アムゴネ・ソードレッグの奇妙な邂逅(未完)
この文章は、もうだいぶ前に断筆したやつの供養です。お盆なので
アムゴネ・ソードレッグは吐瀉物の中で目を覚ました。
ひどい頭痛があり、頭蓋骨の後ろのほうに脳みぞが全部へばりついているような感じがした。視界が紫色に罅割れ、蛍光灯の白い光が非情に網膜を焼き尽くしている。いくら意識だって、目を覚ましているほうがいないよりか幾分ましとはいえ、これ程とんでもないどん底に投げ出されるぐらいなら永眠を選んだかもしれない。だが不満げな意識を押しやり、アムゴネの身体は既に起き上がろうとして、どろどろと人間の胃の腑の臭いがするべたべたの床に手をついていた。立ち上がったところでこれ以上ひどいことにはならないだろうという一抹の打算をしながら。
だがそんなことはなかった。床に転がされて、くたびれたいつもの背広がゲロまみれになっている以上にひどいことがあるっていうのか? あったのだ。まず立ち上がって脳座の位置エネルギーが高まった瞬間に頭痛はひどくなった。今までのが阿波踊りだとしたら今度はリオのカーニバルぐらいのやつだ。そして身体の底からマグマのように込み上げた衝動、それが喉まで達したときには既にアムゴネは身体をくにゃくにゃと折り曲げて嘔吐していた。背広は前も後ろもくまなくクリーニングを必要としないヶ所を失ってしまったのだった。それだけではない。まだある。ドアが開いて、奴らが現れたのだ。
しかもそのときアムゴネはほとんどつんのめるようにしてドアに向かい、胃の底に残った昼間のサンドイッチの最後のひとかけを吐きだしてしまおうとしている最中だった。自然、奴らが姿を現した瞬間、ポンプみたいになった胸をせり上がってきた融解サンドイッチは、霞んだ影のような輪郭の曖昧なロングコートにべっとりへばりついた。
「オゴーッ……ひどい味だ! 昼間食べたときは美味かったのに」
アムゴネは毒づいて目の前に立っている奴らを見上げた。
「こんばんは、みなさんおそろいで。どうしてそんなところにおっ立っているんです?」
おそろいではなかった。アムゴネには三人いるように見えたのだが、一発しかない胃液味のサンドイッチが三人の黒ずくめのコートの同じ位置を同時に汚してしまうなんて奇跡があり得るだろうか? そこに立っていたのは一人の紳士だった。彼は影の粒子で出来た実に、実に高価そうな外套を纏い、イチジクの香りに包まれた本物の紳士だった。紳士はすこやかな姿勢でアムゴネの前に立つと、おごそかな動作で舌打ちし、しとやかに彼の額につばを吐いた。
「貴様、まだ生きておったのか」
実に上等な文句と同時に、紳士はついに仕込み杖を抜いた。すらりとした白刃が姿を表した。
それでようやく、アムゴネはどうして自分がこんなところに居たのかすっかり思い出したのだった。
「待って!」
アムゴネが叫ぶのにも関わらず、紳士は必殺の一太刀で彼を切り伏せた。思わずのけぞって転んだアムゴネの左足は、未練の欠片も残さずすぱっと彼の足から切り飛ばされ、きりもみ回転しながら壁に突き刺さった。
「運の良いやつめ!」
紳士はさっそく二の太刀を構える。
「ああ、靴が! 高かったのに!」
アムゴネは悲鳴を上げて立ち上がった。そして振り上げた左足で一撃を受け止める。鞘の先を失った左足は細い針のような剣の姿をしていた。
体重の乗った蹴りは紳士の振るった仕込み刀を下し、刃と刃の擦れ合う凄まじい金属音と火花を散らしながら叩き落とした。そのまま左足の先で地面を叩き、勢いよく右足の鞘を脱ぎ捨てる。そこにも左足と同じような細剣があった。脱ぎ捨てた勢いのまま、振り子の原理で返す右足でアムゴネは紳士の腕をはねた。
紳士は下品な唸り声を上げた。腕からは鮮血が迸った。
「待ってって言ったのに……」
アムゴネは心底すまなそうに息を吐く。
「僕らは名乗りを上げないで剣を抜くのは礼儀違反なんです。でもあなたも名乗らずに剣を抜いたんだから、これはおあいこになりますよね?」
「畜生」
紳士は落ち着いた顔を使ったあとのトイレットペーパーのように丸めて言った。
「私は名乗ったじゃないか。三日も前に!」
「そんな……そんなことはないんです。僕は三日前はまだセントラルにいましたし、あなたに会うのは今日がはじめてです」
「何を言っているんだ!? 君は自分が何をしたかという自覚が……」
「残念ながら。だって僕はその人ではないんです、その人にはちゃんと足がありましたよね?」
アムゴネは右足を振り上げた。
「僕は謝罪代理人のアムゴネ・ソードレッグです。お名前を伺えずに申し訳ありません。でも僕はできれば早く帰りたいんです、できるだけ早く!」
そうして足を降り下ろした。紳士はまっぷたつになった。
息音が絶え、アムゴネは最後に残ったものを吐き出すようにため息をつく。つきながら次第に霧散して行く影の外套の内側を漁った。いまにも消えそうだった内ポケットから薄い金属製の名刺が出てきた。
「僕はうまくやった。彼の名前を聞けなかったのは事故だし、それを知るものは誰もいない」
アムゴネは呟きながら立ち去ったが、それは事実ではなかった。彼を包み込む薄暗いテナントビルの誘蛾灯を透かし、波状の光の隙間に指を捩じ込んだ隙間からその様子を覗き混んでいるものがいた。しかしそのマイクロサイズのまなざしに気づくものはなく、アムゴネはさほど深く考え込むこともなくさっさと101号室の扉を開けた。
*
緩慢な火曜の夜は祭りの灯に沈んでいた。
鮮やかな0と1に満たされる無数のがやがやは、コンテンツの熱量に応じて強弱のついた明暗を繰り返している。重たい政治的ニュースは暗渠に滴るまで流れ続け、ヘリウムを詰め込んだ軽快なジョークは紙吹雪になって夜の垂れ込めた狭いビルの谷間を舞う。いつもの裏通り(バックヤード)だった。
どこにもつながらない扉を開ければ誰もがこの通りに姿を見せる。通行違反が起こった際にペナルティとして進入禁止を受けた上で現在地座標へ強制送還される構造には穴があり、現在地から現在地へ向かう扉を開ければ矛盾の分水嶺に弾かれ深い谷間へ落された。裏通りはそういう場所だ。故にここを根城にするものどもは「派遣」と呼ばれる。
アムゴネが褪せた極彩色の灯篭の隙間から人混みに雪崩込むと、ポケットで長いこと煩く鳴り続けていた電話にようやく出た。ブツッと透明なラインに接続される音と同時に、耳元にノイズが溢れ出す。受話器越しに珈琲を啜る音がした。
『……前線前線、あー最前線、あー……』
「マイケル。戻ったよ。仕事が終わった」
『……感度良好。ああ、アムゴネ・ソードレッグ。お疲れ様。易い仕事だったろう?』
「安い仕事だったね。背広のクリーニング代でトントンさ」
『またババを引いたのかい。つくづく運がないな』
「いつものことじゃないか。もう慣れた」
アムゴネは背広を脱ぎ捨てた。手放された吐瀉物まみれのそれは情報の奔流の中に吸い込まれてすぐに見えなくなった。
余りにも大勢が歩いているので、裏通りの熱量はパンク寸前だった。屋台はどこもかしこも満員で、立ち飲みする隙間さえ見当たらない。それでも紫色の走査線を潜った先にはまだ隙間が遺されていた。ここは少し煩雑で、あまりしっかりした意識のある人間は近寄りたがらない。だからその流れはほとんど一方通行めいて外へ向かっているのだが、アムゴネの行きつけはこの中にあった。ぼんやりと影の中に浮かぶ引き屋台の暖簾からは常連客の大きな背中がはみ出している。
「簡単なことじゃない。たいていのことはまず始めるのが一番難しいんだ。やっちまえば何も関係なしにただ、やるだけなのに、やり始めるまではそれが死ぬほど難しいような気持ちが抑えられないんだ」
「やあ、ソードレッグさん」
「やあ親父さん」
アムゴネは屋台主に挨拶をして席についた。すぐ隣に座って、獣のような声で遠くへ向かって喋り続けている男を後目に。
「だってそうだろ。死ぬほど難しい。やってないことってのはやり始めるまでどう頑張っても絶対にやれないんだからな……」
その男は常連客で、呑み過ぎるといつも一人で喋り続けてしまうようになる悪癖があった。アムゴネは彼が、暖簾をくぐるたびいつもそこに居ることに凄まじい胆力を感じていたが、屋台主によると「あんたが訪ねてくる日に限って、こいつはいつも少し早く来る」のだそうだ。奇妙な偶然について尋ねると、男は「俺は特別だからな」と答えた。
それが事実であることは一目に分かる。黒い法被から覗く逞しい腕は食用と見まがうのっぺりとした皮膚に覆われ、それ一枚を隔てて筋肉は縄のように隆起しており、ほとんど剥き出しに等しい。ちょっと動くのを眺めれば骨の繋ぎ方や関節の位置までもろに分かってしまうだろう。首は異様に細く、脈の打つのが薄い皮膚ごしに見えるほどで、頭部は有機質の毛に覆われた不完全な球体である。感覚器のほとんどがこの頭部に集中しているらしく、肯定ひとつするにも必ず彼は頭部を揺らして頷く。特に二つの小さな眼は正面を観測することのみに特化したいかにもの特別性だ。身体は縦にひょろ長く、足と思しき部分は歩くことだけを目的としてそぎ落とされているうえに、自身の体重以上の質量を支える用途を持たないように見える。
一見して何をコンセプトにしているのか理解しかねるその男は、見るからに人間ではなかったが、被造物としては稀有なほど能動的に会話した。それとも、裏通りを空ろな目で行くあの被造物たちも、ひとたび暖簾を潜ればこのぐらい饒舌に喋り出すのだろうか? それにしてもこの男の、舌と同様にぐるぐるとよく回る目玉は、面白いほど卑屈な自信に満ち溢れていた。まるで自分がこの世界において唯一であり、自分を悩ませる思考の困難こそ己の価値の証明であるとでも言わんばかりに。
『次の仕事はどうする? フロントからも近頃は毎日のように代理人を寄越してほしいって連絡が回ってくる』
電話口のマイケルはアムゴネが注文をしている間も畳み掛けるように喋り続けた。それが彼の仕事なのだ。
「ホントか?」
アムゴネは水をがぶがぶ飲みながら言った。
「品が落ちたなあ」
『あそこまで上がれる代理人は正直、あんまり多くないからな』
「うん、それは事実かもしれないが。だからと言って連中が積極的に責任逃れをする理由にはならないと思うけど」
『君の意見には同意すべき点が多い気がするね』
「マイケル、君は疑問を持ったことはないのか?」
アムゴネは静かに言う。
「なぜ彼らが代理人なんてまどろっこしいものを必要とするのか。同じ階層の人間同士で解決することができないのか。なぜ代理人の需要が右肩上がりに増えているのか。なぜそれなのに僕の給料はぜんぜん上がらないのか」
『給料は上がってる。ただ、同時に物価も上がってるんだ』
「それじゃあ上がってないのと同じじゃないか! バックヤードにも人や物が溢れ返ってる。こんなにも多くのものを余計としてゴミ箱に捨てたっていうのに、なぜ彼らは今さらになってそれを取り戻そうとするんだ?」
『それは……』
電話口のマイケルは暫く、考え込むように押し黙る。
ふうと息をついて、そこで初めてアムゴネは、隣に座る被造物の男が自分のほうをジッと見ていることに気が付いた。
「誰と喋ってんだ?」
常連客は言った。大気を震わせるような声だった。
「交換手さ。仕事の電話だよ」
「電話? 電話ね」
彼は顎のあたりを撫でた。
「交換手が入用なのか」
アムゴネは一瞬、彼が何を意図して喋っているのか理解しかねたが、被造物に電話のしくみを理解することを求めるのはさすがに気の毒だろうと、彼
(もうやめた)