題を解決できるのかと言われれば非常に難しい。似たような例で不倫は理性や法整備で防止できるかという話に近い。性欲という強力な欲求を理性でコントロールできると考えている人ほど、実は性欲に支配されている。現に人は未だに不倫をやめられないことはニュースを見ていれば火を見るより明らかだ。法改正が全く意味がないとまでは言わないが、抑止力としては弱いように思う。
ではどうすればいいか。
私はひたすら言動の重みについてその時々で向き合い続けるしかないと考えている。言い換えれば、その人が心の底から反省するのを待つしかない。
やられている側には非常に残酷だが、人は話せば分かる人をいじめたりしない。故にいじめてくる人はそもそも自分と折りが合わないので、こちらの働きかけはほぼ無意味である。せめてもの対抗策で自分が強くなるかその場から一目散に逃げるかの2択を迫られるのだ。
そもそも「人間関係は想像以上に脆い」のである。人は人間関係や信頼関係が強固なものと考えすぎだ。
何気なく使った言葉や偶然とった行動が相手から素っ気なく見えたりするだけで、人間関係は亀裂が入る可能性がある。それくらい儚いものである。
では、気を使えば何とかなるのかと考えたくなる気持ちは非常に分かる。だがそれも持続できないだろう。人とはその気になれば5分で終わる宿題を始めるのに何時間もかけてしまう習性がある。意志力とはその程度の馬力しかなく、持続しないのだ。
だからここはいっそのこと「自分ができる最善を尽くした上でその人との関係が崩れるならば、その関係は遅かれ早かれ崩れるものなのだ」と考えを改める方が賢いのではないか、と提案したい。
いじめも人間関係と同様である。
もとはと言えばいじめる奴が起こした一方的暴力行為である。だからその始めた張本人を叩けばことが済むと思いがちだが、話はそう単純ではない。実は、この時病んでいるのはいじめられる側よりもいじめる側であることが多い。
ようするに、いじめは複雑な要因の上で起こっている。そして人はSNSがないなら別の方法でいじめるだけである。私が小学生の時も普通にいじめはあったし、なんなら私もハブられたことがある。その頃よりも主戦場が多少見えにくくなっただけなのだ。
これだけ言ってもいじめた人に何かしたい人は現れるだろう。それははっきり言ってあまり意味がない、と伝えたい。言われて分かる賢い人はそもそもいじめなどしないからだ。どうしてもしてしまうから対策に何万年もかかっているし、いまだに解決していない。
それにいじめた人たちも「いじめる時に組んだグループは未来永劫続くような素晴らしい人間関係ではない」と学ぶ日がいつか来る。それは自分が近い将来いじめられた時かもしれないし、もしくは遠くの未来に豚箱に閉じ込められた時かもしれない。いずれにせよ、いじめ続けてる人はいつかいじめられる日が来るのである。これは真理である。
そしていじめられている人。
私はこの人たちに伝えたいことがあって今回書いた。話はもう少しで終わるので、最後まで付き合ってほしい。
自分に嫌なことをしてくるグループであっても、そこから抜けることは今は非常に怖いかもしれない。身に覚えのない攻撃を一方的に受けたせいで、信頼できる人に頼ることすらも怖くなって出来なくなってしまっているのかもしれない。引きこもってしまったら社会に戻ってこれないかもとか思ったりして、自分が負けてはいけないと今のいじめを容認してしまっているかもしれない。
だが、自分がつらい状況の中で我慢することだけは絶対に避けてほしい。その癖が一旦身につくと、社会でいざという時に逃げることができなくなるからだ。例えばブラック企業に間違えて入ってしまった時、学生時代にいじめから逃げてきたその逃げ足が大いに役にたつ。
その逃げ足が遺憾無く発揮できるためには、前提として「嫌なら逃げてもいい」と自分が心から思えることが大切である。そして人間関係に勝ち負けはない。
こうした考え方は逃げ癖が付くから良くないことに思うかもしれない。だが、あなたに信じられないことを一つ伝えておくと、逃げ癖は存在しない。逃げていることも含めて全て自分にとって必要な選択である。
そして逃げてはいけない時なんて存在しない。だから安心して逃げて欲しい。逃げ続けていると「逃げない方がよかったかも」と思える時が必ず来る。その時に初めて自分と向き合えばいい。
「逃げない方がよかったかも」とずっと思ってしまう人は「逃げてよかった」と感じられるまでずっと逃げていていい。いずれにせよ、いつか冷静に反省したくなる時がくる。その時まで自分の体を守ることに徹してほしい。身の危険を感じていながら逃げない生物は人間だけである。危機を感じたら逃げることは生物としてごく普通のことだ。
そして先にも書いたが、自分が無理しないと付き合うことができない人とはもとからご縁がなかった人である。決して無理をしすぎてはいけない。そしてどんな人ともいつかは別れる日がくる。そういう人との別れは他の人より早かっただけだ。目の前にもっと大切にしなくてはいけない人がいるならその人に時間を使おう。そして現状いないなら現れるまでできることをしてのんびり過ごそう。
あなたは安心してどっしり構えて好きなところで生きていい。