「甘え」の演劇の構造:小田尚稔の演劇『罪と愛』評 「独り」語りの系譜⑤
なにが「独り」語りを駆動するのか?
『罪と愛』は2020年11月19日から23日までこまばアゴラ劇場で上演され、東京はるかには広報として置きチラシによる当日のイントロダクション、ならびに11月20日夜の回の終演後のアウトロダクションを実施しました。
小田尚稔さんの舞台は私小説的な手つきで孤独な人々を扱う姿勢と発話におけるモノローグの多さ――「独り」語りにその特徴があります。この「独り」語りとは、さまざまな孤在がゆるやかな連合によって目に見えないつながりを獲得していく物語と、作家である小田さんと俳優、描かれる登場人物、そして舞台に場を占める観客たちの関係性において駆動されていくモノローグの性格を捉えてわたしが名付けたものです。発話行為の孤独を強調すると同時にその意味的・形式的な克服、あるいは存在の多重化に向かう点で、この「独り」語りは単なるモノローグから区別されます。その具体的な在り方については過去の批評をご参考いただければと思いますが、重要なのは、小田さんの描く人物にキャラクター性が希薄で、俳優は自らの本人性を強く打ち出し、観客に対しむき出しの自分で対決しなければならないということです。客席と舞台を隔てる被膜としてのキャラクター性は存在せず、観客からの反応を逐次受け取りながら演技をすることが俳優には求められるのです。
わたしは何度か稽古に足を運びましたが、小田さんの注意は主に観客に働きかけてより引き付けること、沈黙している客席と舞台との間になにがしかの「対話」が成立することに向けられているように思われました(※1)。
このような作品の性格は『罪と愛』にも引き継がれています。特に物語の私小説性は際立っていて、小田さんの人格を反映しているのだろう四人の男性を軸としてストーリーは展開していきます。演劇人の男1(加賀田玲さん)、借金まみれの男2(細井じゅんさん)、自由の女神の爆破を企てる男性3(藤家矢麻刀さん)、女性に対して罪の意識を抱える男4(串尾一輝さん)。ただし、後半部へ進むと物語は捩じれはじめ、この男性たちの区別は希薄になります。単に小田さんをモデルにして四名の男性を描いたというばかりでなく、実際にこれらの四人がおそらくは同一人物であるらしいという読解が浮上してくるのです。このことから、作品は小田尚稔という人物の内面を、既存の殺人事件やフィクションにオーバーラップさせる形で現実から一定の距離をとりつつ断片的に、あるいは多層的に表現するものとしても理解できるようになります。
舞台には小田さんの私物が多数持ち込まれ、コの字型の客席に囲まれています。言ってみれば小田さんの生活半径がそのまま舞台上に再現されているのです。しかしこの舞台の構造のうちに、『罪と愛』における「独り」語りを困難ならしめた所以の一つも含まれていました。観客が三方に位置するために、俳優にとっては彼らとのコンタクトを取ることが困難だったと推測されるのです。感染症対策の都合上客席と舞台の間には一定の距離が設けられ、しかも三方に意識を分散しなければならない。
また、『罪と愛』はこれまでの小田さんの作品に比しても出演者が総勢10名とたいへん多くなっており、必然的にそれぞれに割り振られるモノローグの時間は減少します。ストーリーも断片性を強めるために、観客にとってはそれぞれの人物の語りに耳を傾けることがさらに難しくなります。物語の大枠のうちに位置付けて、そこで語られる内容を構造化することができないからです。先ほど、稽古では観客への働きかけが重視されていたと書きましたが、実際のところは演技の上でこの点をクリアすることが今回難しかったからこそ、それが幾度も唱えられたのだという事情もあったろうと思われます(※2)。
モノローグは、観客に面と向かって話しかけるというその直接性の印象からともすれば通常の演技に比べて容易なものとも思われそうですが、実際にはそうではありません。ダイアローグの場合は物語の進行や役の心情に演技の拠り所を見出しやすいですし、俳優同士のかけあいは稽古場での反復においてそのクオリティを確保することが比較的にしやすいです。一方モノローグについてはその方法論の研究がまだまだ徹底されても共有されてもおらず、また物語上の登場人物の内面を作為的に仮構してこれに近づけば近づくほど、観客にとってそれは白々しい語りになっていくでしょう。俳優はあくまでその都度の語りをその場限りの観客との偶然的な関係性から立ち上げ、かつそこに一定のクオリティを確保しなくてはならないのです。モノローグの演技にもそのクオリティの巧拙は歴然として存在しているのであって、失敗した「独り」語りの言葉は誰にも受け入れられることなく横滑りしていくでしょう。
それでは、この困難な「独り」語りは小田さんの舞台において、なにを基底として成立していたのでしょうか?
「罪」と「甘え」
成人はしていますが、僕自身、未成熟も未成熟、正直恥ずかしながら、現状、大人の赤ちゃんみたいなもので、ミスターベイビー、未だ学生気分が抜け切っていないような、謂わばイノセント・ワールドみたいなところに住んでいるようなものでして、、、
『罪と愛』最初のシーンでの、男性2の台詞です。彼はアパートの大家に頭を下げていて、家賃と更新料の滞納を土下座しながら願い出ているのですが、彼はその戦略として自身の幼児性をいいわけにする以外の手立てを持っていません。この大家と、男性1の母はどちらも新田佑梨さんによって演じられます。大家の開口一番の台詞は「いけません!!」という、子供を叱る母親を思わせるものです。このような母子間の「甘え」の構造がさまざまに変奏される「イノセント・ワールド」こそが、『罪と愛』という舞台の描き出した世界なのでした。
土居健郎さんの『「甘え」の構造』は1971年に出版され、ベストセラーとなった日本人論です。その示すところによれば、「甘え」とは日本語に独特の語彙であって、これこそが日本人に特有の心性を示す基幹的な言葉である、ひがみやうらみ、罪や恥といった諸概念についてもこの「甘え」に出発して整理することができ、そしてこれは自他一如的な母子関係を中心として形成されるものである、実際に日本では親子関係を理想化し、それ以外の人間関係をもすべてこの物差しで測る傾向がある、というのです。
わたしは、この日本人の重要な存在性格として50年前に提出された「甘え」こそが、今日の日本の演劇における「独り」語りの系譜の内容・形式両面にわたる本質の一端を示すものであることを主張します。そのために、まずはこの『罪と愛』という作品の内容を「甘え」の観点から捉え返してみましょう。(※3)
おそらくは終演後に多くの観客が次のような疑問符を抱えたことと思われます。「それで、罪というのはなんのことだったんだ?」、と。実際、『罪と愛』ではどのような罪が、どのように扱われているのかということが非常にあいまいなのです。
作中描かれる目立った罪としては、ドストエフスキー『罪と罰』になぞらえた男2による大家の殺人や、ポール・オースター『リヴァイアサン』から着想をえた男3による自由の女神の爆破、実際の殺人事件に取材して描かれた男4の無双する「恋人」の殺害、などが挙げられます。しかしこれらはいずれも独自の構想によって得られたのではない、借り物の罪です。『罪と愛』においては私小説的な体裁が取られながら、作家自身の罪がいずこかに姿を隠してしまっているのです。作家に固有の罪として切り取られていることが唯一認められるのは、苦しい生活状況にもかかわらずなお演劇に身を投ずることの、作家としての業のようなものです。
それに、大家の殺害のシーンでは、終わるとすぐに新田さんと細井さんは役の演技を離れた素の自分に帰り、話の本筋に全く関係のない即興的な日常会話を始めてしまうのです。殺害という重い罪から距離を取り、茶化すような、白け感の強い演出です。
このような罪の実情の曖昧さこそは、「甘え」に根ざした日本人の罪の意識の特徴であると土居さんは指摘しています。「相手の好意を失いたくないので、そして今後も末永く甘えさせてほしいと思うので、日本人は『すまない』という言葉を頻発すると考えることができる」のであって、そこでは「罪悪感は人間関係の関数」にすぎない。「一般的にいえば、日本人は裏切りが関係の断絶に導きやすい義理的な関係の中で最も頻繁に罪悪感を経験する」。そしてそのような「日本人の罪悪感は、裏切りに発して謝罪に終わるという構造を極めて鮮明に示している」のであって、彼らはこの「謝罪に際し相手に対し本質的には幼児のごとく懇願する態度を取り、しかもそのような態度は常に相手に共感を呼び起こす」のだというのです。
要は、うまく甘えることの出来る共同体からの離脱が意識されるときに、日本人は罪悪感を対象化するということです。これは罪の内実があいまいで、幼児的な懇願に出発する『罪と愛』の物語について述べたものとしても理解することができると思われます。『罪と愛』という題は、より正確には『罪と甘え』とされるべきだったでしょう。「罪」と「愛」というこれらの両主題は地続きです。翻って、分裂的に表現されたいくつかの罪悪の感情に「共感を呼び起こす」ある種の「謝罪」の場、そのことでいっときの相互癒着的な「甘え」の環境をふたたび形成するものとして、この舞台を解釈することも可能だと思われます。
「甘え」という演劇形式
小田さん自身の写しと目される、『罪と愛』の描く男は母子家庭に育っています。父親不在の状況においてその生が決定づけられていたということです。土居さんは当時の若者社会において特に「甘え」の関係が氾濫した原因として、古典的世代間葛藤の不在、権威を感じさせる「父親」の不在を掲げています。不動の基底的な価値観の失効、われわれの生きる現実を基礎づける超越的な審級の失効こそが現代社会の特徴であり、そのような状況だからこそ我々は母性的なものへの憧憬、「甘え」に導かれてしまうのだというのです。
「甘え」の背景には、きまってそれに惹かれるだけの分離と葛藤があります。分裂的に描かれ、異なる俳優によって演じられる男1~4や、逆に同一の俳優によって演じられる大家/母、あるいはこの母に連想的に繋げられる数々の女性の表象(恋人、蜘蛛、自由の女神……)がないまぜに同一化していく『罪と愛』の構造は、まさに現実がリジッドな輪郭を解消し、分裂した世界で、さまざまな存在者が安らかな同一化を目指して溶け合い、あるいは時にそれに失敗してゆくねじれの様を具現するものと言えるでしょう。
理性的人格者としての個人が自他一如的な「甘え」の関係へ還ることを志向するのとパラレルな展開が、舞台の自律性についても指摘できるのだと思われます。俳優が観客にうまく「甘え」ることが成立したときに、「独り」語りはうまく聞き入れられ、駆動します。小田さんの舞台の「独り」語りにしばしばみられる言い淀みや、不安感や劣等感をむき出しにする振る舞い、それは自分の弱さをさらけ出し、相手に聞き入れさせる行為です。つまり、お分かりの通り、「独り」語りとは観客に対する「甘え」の形成の行為の別名であるわけです。観客はその「甘え」に耳を傾け、身体をひらき、時に深い親密な共感に到達することになります。俳優が観客によく「甘え」るとき、その「独り」語りは成功するでしょう。
客席と舞台を隔てる「第四の壁」の有無はしばしば問題にされますが、大事なのは舞台が観客にどのように、どれだけ「甘え」ているのかということです。この「甘え」の演劇という構造は、小田さんの舞台に限らず、今日の演劇シーンに広く認めることの出来るものであると考えます(※4)。今日の演劇が強めた他律性の構造をこのようにパラフレーズすると、人によってはネガティヴな印象を抱くこともあるかと思われますが、しかし「甘える」ことと「甘ったれる」ことは区別して考えられるべきで、たとえば小田さんの舞台の場合、個々の俳優の方には、単に愛嬌や媚態を振りまくことからはむしろかけ離れた固有の技術があります。また、「甘え」という状態はそれ自体としては価値的なものではありません。問題はその関係においてなにが達成され、あるいは損なわれているのかということです。その種の現代演劇の内実をより子細に見るためには、「第四の壁」というメタファーに終始することなく、「甘え」という概念を借りることが必要になります(※5)。
そしてさしあたりここで考えたいのは次のことです。すなわち、「独り」語りの舞台における「いま・ここ」性の強調がそのような「甘え」の共同体を築く努力に他ならないとすれば、それは結局のところ刹那的に他者に寄り掛かる儚い現状肯定のポリティクスに過ぎないのか、どうかということです。
土居さん自身は漱石の言葉を引きながら次のように述べています。
満足は一時のことで必ず幻滅に終るであろう。なぜなら、「自由と独立と己れとに充ちた現代」において、甘えによる連帯感は所詮蜃気楼に過ぎないからである。
しかし一方で、日本はこれまた漱石が生涯にわたって取り組んだ問題ですが、「自由と独立と己れ」からは程遠い国であると言えます。また土居さんの言葉を引きましょう。
日本には集団から独立した個人の自由が確保されていないばかりでなく、個人や個々の集団を超越するパブリックの精神も至って乏しい(…)大体内と外という分け方が個人的なものである(…)内外の区別ははっきりしているが、公私の区別ははっきりしないのである
集団から独立な個人の自由とは、個人的・恣意的に境界付けられることのないパブリックな領域において確立されてくるものです。しかし日本におけるそうした公共精神の不在は「父」の死に重ねて理解できるものですから、そのことに向き合わずに独立な個と公共を称揚するのはナンセンスでしょう。現代の日本人は、いくつも組み敷かれた「内/外」の境界を操作し、乗り越え、「甘え」から「甘え」へと渡り歩いていくことでその命脈を保っています。
成長ということを問題にするのであれば、このイノセント・ワールドを脱した「成人」の舞台――「甘え」とは異なる論理によって統御された公共性の舞台が、その不可能性にもかかわらず試みられる必要があるでしょう。しかし、それはあくまで期待される可能な一つの展開にすぎません。
土居さんは『「甘え」の構造』新版の出版に際し、新しく書き加えられた原稿の中で、「甘え」は本来特別に親しい二者関係を前提とするものであり、現代では人間関係の希薄化とともに「甘え」の現象が見られることがむしろ少なくなってきたと仰っています。そう考えてみれば、赤の他人の集う劇場という場に「甘え」の関係が成立するとき、それはひとまず豊かで幸せなことであるようにも思われます。
母殺しの業
これを「罪」の問題に照射してみると、話は変わってきます。連帯によってただちに消失するような罪悪感は底が浅いと言わざるを得ないからです。とはいえ、日本における罪悪感とは結局「人間関係の関数」であり、寄りかかり合う甘やかな関係からの離反を示すものとしてあるのではなかったか? それなら、罪悪感が他者への甘えによって霧散することは、むしろ自然な展開だということになります。
ここでわたしは、先ほどの議論を撤回する必要に迫られます。『罪と愛』が取り上げる罪の内実は判然としないと述べたのですが、実際には作品は「母殺し」の罪を一貫して描いていました。母と大家の対応は明らかですが、渡邊まな実さん演ずる蜘蛛や自由の女神を含め、『罪と愛』ではさまざまな女性的表象がいたぶられます。少なくとも演劇人の男1について描かれていた、母親に対するある種の罪悪感、地方に残してきて神経症にもなりつつあるという母のもとに帰ることなく、収入のはかばかしくない演劇生活を続けるという、孝行からはかけ離れた状況は、この「母殺し」を直接的に説明するものとしてあります。もっとも、それが作家小田尚稔さんの現状にどれだけ符合しているのかは定かではありませんし、あるいは小田さんはほかにもいくつかの罪を形を変えて作品に秘めていらっしゃるのかもしれません。しかしそのような事実の検証は重要ではありません。
二日目の夜に実施したアウトロダクションでは、観客から「女性が傷ついてばかりの印象を受け、不快感を覚えたが、これは小田さんのミソジニーに由来するものか」という趣旨の質問が上がりました。そのようなジェンダー論的な読解もたしかに試みられる価値がありますが、わたしは寧ろ「母」なるもの一般に癒着する「甘え」の関係からの離反、すなわちある種の「親離れ」を示すものとしてこれを解釈してみたいのです。それは内容面のみならず、舞台の形式面についても指摘できることです。
たとえば『罪と愛』ではダイアローグの分量が増えてその分俳優の視線は内側に閉じ、舞台は完結性の印象を強めています。それどころか、掃除機の音や演奏される音楽によって言葉がかき消されてしまっているシーンも存在しているのです。これは明らかに、観客の気を引き同一化を図る「甘え」と反対の方向へ向かいながら、なお逆説的な仕方で彼らに傾聴を迫るアプローチであると言えるでしょう。
舞台に従事することの「業」が『罪と愛』のひとつの主題でした。そしてこの業こそは、集合性や自他の同一性の安易な肯定からは正当化されえない、たえず舞台の現在において検証されるべき「罪」なのです。
同一性を志向する「甘え」の関係においては、しばしば他者の持つ他者性が見過ごされてしまいます。この他者性にうそをついて、たとえば観客に目を合わせる、声を張り上げる、ここの演技はこんな調子でやってみせれば観客の共感を誘うことができる、そんな風に演技が定型化していくことはどこまでも避けられなくてはならないでしょう。
二日目の夜の回では、男1を演じる加賀田さんの演技が大変素晴らしくて、わたしはそのことを終演後に彼に直接伝えました。すると加賀田さんは驚いて見せて、自分では全く演技に自信が持てておらず、手探りでやっている、ということをおっしゃられていました。本番の舞台で表現をわがものにして見える俳優の方が、実際には演技の軸足が定まらずに本番においてもずっと不安を示しているというのは、おそらく加賀田さんのみならず小田さんの舞台に出演なさる俳優の方に広く妥当する事態なのだろうと思われます。むしろ、その都度その都度の観客のもつ他者性に向き合い、毎回毎回正解を得ようとするその格闘を戦うことの出来る、優れた俳優の方にこそこの種の不安は見られることと思います。
「独り」語りが持つ、観客によりかかる「甘え」の構造は、しかし一方で観客の他者性、その答えのなさを引き受けることにもつながっています。それは人々が明確に区別されることなく溶け合うような「甘え」のイノセント・ワールドに身を置き、それを志向しながらも、すんでのところで立ち止まるこの「母殺し」の舞台の「業」が必然的に要請する形式であったわけです。
※1 『罪と愛』に出演なさった新田佑梨さん「演技の話をしようラジオ」第6回で、同様に『罪と愛』に出演なさっていた渡邊まな実さんが、モノローグにおいては台詞や観客のほかに自身の作り出した「イメージ」、「目に見えないもの」への「リアクション」を通じて演技を行っていると仰っていることは、この点に関連して興味深いことです。
※2 野球ボールを客席側の四方の壁に投げるシーンや、バドミントンの羽をまき散らすシーンなど、客席と舞台の連続性を意識させ、観客を引き込ませる演出は随所に挿入されていました。これらのシーンが示している遊戯性は、後段で論じる幼児性と「甘え」の議論につなげて理解することができます。ほかにも、殺鼠剤という設定のスモッグが劇場全体に広がっていく演出や、その場で演奏される冷牟田敬さんの音楽は、舞台と客席の間の親密な一体感を作り出す効果があったでしょう。
※3 作品はカフカ「変身」に想を得ていますが、ゲァハート・シェーバース『日本から見たもう一人のカフカ』は『「甘え」の構造』を参照しつつ、この小説をまさに「甘え」の観点から分析しています。
※4 「甘え」は日本人に特徴的な心性とされながら、外国人にも時にこれらが指摘できることを土居さんは認めています。ここで提出した「甘え」の演劇理論についても、それが現代日本という具体的な場所性・時代性に密着したものとしてあるのか、それとも場所や時を超えてさまざまな舞台に妥当しうるものとしてあるのか、その判断はここでは保留したいと思います。
※5 日本では天皇をはじめとして、他者に幼児的に依存できるものが社会的に上位に立つ傾向のあることが、土居さんからは指摘されています。父権的でなくむしろ幼児的な権力者としての演出家像を構想することは、クリエーションの在り方を考究するうえでひとつ可能性を秘めているように思われます。