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スペースノットブランク「劇場三部作」③ 救世主の劇場評

・呆然

 スペースノットブランク『救世主の劇場』は2021年3月21日にかながわ短編演劇アワード2021で上演されました。同コンペティションは感染症対策の都合上無観客開催で、一般の観客は動画配信でしか視聴できませんでしたが、わたしは保存記録という役職上これを現地で鑑賞することができました。
 2019年の『共有するビヘイビア』を観て以来ほとんどのスペースノットブランクの上演を鑑賞し、2020年からは保存記録として稽古場への見学も許されるという特権的な観客として同団体を追いかけてきたわたしですが、この『救世主の劇場』は当初、ひさびさにどう観てよいかわからず、茫然としながら観劇したのをよく覚えています。
 この呆然の感情は、おそらくコンペティションの審査員の方々にも共有されていたことと思います。まずは審査の内容から確認しましょう。岡田利規さんはまずステートメントに記載された「時間と空間の拡張によって、『分断』が『棲み分け』としてあたりまえになった社会を考察する」というコンセプトに共感を示し、それからまた冒頭のシーンに見られた美学的強度へ賛辞を与えた上で――この美学的強度は上演の全体としては自身を満足させるものではなく、また上記のコンセプトがどう舞台上で具現されているかどうかが理解はできなかった、と仰られていました。
 わたしは、これはごく自然な指摘であると思います。冒頭では舞台には地明かりが落とされています。上手の手前、その舞台の隅に長机が置かれているのみの、殺風景な舞台セットの中、上演の開始とともに深澤しほさんの靴音が長く響き渡ります。舞台奥を彼女がゆっくり時間をかけて横切ると、彼女が近藤千紘さんとともに上手から入場し、長机に着席します。そして彼女らは抑制のきいた平坦なしかし強さを秘めた調子で淡々と言葉を紡いでいくのです。広々とした舞台の片隅で演技をするという視覚的なメリハリ、それから彼女らが一貫して保っている強度の緊張、これらは確かに舞台に美学的強度を与えていました。しかしその張りつめた空気はやがて弛緩します。古賀友樹さんが現れ、このような台詞とともに――

なんで 電気点いてんの ! ちょっと この無駄なやつ消して !

全ての照明は落ち、劇場は暗闇に包まれてしまうからです。

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 その後、俳優はトーチライト(松明を模したライト)を手に舞台を照らしますが、その明かりは彼らの身体を観照するに十分ではなく、俳優の身体が視覚的な快を与える道は文字通り闇に閉ざされてしまいます。特に俳優の身体と発話の関係に焦点を当てて舞台の強度を測るだろう岡田さんにとって、彼の言う美学的強度の消失が感じられるのは尤もなのです。
 問われなければならないのは、この暗闇が生む、一般的な意味での審美性とはまた別の効果です。はたしてそれは観客を驚かせるトリッキーで捨て身な演出のひとつにすぎないのか、それともそこになんらかの革新的な独創性を認めるべきであるのか。
 審査員の林香菜さんはこの演出を、舞台上での出来事を見えなくすることで劇場での経験を映像でのそれに近似させる工夫であり、無観客開催という条件を自覚的に取り扱ったものと評していらっしゃいました。一方で岡田さんは、暗闇やトーチライトの弱い光は人を惹きつけるような力があり、映像配信を意識したものではないのではないかと指摘していらっしゃいました。わたしはどちらかといえば後者の意見に同意します。たしかに映像で観る上演も、視聴覚情報を分離するような独特な鑑賞のモードを用意していました。しかし、視覚を奪われた上でなお座席に拘束され、舞台を鑑賞し続ける、それは通常の観劇よりもいっそう五感を総動員した身体的な経験となります。また陰翳は明確な何かを伝えようとはせず、むしろ観る者の想像を誘発する方向へと働きますが、これも映像では単一なる黒に捨象されてしまいます。濃度ある陰翳は画一的な解釈へと作品が還元されることを拒むスペースノットブランクの作風と響き合います。その闇はディスプレイの平面で感得されるには深すぎるのです。
 しかし、いずれにせよこれらの解釈では舞台の全面的な消灯という大胆かつ舞台を殺しかねない危険な操作を充分には正当化できません。俳優の演技を賞美するという一般的な鑑賞のモードがほとんど失効してしまうのですから。この演出をより有意味なものとして理解するためには、観客には消灯とともにまた「別の」鑑賞モードへとシフトすることが求められていたと考えなければなりません。
 なお、『救世主の劇場』を評するうえで、作家らにより意図されていただろう数々の設定――「時間と空間の拡張によって、『分断』が『棲み分け』としてあたりまえになった社会を考察する」というコンセプトをはじめとして、同コンセプトおよび結部の「ティー・パーティー」という単語が喚起するアメリカという国名、それから髪を金色に染めて節電を訴える古賀さんがグレタ・トゥーンベリを暗に表象しているだろう事実(作品についてメタレベルで言及する台詞は古賀さんに集中しており、実際ここで引用されるテクストはすべて彼のものです)、意味ありげにテクストで繰り返され、「人間を駆逐しようとしてる」といわれる「テラー」という謎の存在の正体――これらのことはあえて括弧に入れてしまおうと思います。そのような社会的・政治的コンテクストの整理よりもわたしの興味はむしろこの舞台の特異な構造へと向けられているから、というのも理由の一つではあります。しかしここでわたしが回避したいのはむしろ、コンペティションの制約上誰もが一度しか鑑賞できず、しかもテクストがほとんど支離滅裂な形式をとり、そのため整合的な脈絡を見出しづらいこの作品においてそのようなテクスト本位の解釈を説いてしまうことで、観客が経験した舞台の構造の実際からこの批評があまりにも乖離してしまうことです。

・機能不全者としての劇場

 では実際のところ、劇場において上演時間の大半を暗闇の中で過ごすとは、どのような経験なのでしょうか? 
 わたしは、スペースノットブランクの2020年12月からの三作品――『光の中のアリス』、『バランス』、『救世主の劇場』を「劇場三部作」と名付け、これまで前者二作品を作品が劇場という物理的な機構に対して有する関係性の観点から分析してきました。『光の中のアリス』評では悲しい現実と夢想された現実の両方を抱きかかえて生きていくという松原俊太郎さんの戯曲の主題が、舞台に展開されたストーリーと照明に照らされむき出しに示され続ける劇場とを同時に知覚し続ける上演構造に対応していることを確認しました。『バランス』については劇場に溶け込むような黒い衣装を演者が身にまとい常に地明かりが劇場を照らすことで、演者の身体と劇場の身体とが対等な関係性に立ち、相互に前面にせり出てくるような独特なイリュージョンを生んでいたことに触れました。
 「劇場の身体」――その比喩を『救世主の劇場』に適用するとき、この作品の特異性は鮮明に形をとります。舞台から美学的強度が失われてしまうこと、素朴な意味での審美性が損なわれてしまうことを積極的に解釈するならば、病に侵されて機能不全に陥り衰弱しきった患者としての劇場の姿をそこに見出すことができるでしょう。暗闇は劇場からその諸機能を奪い去り、その身体を脱臼させるのです。
 『光の中のアリス』でも『バランス』でもまばゆい照明にくまなくその姿を曝されることによって、劇場は即物的な現前性を強めていました。対して『救世主の劇場』ではそれとまったく正反対の方法で、そしてそれだけにいっそうラディカルな仕方で、劇場の物理的な性格が――暗闇に観客を閉ざす文字通りのハコとしての性格が――シンプルに浮き彫りになるのです。前者の二作品では、劇場は演者らを拘束するひとつの制度として可視化されていたのに対し、後者ではもはや劇場はそのような生命力を奪われ、ただの物理的な場所として演者の現れを規定するのみです。
 演者が自前のトーチライトで自らの所在を確認し、劇場の機構に頼らずに自身の見得を自ら作り出すことで、いまや闇にその姿を埋め尽くされてしまった劇場の無能さはいっそう露呈されます。

・暮らされていく映画

 『救世主の劇場』のシーンの多くは映画を基にした断片が占めています。いま「映画を基にした断片」という持って回った言い回しを選んだのは、それがオマージュやパロディとも引用ともことなる独特の性格を作品中で帯びているからです。
 語られ、ときに演じられる映画のイメージ、それは暗闇に点される想像上の灯です。ところで肌理を持ちわずかに粗さを帯びた光を投げかけるトーチライトは情景をどこか非現実的に見せます。俳優の身体は画素に還元可能なヴァーチャルなイメージとして映ずるのです。この二つの灯によって舞台は暗闇の劇場が持つ圧倒的な即物性にもかかわらず、観客の想像により伸長するイリュージョンを立ち上げます。

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 しかしそこで上演される「映画」は、観客にとってもはや娯楽的なスペクタクルとしては素直に交通しません。それを基礎づける文脈がどうにも失効していて、個々のシークエンスをどう位置付けてよいかがわからないという困惑が先に立つからです(個々のシーンを取り上げればダンスとナレーションからなるバトルシーンや「SING, SING, SING」の鼻歌など愉しく印象的な場面は多く見られましたが、しかしそれらは断片的で、観劇経験の全体を構造化するに寄与するようなものではありません)。安定していてしかるべき、世界を規定するコスモスとしての劇場の生が物理的にも象徴的にも瓦解しているのですから当然のことです。この劇場の自壊に対応するかのように、テキストはほとんど支離滅裂なカオスとして構成されています。
 もちろん、コラージュされ、一聴した限りでは脈絡の取りづらい言葉の配列は、観客の想像と解釈による新たなる完成を待つ、スペースノットブランクのこれまでの創作を貫通する形式としてあります。しかしこと『救世主の劇場』に関しては、解釈によって統合されることを待つ与件としての色は希薄でした。むしろこのカオスは理解を拒む純然たるカオスとして流通していたがっているように思われたのです。わたしが先に社会的・政治的コンテクストでの読解を放棄した理由の一つはここにあります。
 スペクタクルとしての快を奪われながら光としてイメージとして「上映」される「映画」。それがなぜ発話され、遂行されねばないかと言えば、まさに映画こそが劇場で暮らす者たちの記憶と生を構成しているからです。
 劇場を松明で照らす俳優、それは演劇の登場人物、あるいはなにかの抽象概念や政治・社会的事象を象徴する表象として受け取ることもできますが、むしろ暗闇に灯を点すことで足元を確保するという実際的目的に身体を仕えさせるような、劇場内の生活者として彼らを捉えることがいまや自然です。

古賀友樹 舞台です 舞台を見る場所だから リラックスして ちょっと緊張する でもここで生活しているので 慣れてきます この空間は総称して劇場といわれています

そもそも彼らがなぜ「映画」を紡ぐのかと言えば、それこそが暗闇の劇場で彼らが経験するところのものだからです。映画を観ているのか、想起しているのか、生活自体が映画により脚色されているのか、彼らの経験の様態はわかりませんが、暗闇の中で生活がネットフリックスを中心に組織されネットフリックス「を生きる」ような日々はこの頃はだれしも覚えがあるのではないでしょうか。もちろん、ここでわたしは『救世主の劇場』をコロナ禍の生活の風刺劇へと還元しようとしているのではありませんし、映画を中心に個人の記憶や生が組織されることは今に始まったことではありません。
 しかし暗闇の中で映画として暮らされる生は、それが何の映画であるかということ以上にはもはやほとんど理解不能のものです。なぜなら観客は、その映画の観客が自分ではなく舞台上の人物たちに閉じていることを否応なく知るからです。映画の元ネタが分からない場合この理解不能性は一層増しますし、またたとえ参照項を把握できた場合でも、それを自らの生として舞台上で遂行する彼らの行為の重みと内実はやはり把握できません。ぶつ切りなイメージの手触りに奇妙なごろつきを覚えるばかりです。
 手触り――視界を閉ざされた暗闇の観劇経験は、視覚的であるよりはよほど触覚的なものとなります。すべてを明るみに出す白日の光から遠く離れて、失調した距離感の中で手の届かぬ存在の輪郭をただ触知することこそが暗闇の経験であるからです。

・未だ来たらざるポスト・アポカリプス

 これまで、それを支持こそしませんでしたが、『救世主の劇場』をアメリカの政治情勢やコロナ禍一般における分断の戯画として読む可能性をわたしは文章中で示唆してきました。しかし『救世主の劇場』においてその題に冠された「劇場」が、ここまで論じてきた通り根源的な仕方でのシステムの瓦解を意味するのであれば、わたしはこれを現代社会の壊滅的な状況の風刺劇であると読むよりも、むしろ我々を待ち未だ来たらず、それゆえに我々の理解の及ぶ範疇の外にある破壊の可能性を表象する舞台としてこれを捉える方が自然であると思うのです。
 戯画や風刺は作品と対象との間に単純で線形的な写像関係が結ばれることを前提とします。そして、いまこれを書いているわたしのように戯曲を手元に置いて舞台の全容を鳥瞰し整合的に解釈できる特権的な立場に立つのでもない限り、このような写像関係を舞台の鑑賞経験から掌中に収めることはほとんど不可能だったでしょう。コロナ禍や米国を示唆するモチーフが、発見されどもまともな像を結ぶことができない。
 舞台の支離滅裂を既知の枠組みに収める試みはここでは原則的に失敗の運命にあります。そのような、既存のスケールを超えた、我々の経験の外部にあるものとしての静かなカタストロフィをこそ、劇場の沈黙は語っていたのではないでしょうか。劇場のフィジカルなスケールは顕示されながらも闇に覆い隠されるのですから、この奇妙な操作を通じて鑑賞者の記憶を支配するのはむしろ暗闇の荒涼として茫漠たる印象であったはずです。表象されているのは人間と患者としての世界との共生の風景です。
 しかしこの先取された来たらざるポスト・アポカリプス的状況は、それが単なる論理的な抽象ではなく、現在と見まごうほどに可能な一つの未来として具現されうることをわたしたちに教えます。この破滅は徹底的な破滅としてわたしたちの経験の半径を描出します。そして今なお機能しているエージェンシーの存在を逆説的に指示し、わたしたちに失われた「現在」の手触りを回復させるのです。
 『救世主の劇場』。この「救世主」という言葉自体舞台中での使用は曖昧で、その主体を断定的に特定することはできません。舞台に登場する古賀さん・近藤さん・深澤さんのうちだれが救世主であるのか、その解釈は観客に開かれているというわけですが、いまやこのように言うことができるでしょう。題中の助詞「の」は同格表現であり――病める劇場こそが救世主であるのだと。

・「劇場」の幽霊

古賀友樹  救世主の劇場とは 救世主が 劇場にて 誕生するお話でございます 三十分をかけて 誕生する様を まじまじと見届けることになります ではどのようにしてできあがるのか の前に 劇場を作り上げなければいけません 何かをするだけでは劇場にはなり得ません 両者 の 間には 別の力がないと 劇場は誕生しません では その力とは何なのか 発表します なんで暗いんだよ ! おかしいだろ ! 危ないだろ !

 劇場を誕生させる「その力とは何なのか」? その問いは劇場の機能不全を前に流れていきます。そして劇場の誕生の契機は最後まで明示的な仕方では描かれることがありません。しかし、ではいまだ誕生していないと言われているのに現にあたりを暗く包んでいるこの劇場はなんなのか? この語法の複雑さにこそ『救世主の劇場』が抱える構造上の難点があります。
 上記の古賀さんの台詞では、リテラルな物理的オブジェクトとしての「劇場」と、なにがしかの力が働くことで立ち上がる「劇場」の二つが意図的に混同されているわけですが――おそらくここで見過ごされている、第三の「劇場」の存在を指摘しなければならないでしょう。
 それは客席とステージとの結びつきを主体/客体の非対称な関係へ截然と単純化し、既知の認識フレームで舞台を枠づける所与の制度としての「劇場」です。この第三の「劇場」を脱構築的に瓦解させない限り、言葉の支離滅裂な配列は単なる意味不明性としてのみ交通します。また劇場を満たした闇も、単なる長い「暗転」(わたしはこれまでこの語の使用を意識的に避けていました)としてフレーミングされるでしょう。
 スペースノットブランクが用意していた「舞台三部作」(『舞台らしき舞台されど舞台』『言葉だけでは満ちたりぬ舞台』『すべては原子で満満ちている』)と、わたしの「劇場三部作」という言葉を対照する時、「舞台」と「劇場」それぞれの語の指示内容を明らかにしなければなりません。「舞台三部作」が観客の想像力への信用によって単純な主体/客体の関係を乗り越え、「いま・ここ」のうちに「いま・ここではないどこか」のイリュージョンの生成を図る舞台であったとしたら、「劇場三部作」はそのイリュージョン(上部構造)が前提する劇場という場所の物理的・制度的な条件(下部構造)をさらに問い直すことでむしろ「いま・ここ」の裏側へ逆向きに突き抜けていこうとする特徴を持ちます。このように整理したとき、上記の古賀さんの台詞で問題にされている「劇場」とはむしろ「舞台」と呼ばれた方が彼らの語法にはかなうように思われます。
 『救世主の劇場』の成功は第三の、制度としての「劇場」をどれだけラディカルに破壊できるかということにかかっていたはずですが、その達成の度合いについては疑問なしとしません。『救世主の劇場』において、この「劇場」の破砕は主に長い消灯によって試みられたわけですが、その消灯を暗転として既知のフレームに回収する制度性においてこそ「劇場」の問題は顕在化するわけです。たとえば、次に何が起こるかわからないという未知への感覚、畏怖の感情を、多少のキッチュさや下品さをも恐れずに、より積極的に暗闇の中で演出すべきであったとわたしは考えます。「劇場」についての思考のラディカルさの点では、この制度としての「劇場」を顕在化しかつ突破する『バランス』をわたしは劇場三部作の中で最も高く評価します。
 以上の理由からスペースノットブランクの「劇場」についての思考はまだその途上にあるというべきですが、しかしその手ごたえは、暗闇の中で確かでした。

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(使用した写真はすべて松下哲也さんの撮影によるものです。)

「劇場三部作」①光の中のアリス評

「劇場三部作」②バランス評

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