#146 映画『哀れなるものたち』感想と雑記(ネタバレなし)
毎年、年末年始から3月末頃にかけては、映画豊作月間だ。というのも、米アカデミー賞狙いの作品が集中して公開される時期であるためだ。なぜこの時期なのかというと、単に視聴者(投票権のあるアカデミー会員)に対して、投票日の間近に強く記憶に残しておきたいから、である。
もっとも、今年の米アカデミー賞では、クリストファー・ノーラン監督の最新作『オッペンハイマー』が、昨年夏に公開された作品だが、最多13部門にノミネートしており、最高賞である作品賞に最も近い存在と言えるのかもしれない。
ただしこちらは、原爆の父と呼ばれるオッペンハイマー氏を描いた作品だからであろう、現代を代表するヒットメーカーの新作であるにも関わらず、日本の大手配給会社が軒並みスルーした。
結果、その太陽を盗んだのは新興の配給会社ビターズ・エンドだ。今どき、超大作の日本公開がこれほど本国とズレるというのは、やはり扱うにはいろいろと大変な作品なのであろう。
そうしたことがあって、残念ながら公開日は3月29日(今年の米アカデミー賞授賞式は、日本時間3月11日)となり、予想をしたい派のわたしとしては残念であるが、無事に公開日が決まったことそのものを喜ぶことにしよう。
さて、本題の『哀れなるものたち』だが、こちらは『オッペンハイマー』に次ぐ11部門にノミネートされている。ただいま、映画館から帰宅して、興奮冷めやらぬ状態でこれを書いている。
みるべし!(一人で!)
あらすじは公式サイトに譲って、さっそくその興奮を伝えたい。わたしは、このnoteで「わたしがわたしであることにたどり着く過程にある地獄」や、「生きることのみじめさ」のような記事を、時には社会への不満、あるいは自虐、ジョーク、恥ずかしさや虚勢などと混ぜ合わせて、ショートエッセイと称して公開してきた。本作はそんなわたしに、あまりにも刺さりまくってしまい、情けないことに語彙を消失しかけている。
上映時間142分と、少々長めの作品だが全く目が離せない。芸術的な画面と、そこで行われるグロテスクな人生。しかしそれは、とある人間が「わたしがわたしであること」に目覚めるまでの出来事を凝縮した142分間なのだ。秒速で過ぎていった感がある。
主演のエマ・ストーンは演者としてだけではなく、自身もプロデューサーとして制作に参加している。彼女は既にスターだが、本作を経てレジェンドへの道を歩み始めたのではないか。これを自らプロデュースし、演ずるというのは凄まじいものを感じる。当然ながら、米アカデミー賞の主演女優賞にもノミネートされている。正直なところ、主演女優賞のノミネート作品は『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』以外は観ていないが、わたしの中ではエマ・ストーンの受賞は確実ではないかと思う。
ここまで言うからには当然、超、超オススメの作品ということになるが、注意点がある。個人的な見解(余計なお世話)ではあるが、この映画は一人で観に行ったほうがいい。くっそエロい(R18指定です)というのもまあそうなのだが、そこではなく、解釈の相違が生じがちな面倒くさい(だからこそ面白い!)映画だからだ。人によっては、女性解放の作品に映るかもしれないが、わたしは『バービー』(こちらも傑作!)と同じく、そうしたことを超えた「じぶんを獲得する映画」だと思うのだ。
もう一度観たいとは思わない
とはいえ実は、もう一度観たいとは思わない。あまりにも精神力を使う内容だから、スクリーンで観た感動と興奮をできるだけ永く記憶しておきたい。こうした作品は、いつかどこかで思い出して、自分の人生とつながってくることもある。しっかりと記憶に刻んで、大切にしまっておきたい。(ちなみに、先に挙げた『バービー』は3度鑑賞した。こちらも同じく深いテーマを扱っているのだけれど、しんどくならないので繰り返し観たい作品だ)