TRANQUIL #THINKTOBER
静かな夜だった。
都市のはざまに、開発と立地と風評の犠牲になった墓標のような廃ビルがあった。繁華街のたった一本裏であるにも関わらず、その両隣のテナントがごく普通に看板をチカチカ点滅させているにも関わらず、人通りの多少もあるに関わらず、そのビルだけは髄液を抜かれたように廃れていた。
7階にあったボウリング場に幽霊が出るらしい。
侵入方法はあるブログに掲載されており、Twetterで拡散されて話題になった。投稿は違法行為とされ炎上したが、ブログ自体は2014年から放置されており以前として残った。
火曜日、ユカとナナエはケイスケに誘われて廃ビルへ向かった。彼は大きなレンズのついたカメラを持っていて、アマチュア廃墟マニアを気取っていた。しかし彼の見つけるものは不思議とバズりがちで、ユカはそういうものをインスタグラムに上げて少し人と違う世界の自分を作り上げることに非常に満足していたし、ナナエはケイスケが好きでしょうがなかった。しかし、ユカはもう6回ぐらいケイスケと寝ていて、それをナナエは知らなかった。
「幽霊って光るの?」
鎖で巻いてある柵を乗り越えて非常階段に侵入した後、ナナエが言った。ユカは「足音すごいよ、バレたらどうすんの?」ととげとげしく答えた。
「写真では光ってたけどあのぐらいの眩しさなら車のライトの反射とかも在り得るよね。そもそも窓ごしだし俺はあれは反射とかだと思うな。心霊現象的なものはあんまり期待してなくて、ボウリング場の廃墟とかってあんまりないしそういう需要が欲しいよね。綺麗じゃないぐらいのほうがいいんだけどこのビル自体営業終わったの2010年みたいだし全然綺麗かも。そうしたら幽霊ぐらい出てくれたほうが都合がいいかもな。事故物件みたいな話も聞かないしどうかなって感じだけど」
錆びて塗装のけばだった階段を上がりきって、五階のドアノブはたしかに取り除かれていた。空洞になったノブ部分に指を突っ込んでぴったりと閉じていたドアを開ける。黴臭い匂いが広がる。
「もうすごいねこれ」
ユカが廊下にスマートフォンを向ける。真っ直ぐ伸びた廊下の向こうにはうっすらと明かりが見える。外の通りはなんだかんだ明るいのだ。その光はトンネルの向こう側にある出口のようにぼんやりしていた。
「足元気を付けてね二人とも」
ケイスケがライトで階段を照らす。七階までは内部の階段で上がっていくしかない。狭い階段には窓がなく真っ暗だった。ナナエは「えっ怖!」と言いながらケイスケにくっつこうとするが、一段飛ばしでどんどん先へ行ってしまうので追うだけで精いっぱいになってしまう。ユカは動画を回しながら、「これからボウリングデートで~す」と小声で踊り場を照らす。埃が積もっていることを除けばただのビルの階段だった。なんの変哲もない。
七階の廊下は真っ暗だったが、三人ともライトをつけていたので気が付かなかった。
「こういうのやってるとピッキングとかうまくなっちゃうんだよね、悪用しないけど」
「あのドア開かない?」
ナナエは防火扉の出入り口を差したが、ケイスケは無視し、ユカも聞かないふりをした。
「こっちの廊下はスタッフのロッカー? すごい、へこんでる」
ユカは腹パンされたように歪んだロッカーを映している。
「誰か知らないけどいくら廃墟とはいえこういうことするの許せないよ、暴走族とかヤンキーがたむろしてラクガキしたりとかさ、ああいうのクールじゃないよね」
「うん、わかる」
「ケイスケ? 開く? なんかあたし汗かいてきた」
「開いた!」
ドアが開いた。目の前がひらける。
22レーンの広々としたフロア。かつてはボールを乗せていたはずの立ち並ぶリターンラック、天井から吊るされたスコアモニター。そして、レーンの彼方には海があった。どこまで広がる、灰色の海が。
レーンは途中から水没していた。ピンを排出していたはずの奥の壁はどこにもない。壁があったはずの場所には今はどこまでも広がる水平線と、塗り潰したような曇天の空、アプローチの板張りへ押し寄せるさざ波。ビルの7階を遥かに超えたおそろしいほど広大で荒涼とした海は凪いでいる。
暗闇に慣れた目には、薄暗闇ですら明るく、レーンの向こうにどこまでも灰色の海が続いている風景はぞっとするほど静かだった。
「なに? なにこれ?」
ナナエがケイスケの背中にすがっている間、「海だよ」ユカは海を撮影し続けた。波が打っている。このボウリングフロアは海岸の一部でしかなく、海はどこまでも果てまでずっと続いているように見えた。あまりにものっぺりとして彩度がないせいで背景のようにも見えるが、打ち寄せる僅かな波と異常な曇り空から差す薄い自然光がその光景が冗談ではないことを語っている。
なんで? とナナエが言う。ユカはそっと「海」に近づいて、水平線を写し、次に自分の手を映しながら波打ち際に触れた。ぬるい水の感触がする。
「水じゃん」
「ちょっと!? ケイスケ」
ユカがスマホを海に向けたまま振り向くと、ケイスケが立っていた。ナナエの静止を振り切って、彼はコンバースのスニーカーで水面を踏み抜いてじゃぶじゃぶと海の中へ入っていく。
「ケイスケ!!!」
ナナエはケイスケを追って、少し躊躇いながらもミュールを脱ぎ捨てて海へ入っていく。ユカは後ずさった。距離を取った。動画を回し続けたまま。フレームにレーンが写る。ボウリング場から広がる海の中にケイスケが遠ざかりながらずぶずぶと沈んでいき、ナナエが彼の名前を叫びながら追いすがるところを映し続けた。
動画は8分33秒続いた。最後には、ケイスケが沈んだ場所から、一筋の真っ白な【光の柱】が立ち上がる瞬間が写っていた。ナナエの頭部を巻き込んで。
スマートフォンは繁華街で見つかった。高校生が拾って交番に届けたのを、後に捜索届を母親が引き取ったのだった。しかし、三人は見つからなかった。水没していたスマートフォンは、乾かしているあいだに塩を噴いて使い物にならなくなった。