革命は取り込まれない
The Black Lives Matter Revolution Can’t Be Co-Opted By Police and Lawmakers
ブラックライブズマター革命は警察と政治家に取り込められない
発信元/Source: Teen Vogue/ティーンヴォーグ
筆者/Writer: Kandist Mallett/キャンディスト・マレット
写真/Photo: Elijah Nouvelage/イライジャ・ヌーベラージ
今アメリカで起きている社会的動揺は、私達若者が今まで見たこともないような出来事だ。これらの大規模な抗議行動はミネアポリスからアメリカ全土の州だけでなく、世界中に広がった。ここまで大勢の人が街頭を洪水のように埋め尽くして怒りを表すことは、アメリカ社会においての根本的な変化である。この怒りの爆発に警察によるジョージ・フロイド氏の殺害が火花となったことは間違いないが、それよりこの運動の火を燃え続けさせるのは私達の警察に対する反感だけでなく、その警察が守ろうとしている体制全てである。黒人の人々はコロナウイルス、経済不況、警察による殺害とハラスメント、そして投獄を他の人種と比べて不均衡に影響を受けている。言ってしまえば、この暴動は長い間待ち望まれていたのだ。
過去3か月間の出来事は、アメリカ政府が優先して守るのは資本と個人財産であることを明らかにした。この事実はコロナウイルスのパンデミック中に政府が「必須労働者」を放っておいたり、民主党と共和党の両党が急いで経済を「再開」するなどの行動で明らかになった。それは今警察が平和的抗議者に対して軍事的強制力を用いることでさらに明らかとなった。
これを革命と呼ぶのは早とちりかもしれないが、なってもおかしくない様子を見せている。だからこそ警察を含む権力者達は震えあがって、一生懸命この社会的動揺の波がコントールできない津波と化す前に破壊しようといている。
空気の読み方を知れ
ジョージ・フロイド氏の殺害はアハマウド・アーベリー氏の銃殺ビデオが流失した1週間後、そしてエイミー・クーパー氏の人種差別的発言のビデオが出回った同じ週だった。抗議の声は即時に上がり、大きかった。抗議行動はミネアポリスに始まり、ロサンゼルスやアトランタなどの都市に広がった。この即時の余波は、アメリカ中の市長や警察署長がフロイド氏の殺害に対する批判や新興する抗議運動への支持の表明として表れた。
私が住んでいるロサンゼルスでは警察署長マイケル・ムーアがワシントンポストの記者に以下のように述べた。「思いやりの無さ、過剰な武力の行使や法の範囲を超えるなどの行為は我々のバッジを汚すだけではない。この国の人種関係そのものを引き裂く行為だ。」ロサンゼルス地方検事を2期務めた父を持つエリック・ガルセッティ市長はムーア署長と同意しツイッターで以下のように投稿した。「ジョージ・フロイドは我々の目の前で殺された。私達は怒り、正義を求め、このような事が二度と起きないように誓わなければならない。」
しかしそれからロサンゼルス市は市民に門限を強制し、国家警備隊を動員した。5月29日から6月2日の間に2,700人が逮捕された。過剰な警察による武力行使がアメリカ全土からデモ参加者とジャーナリストによって報道された。
ガルセッティやムーアのような政治家や警察署長は空気の読み方を知っている。彼らが公に抗議活動を支持したり警察の暴力に反対したのは、広報戦略として抗議行動が「平和的」である限り行われること許すリベラルで協力的な「善人」のイメージを作り上げるためだ。彼らはこうして次のステップへの準備をする。「平和的な抗議」神話の押し付けである。
平和的抗議の神話
平和的抗議の理想の問題は、誰が何を平和的か暴力的であるかを決めているのが問題である。器物破損や略奪行為もないのに、何百人もの銃や金属バトン、催眠ガスのような化学兵器を持ったまるで兵士のような警官に囲まれるデモは「平和的抗議」ではない。もし平和的というのが警察だけが暴力を振るうことが許されることだとすれば、それは「警察による暴力」という抗議者たちが抗議している理由自体への矛盾である。
平和的とそうでない (例えば暴動などの) 抗議行動の二項対立を作り上げることで、私達は警察が加える暴力の正当化をしている。もし器物破損が起きてメディアと国家権力が「これが暴力である」と決めつければ、警察による武力の行使は正当化される。しかしそれがジョージ・フロイド氏の殺害に至った原因ではないだろうか?彼を逮捕した警官達は彼に対する暴力行為は正当だと考えた。なぜなら彼らはフロイド氏を社会の秩序を乱す存在と捉えたからだ。
ドナルド・トランプが「略奪が始まるとき、射撃が始まる」とツイッターに投稿した時、人々はアメリカの大統領が抗議者達に暴力を脅したことに激怒した。しかしそれが今実際に起きているのだ。警察は抗議者たちを射撃し「略奪者」たちをゴムに入った金属の銃弾で撃った。警察による暴力と殺害に反対と言いながら、デモに参加したり、門限を守らなかったり、ただ違法な行為をしただけで抗議者たちが撃たれたり、催眠ガスをかけられたり、殴られたりすることに同意することは矛盾以外の何物でもない。
警察が存在する限り、平和的な抗議など有り得ない。そのような神話の押し付けを続ける者は、国家権力を援助するだけだ。実際に平和を実現するには多くの暴力が必要なのだ。
世論の抑制
メディアは「外部からの扇動者」についてのデマを流すのに重要な役目を果たした。MSNBCのニュースキャスターであるジョイ・リードから先進的な代議員であるアレクサンドリア・オカシオ・コルテッツまで、その謎めいた扇動者たちは対立的な抗議行動が行われる全ての場所に突然現れるのだ。また、黒人のオーガナイザー達が破壊行為を行っている非黒人の人々に怒鳴っている映像も多く見られ始めた。しかしこれは黒人やその他の有色人種の若者たちが彼らのコミュニティで自発的に行っている行動を不可視化し、ラジカルな黒人たちを政治的談話から削除する長い政治的伝統の一部である。
「外部からの扇動者」のデマはこの社会に裏切られた若者たちの真の怒りを認めない都合の良い方法である。メディアはこの荒々しい反逆の表れから消費しやすい抵抗の表れへと世論を遠ざけることに成功した。
権力の真空の中では全てを掴み取ることができる
先週末にアメリカ全土で行われた抗議行動は今までに行われた街頭デモとは大きく異なる特徴を見せた。燃やされたパトカーや割られた窓、ACAB (All Cops Are Bastards/全ての警官はクソ野郎だ) の落書きが書かれた壁は遠くの過去のように思えた。警察国家を転覆させることができるように思えた街頭デモは、アメリカ合衆国の最も古い戦法に倒れた。対反乱作戦である。
ツイッターフィードはデモ参加者と警官がひざまずいたり、一緒に踊ったり、抱き合ったりしている写真で溢れている。この全てが「黒人の命」という名の下で行われているのだ。企業のウェブサイトは今まで行っていたコロナウイルス関連の免責事項をブラックライブズ関連のメッセージにすり替えた。
先日のミネアポリス市議会が市警察を解体するという決議は警察廃止論者にとっての勝利であると宣伝された。だが今現在、この約束はそれ以上の何ものでもない。大体数の白人コメンテーターはすでに彼らの白人のオーディエンスに「警察の廃止は法執行機関の廃止ではない」などと保障して警察廃止の概念を薄めようとしている。
しかし警察廃止という概念を全国の舞台に立たせた怒りは抑えられ、今は社会の動揺から利益を得ようとする者に影を薄くされている。この展開は今まで全国のデモに大多数で参加した白人たちにとっては喜ばしいことである。
抗議行動の第二波として行われたインスタグラムに黒い四角を載せる#BlackOutTuesday、企業や有名人が黒人の命の名のもとに非営利法人に寄付するEmpty Your Pocket Books (ポケットを空っぽにしよう)、元大統領バラック・オバマが有権者に選挙で投票することを訴え、警察の暴力は小さな改革を通して減らすことができるというキャンぺーンゼロの#8CantWait計画(大規模な反発を受けた結果キャンペーンゼロのリーダーであるマッケソン・ディレイは廃止を支持する声明を発表した)。このような方法では深く根付いた警察の暴力を解消することはできない。
私達の目的は警察の暴力を少なくすることではない。無くすことである。この目的を達成するには警察自体を完全に廃止せねばならない。社会運動は長い間よくゴールポストを動かして勝利を偽ってきたが、もうそんなことは出来ない。警察の暴力を直す方法を知っているという議員や団体に私は質問がある。あなたたちの政策は今までどこにあったのか?今まで警察への「小さな改革」が行われてきた場所では今だに警察による権力の乱用が行われているではないか。
抑圧は全ての場所にある
これらの抗議行動を通して私達は、精巧に表れた過剰な武力行使を目の当たりにしてきた。私はロサンゼルスで装甲車が1月に地元の人々がコービーとジジ・ブライアントの死を悲しんだステープルズセンターを通り過ぎるのを見た。ある晩は地元のデモを取材している間に警官にたちに囲まれて拘留された。ジャーナリストであることを証明する取材許可証を持っていたにも関わらずだ。アメリカ中のジャーナリストが警察に攻撃され逮捕されたという報告が相次いでいる。このメディアに報道制限を行って警察の説明責任をも制限するという行為は一種の抑圧である。もう一つの方法が一斉逮捕だ。一週目の抗議行動だけで1万人以上が逮捕された。
警察が存在する限り、抑圧は常に行われる。だから私達は全ての法執行機関の廃止以下を受け入れてはならない。その代わりに、この社会がパンデミック中に大切にしているかのよう振る舞ってきた医療従事者、介護士、スーパーの店員や配達人などの私達に命と喜びを提供してくれる人々に投資しなかればならない。それ以外にも、住宅や教育、そして医療にも大規模な投資が必要だ。
奴らこの運動を殺そうとしている。殺させてはならない。街頭に残れ。
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